とんど結婚を禁ぜられていたようなもので、結婚すると三百円の保証金を納めなければならなかった。父はそれができないで、母の姙娠が確定するまで結婚届が出せなかったのだそうだ。そしてそれと順送りに僕の出生届も遅れたのだそうだ。
 が、父はまたすぐに近衛に帰った。
 そして僕が五つの時に、父と母とは三人の子供をかかえて、越後の新発田に転任させられた。父はこの新発田にその後十四、五年もくすぶってしまった。僕も十五までそこで育った。したがって僕の故郷というのはほとんどこの新発田であり、そして僕の思い出もほとんどこの新発田に始まるのだ。

 もっともその以前東京にいた時のことも少しは記憶している。
 家は番町のどこかにあった。門の両側に二軒家があって、父の家はその奥にあった。そして門のそばのどちらかの家に、たしかお米さんという名の、僕より一つ年上の女の子があった。僕はそのお米さんと大仲好しだった。
 お米さんはもう幼稚園へ行っていた。僕はまだだった。お米さんは学校で唱歌を教わって来ては、家へ帰って大きな声でそれをおさらえした。歌を何にも知らない僕はそれが癪にさわって堪らなかった。そして向うで何か歌い出すたびに、僕はせい一ぱいの声で、ただ
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雨こんこん
雪こんこん
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 とだけ、幾度も繰りかえしては怒鳴りつづけていた。

 が、五つの春から、僕も幼稚園に行くようになった。そして毎日お米さんと手をひいて、富士見小学校へ通った。
 しかし、その幼稚園がはたして富士見小学校附属のであったかどうかは、実は断言することができないんだ。ただ、いつかふいとその前を通ったら、どうも見覚えがあるので、中にはいって見た。するとそれが長い間僕の頭の中にあった幼稚園そのままなんだ。で、僕はそれがこの富士見小学校附属のだと、ひとりで決めてしまったのだ。
 この幼稚園でのことはほとんど何にも覚えていない。ただ、一度女の先生に叱られて、その顔に唾をひっかけてやったことがあるように思うが、これはその後母が話したのを覚えているのかも知れない。
 唾では、その後も一度、小学校の女の先生にひっかけて泣かしたことがあった。

 父が勤めていた連隊は青山練兵場の奥の方にあった。父は折々週番で帰って来なかった。ある日、たぶんその週番が三日目四日目と進んで大ぶさびしくなった頃だろう、例のお米さんを連れ出してそっと青山に出かけて行った。練兵場にはいった頃に、お米さんはもう歩けないと言って泣き出す。そこへ犬が吠えついて来て僕も泣き出す。しまいには二人で抱き合って声を限りに泣いていた。そして通りかかった兵隊になだめられて、ようやく父のところへ連れて行かれた。

 新発田の連隊へ送られるのは、多くは何かのしくじりがあって、島ながしにされるのだと聞いたことがあった。新発田ばかりではない。遠い地方の田舎へやられるのは、多くはそうであったのかも知れない。
 もうよほど後のことであるが、家に大勢士官が集まった。父はその士官等に、山田の伯父から送って来た葉巻をご馳走した。しかしそのお客の中で、この葉巻を満足に吸ったものはほとんど一人もなかった。みんな太い方を口へ持って行って、とがった先きにマッチの火をつけようとした。新発田というのはそんな田舎だったのだ。
 しかし僕は父が何の失態で新発田へ逐いやられたのか知らない。週番で宮城につめていた時、何かの際に馬から跳ね飛ばされて、お濠の中に落っこちて、泥まみれになって上って来た。それを陛下がご覧になって、「猿じゃ猿じゃ」と笑い興ぜられたことがあったそうだ。しかしこれは父の光栄であって、決して失態ではなかろう。実際父はちょっと猿のような顔をしていた。

 が、とにかく父は新発田に逐いやられたのだ。
 父は、やはり同じ近衛から新発田へやられるもう一人の下士官と一緒に、東京を出た。僕はその旅の中で、碓氷峠を通る時のことだけを覚えている。碓氷峠にはまだアプト式の鉄道も布かれてなかった。そしてその海抜幾千尺か幾里かの峠を、僕等は二台のガタ馬車で走った。一台には父の同僚の家族が乗っていた。親子三人のようだった。もう一台には僕等が乗っていた。父と母とは各々一人ずつの妹を抱きかかえていた。僕は一人でしっかりと何かにしがみついていた。折々馬車が倒れそうに揺れる。下を見ると、幾十丈だか知れない深い谷底に、濃い霧が立ちこめている。僕は幾度胆を冷やしたか知れない。

 僕はこの自叙伝を書く準備をしに、最近に、二十年目で新発田へ行って見た。その間には、もう十幾年か前に鉄道がかかって、そこに停車場もできている。ほとんど面目一新というほどに変っているだろうと期待して行った。そしてほとんどどこもかも、まるで二十年前そのままなのに驚かされた。
 停車場の附
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