近が変っていることは論はない。そして僕はそこを出るとすぐ、また新しい華奢な監獄のような製糸場が聳えているのを見て、ここにもやはり産業革命の波が押しよせたなとすぐ感じた。しかしそれは嘘だった。その後町のどこを歩いて見ても、その製糸場以外には、工場らしい工場一つ見つけ出すことはできなかった。新発田の町はやはり依然たる兵隊町だった。兵隊のお蔭でようやく食っている町だった。
 製糸場は大倉喜八郎個人のもので、大倉製糸場の看板をさげていた。そしてこれは喜八郎の営利心を満足させるよりも、むしろその虚栄心のためのものであるようだ。喜八郎は新発田に生れた。何かで失敗して、近所じゅうに借金を残して、天秤棒一本持って夜逃げしたんだそうだ。が、あの通りの大富豪になり、ことには男爵になるに及んで、その郷里にこの製糸場と、そのすぐそばの諏訪神社の境内に自分の銅像を立てたのであった。
 けれども、ここにもやはり、道徳的にはもう資本家主義が漲れて来ていた。喜八郎が自分の銅像を自分で建てることは喜八郎一人の勝手だ。しかしこの喜八郎の肖像が、麗々しく小学校の講堂にまで飾ってあるのだ。

 父の家は十幾軒か引越して歩いた。そしてその中で三、四軒火事で焼けたほかには、ほとんどみな昔のままで残っていた。僕はその家の前を、ほとんどその引越し順に、一々廻って見た。
 最初の家は焼けて無かった。しかしこの家については何の記憶もなかった。
 その次の家も焼けて無かった。小学校へはこの家から通い出したのだから、七つか八つまでの頃だと思う。隣りに大川津という大工がいて、そこに僕よりも一つ二つ年上の男の子と、やはりそのくらい年下の女の子といた。僕はその二人と友達だった。
 が、僕がそこで思い出したのは、この二人の友達のことではなかった。それは、もう一人の、そこから四、五丁離れたところにいた女の友達のことだった。この友達のことは、こんごもたぶん幾度も出て来るだろうと思うが、かりに光子さんと名づけて置く。
 光子さんとは学校で同じ級だった。僕は何となく光子さんが好きで仕方がなかった。しかしお互いの家に交際があるのではなし、近所でもなし、ちょっと近づきになる方法がなかった。そして学校では、ぶつかりさえすれば、何かの仕方で意地悪をしていた。
 ある日僕は、家にいて、急に光子さんの顔が見たくて堪らなくなった。そしてそとにいた大川津の妹の顔をいきなり殴りつけて、その頭にさしていた朱塗りの櫛をぬき取って、それをしっかと握ったまま、光子さんの家の方へ駈けていった。光子さんはうまく家の前で遊んでいた。僕は握っていた櫛をそこへほうりつけて、一目散にまた逃げて帰った。

 三番目の家は、三の丸という町のつき当りの、小学校のすぐそばであった。学校は改築されてすっかり変っていたが、その家はもう大ぶ打ち傾きながらも三十年前そのままの面影を保っていた。
 僕はしばらく門前にたたずんで、玄関のすぐ左の一室の窓を見つめていた。それが僕の室だったのだ。
 窓の障子はとり払われていて、その奥の茶の間までも見えた。その茶の間と僕の室との間にも障子があった筈なのだ。そして僕の思い出はこの障子一つに集まった。
 何をしたのかは忘れた。が、たぶんマッチで何か悪戯をしていたのだろう。母にうんと叱られて、その口惜しまぎれに、障子に火をつけた。障子は一度にパァと燃えあがった。母は大声をあげて女中を呼んだ。そして二人であわてて障子を押し倒して消してしまった。

 この家から道を距てたすぐ前は、尋常四年の時の教室だった。僕はその教室のあったあたりを慄えるようにして眺めた。
 受持の先生は島といった。まだ二十歳前後だったのだろう。ちんちくりんの癖に、いつも妙に口もとを引きしめて、意地悪そうに目を光らして、竹の根の鞭で机の上をぱちぱち鳴らしていた。何かというとすぐにそれで打つのだった。僕はほとんど毎日のようにこの鞭の下に立ちすくんだ。そして僕は、その事情はよく覚えていないが、この先生のお蔭で算術が嫌いになったような気がする。
 その後五、六年して僕が幼年学校にいた頃、暑中休暇に、ふと道で東京でこの先生と出っくわしたことがあった。昔と同じように口もとを引きしめて意地悪そうな目つきはしていたが、僕よりもずっと背の低い、みすぼらしい風をした、小僧のような書生だった。
 この学校の先生で覚えているのは、もう一人、斎藤というもういい加減な年の先生だった。二年か三年の時の先生だ。いつも大きな口をあけてげらげら笑いながら、いやに目尻をさげて女の生徒とばかり遊んでいる先生だった。よくいやがる光子さんなどを抱きかかえては、キャッキャッと言わしていた。
 そして何か悪戯をすると、きっとその罰に、女の生徒の教室に立たした。教壇の上にあがらして、一杯に水を盛った
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