生れつきの吃りであったらしい。そして小学校の頃には半分唖のようだったことを記憶している。その吃るたんびに母に叱られて殴られたこともやはり前に言った。
父はそれを非常に心配して、「吃音矯正」というような薬を本の広告で見ると、きっとそれを買って僕にためして見た。が、いつもその効は少しもなかった。
こう言うとよく人は笑うが、僕には一種ごく内気な恥かしやのところがある。ちょっとしたことですぐ顔を赤くする。人前でもじもじする。これも生れつきではあろうと思うが、吃りの影響も決して少なくはあるまい。また、言いたいことがなかなか言えないので、じりじりする。いら立つ。気も短かくなる。また、人が何か笑っていると、自分の吃るのを笑っているのじゃあるまいかと、すぐ気を廻す。邪推深くなる。というような精神上の影響がかなりあるように思う。
が、もう一度北川大尉の話にもどる。
ある晩、学校のすぐ裏の裁判所から火事が出た。僕等は不時呼集の訴えるようなラッパの声で目がさめた。学校の教室と塀一つで隔てて隣り合った登記所が燃えていた。
三年生はすぐポンプを出して消防に当った。
二年生はあちこちの警衛に当った。
北川大尉は、それぞれの命令を終ると、「大杉!」と僕を呼んで、さらに五、六人組の他の四人とほかに一、二名呼んで、すぐ御真影を前庭へ持ち出して、その警護をするようにと命じた。僕等はそれを非常な光栄と心得て、喜んで飛んで行った。
そこへ、しばらくして不時呼集で駈けつけた何とかいう連隊長が来て、僕等の立っている植込のそばで小便をしようとした。
「連隊長殿、ここに御真影があります。」
僕は大きな声で怒鳴りつけた。連隊長は恐縮して、敬礼して、立ち去った。僕等は非常に緊張した心持で、朝までその御真影のそばに立ち尽した。そして僕は、その間、北川大尉に対するふだんの反感をまるで忘れていた。
また、その後、と言っても僕が幼年学校を退校した後のことであるが、僕よりも一年上だった田中という男が、喧嘩で中央幼年学校を退校させられて、僕の下宿にたよって来た。田中は北川大尉と同国の伊勢だった。で、田中のおやじさんは心配して北川大尉を訪ねた。
「大杉と一緒にいるんですか。それならちっとも心配は要りません。」
田中のおやじさんは、それで安心して、息子のところへ学費を送って来た。
僕は田中のおやじさんのこの手紙を見た時、どういうつもりなのか、北川大尉の気持がちっとも分らなかった。
下士どもの僕に対する追窮はますます残酷になった。そしてついに、もう一度、あぶないところで退学されかかった。
四月の半ば頃に、全校の生徒が、修学旅行で大和巡りに出かけた。奈良から橿原神宮に詣でて、雨の中を吉野山に登って、何とかというお寺に泊った。第二期生だけがほかの宿で、第四期生と僕等とが一緒だった。
修学旅行や遊泳演習の時には、それがほとんど毎晩の仕事であったように、「仲間」のものは左翼や下級生の少年を襲うた。その晩も僕等は、坂田と一緒に、第四期生の寝室に押しかけた。
その途で僕は、稲熊軍曹がその室のふすまの隙間から、僕等を窺っているようなのを察した。が、そうした場合によくなるようになれという気になる僕は構わず目ざす方へ進んでいった。
しばらくすると、広い室の向うの障子が少し開いて、そこから軍曹らしい顔が見えた。僕はある少年の(十一字削除)いたところであった。軍曹の顔が引っこんだ。まだその辺をうろついていたらしい坂田は、急いで反対の方の側の障子から逃げた。僕は黙って軍曹の引っこんだあとを見ていた。
軍曹は曹長を連れて来た。そしていきなり僕を引っぱって行った。
その晩はそれっきりで何のこともなく過ぎた。翌日は多武峯を裏から登って、向うの麓の桜井に降りた。僕等は同期生の右翼だけでそこの小さな宿屋に泊った。おはちを三度ばかり代えさせたりして大いに騒いだ。が、まだ何のこともなかった。僕等は処分なしかなとか、学校へ帰ってからだろうとか話していた。
その翌日は長谷の観音から三輪神社に出た。そしてこの三輪神社の裏の森の中で、とうとう来なければならないことが来た。校長の山本少佐が、全生徒に半円を画かせて、厳かに僕に対する懲罰の宣告を下した。罰は、重営倉十日のところ、特に禁足三十日に処すというのだ。
六
僕はこの懲罰がどうしてあんなに僕を打撃したのかよく分らない。僕は生れて初めて、そして恐らくは絶後であろうと思うが、本当に後悔した。三十日間の禁足をほとんど黙想に暮した。そして従来の生活を一変することに決心した。
まず煙草をよした。そして今までは暴れ廻ることに費していた休憩時間を、多くは前庭の植物園に暮した。
学校の前庭は、半分が器械体操場で他の半分が立派な植物園だった。温室
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