た時にも、やはりそれと関係のあるらしいあることがあった。
「おや、一緒に連れて来なかったんですか。」
 僕等の俥が玄関に着いた時、あわてて出て来た母が、父と僕とを見てがっかりしたような風で言った。僕のほかに父が誰を連れて来る筈だったのか、その時には、僕はこれと柏崎でのことを結びつけて考えることができなかった。
 しかし、もう事は明白になった。きっと近いうちに礼ちゃんがうちに来るのに違いない。そしてうちからどこかへお嫁に行くのに違いない。僕はそう思うと急に胸がどきどきして来るのを感じた。もう長い間まるで忘れてしまったように思いだしもしなかった、礼ちゃんのことが、わくわくと胸に浮んで来た。そして、どうしてもこれを確かめなければならないような気持になって、飯の時のほかめったに行くこともない母家の母の室へ行った。
 母はどこかの女のお客と話しながら、親子で女中していた二人の客に手伝わして、何だか知らないが綺麗な模様のある布団に綿を入れていた。そして「ほんとに綺麗な模様ですわね」とか、「こんないい布団で寝たらどんなにいい気持でしょう」とかいうようなことをその女中達が言っていた。
「誰の布団?」
 僕がはいって行ったことにはまるで無関心のような顔つきをしているみんなの中へ、僕は誰にともなくこう問いかけた。みんなが異常な親しみをもってその話題にしているこの布団が、誰のために、何のために造られているのか、実際僕にはちっとも見当がつかなかった。
「お前、千田さんの礼ちゃんを知っているね。こんどあの子がお嫁に行くの。そしてこのお布団はね、その時礼ちゃんが持って行くの。あしたはきっと礼ちゃんがお母さんと一緒にうちへ来るでしょう。」
 母のこの返事は一ぺんに僕の顔を真赤にしてしまった。僕はその赤い顔を人に見られないうちにと思って、急いで自分の室へ逃げて帰った。そして室へはいるとすぐ、机の上に両肱を立ててしっかりと頭を押えて、今見て来た布団のはでな色を遠のけようと思って目を閉じていたが、その目からはいつの間にかあつい涙がぽたりぽたりと落ちていた。
「人の恋人をうちで世話してよそへやるのもひどいが、人の目の前でその結婚の時の布団を縫って見せるなんて実にひどい。」
 ついさっきまではもう二、三年も思いだしもしなかった、ほんの幼な友達のことを、こうして僕はまるで自分の恋人のように考えだしたのだ。そして、それを今よそへ取られるのだというような気持にまでもなったのだ。

 しかしその翌日、はたして礼ちゃん親子がやって来てからは、この失恋に似た妙な気持よりも、現に彼女と一つ家に生活しているという喜びの方が、よほど強かった。
 彼女等は、僕の室の窓から二間ほどの庭を隔てた向うの座敷をその室にあてがわれた。その窓からでも、彼女等の顔は、向うの障子のガラス越しに見えるのだ。彼女は来るとすぐ、いずれ母から何とか注意があっただろうのにも構わずに、僕の室を訪ねてくれた。そしてひまさえあれば、というよりもむしろ彼女の母さんの隙を窺っては、僕の室へ遊びに来た。
 彼女は今すぐ嫁に行くのだというような顔はちっともして見せなかった。僕がそんな方へ話を持って行っても、すぐ僕の口をおさえるようにして、話をほかへ移してしまった。彼女はただもうほとんど治った僕の傷だけを、始終気にした。そして学校を退学されたことについては、「いいわ、軍人よりももっとえらい人になりさえすればね」と言っただけで、かえって僕の将来を祝福しているようにすら見えた。僕も彼女には僕の将来の方針を打ちあけた。
「わたしなんか、学校の先生も師範学校へはいれって勧めて下さるし、わたしもそうしてもっと勉強する気でいたんだけれど、もう駄目だわ。あなたなぞは、これからが本当の勉強なんですもの。」
 彼女はこう言って僕を励ましては、僕の少年時代の才能を賞めたてその頃の無邪気ないろんな追憶に移って行った。僕も彼女がすぐ結婚するんだということもほとんど忘れて、恋人とでも話しするような甘い気持になって、彼女と一緒にその追憶に耽っていた。
 ある日僕は、彼女の室で、彼女親子と母とが何事かしきりにささやき合っているのにきき耳を立てた。
「どうして、おばさん、気が変などころじゃあるもんですか。わたし、しょっちゅう遊びに行ってお話ししているんですけれど、そんなところはこれっぱかしでも見えませんわ。そして、これからが本当の勉強だと言って、一生懸命になって勉強していらっしゃるんですもの。」
「そうかね。わたしはまた、夜いつ目をさまして見ても、きっと離れの方で本の紙をめくる音がして、はばかりへ行って見ても離れでかんかんあかりが点っているので、何だか気味がわるかったくらいよ。」
「ええそうして毎晩遅くまで勉強していらっしゃるんだわ。そして近いうちに東京へい
前へ 次へ
全59ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング