になかった。そして、女中どもは勿論妹どもや弟どもにまで堅く言いつけて、決して離れへはよこさなかった。
「兄さんは少し気が変なんだからね。決して離れへは行くんじゃないよ。」
 これはあとで聞いた話なんだが、母はみんなにそう言っていた。そして小さな妹どもや弟どもは、その恐いもの見たさに、よくそっと離れに通う縁側まで来ては、何かにあわててばたばたと逃げだして行った。
 ていのいい座敷牢にあったのだ。
 が、飯だけは母家の方へ行ってみんなと一緒に食った。みんなは黙ってじろじろ僕の顔を見ているし、僕も黙って食うだけ食って自分の室へ帰った。
 僕の頭の中にはもう、学校の士官のことも下士官のことも、学友の敵味方のことも何にもなかった。したがってまた、それに附随して起って来る兇暴な気持もちっとも残っていなかった。幼年学校の過去二年半ばかりの生活は、またその最近の気ちがいじみた半年ばかりの生活は、ただぼんやりと夢のように僕のうしろに立っているだけであった。そしてその夢がまだ幾分か僕を陰鬱にしていた。が、僕の前には、新しい自由な、広い世界がひらけて来たものだ。そして僕の頭は今後の方針ということについて充ち満ちていた。
 学校での僕のお得意は語学と国漢文と作文とだった。そして最近では、学課は大がいそっち除けにして、前にも言ったように当時流行のロマンティクな文学に耽っていた。そして僕はその作物や作者の自由と奔放とにひそかに憧れていたのだ。
「君等は軍人になって戦争に出たまえ。その時には僕は従軍記者になって行こう。そして戦地でまた会おう。」
 僕は軍人生活がいやになった時、よく学友等とそんな話をした。が、あながち新聞記者になろうというのではなく、ただぼんやりと文学をやろうと思っていたのだ。そして戦争でもあれば、従軍記者になって出かけて行って、「人の花散る景色面白や」というような筆をふるって見たいと思っていたのだ。
 僕はまず高等学校にはいって、それから大学を出ようと思った。そしてその前に、どこかの中学校の上級にはいって、その資格を得なければならないと思った。が、それには、もう英語をほとんど忘れてしまった僕は、どこかフランス語をやる中学校を選ばなければならなかった。そしてその中学校は学習院と暁星中学校と成城学校との三つしかないことを知っていた。
 僕はその夏東京で買った『遊学案内』をひろげて見た。そしてそれの中学校の上級にはいるためのいろんな予備学校のあることが分った。中学校の五年の試験を受けるには僕の学力はまだ少し足りなかった。で、僕はまずすぐに上京して、どこかの予備学校にはいって、そして四月の新学年にどこか都合のいい中学校の試験を受けようと思った。
 うちへ帰って二、三日の間に、これだけのことはすっかりきまった。あとはもう、時機を見て、それを父に話すだけのことだ。
 僕はその時機がただちに来るだろうことも、また父がきっとそれを承知するだろうことも、楽観して、黙ってその時の来るのを待っていた。そして終日、離れの一室に籠って、近い将来の東京での自由な生活を夢みながら、自分の好ききらいには構わずに、一人で一生懸命いろんな学課の勉強をしていた。

 が、その間にも、このごく平静な気持を乱すたった一つのことがあった。それは、母家の方がいつもよりはよほど客の出はいりが多くて、そして妙ににぎやかにざわついていることだった。母は、できるだけ僕の気にさわらないように自分にもまたみんなにも勤めさせて、僕にはごくやさしくしてくれながらもできるだけ口数は少なくしているくらいだのに、その顔には憂いの暗い色よりもむしろ喜びの明るい色の方が勝っていた。そしてそのお客とはしゃぎ騒ぐ声がよく離れにまで聞えた。僕はうちに何かあるんだなと思った。そして、ふと、ある日、母とお客との話の間に「礼ちゃん」という言葉を聞きとめた。
「礼ちゃんがうちからどこかへお嫁へ行くんじゃあるまいか。」
 僕はすぐそう直覚した。そういえば、いろいろ思いあたることもある。汽車で柏崎を通過した時、見覚えのある丈の高い頬から顎に長い鬚をのばした礼ちゃんのお父さんが軍服姿で立っていた。
「どうした。一緒に連れて来なかったのか。」
「うん。ちょっと都合があるんで、少しのばして、親子一緒にやることにした。」
 父と礼ちゃんのお父さんとの間にそんな会話が交わされた。僕は何のこととも分らない、この親子一緒というのにちょっと心を動かされながら、父の大きな黒いマントで白い病衣のからだを包んで、黙って礼ちゃんのお父さんを盗み見していた。名古屋からどこへも寄らずに、こうして汽車の中を父と二人で黙って通して来た僕には、この会話が多少気になりながらも、発車したあとでそれを父に問いただすことはできなかった。
 それから、いよいようちに着い
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