が咄嗟のお祝いの御馳走だったのだそうだ。
食事が済むとみんなは講堂に集まった。そこには、正面に大きなアジア地図が掛かっていて、支那の遼東半島が日本と同じ赤い色で色どられていた。学校じゅうの武官と文官とが左右にならんだ。そこで今言った教頭の「報復」の話が始まったのだった。
教頭の講演が済むと、こんどは名古屋の東の町はずれにあたる、陸軍墓地へ連れて行かれた。北川大尉を始め学校の他の士官等は、その多くの戦友の墓をここに持っていた。そして彼等はその墓の一つ一つについて、その当時の思い出を話して聞かした。
「これらの忠勇な軍人の霊魂を慰めるためにも、われわれは是非とも報復のいくさを起さなければならない。」
士官等の結論はみな、いわゆる三国干渉の張本であるロシアに対する、この弔い合戦の要求であった。僕等はたぎるように血を沸かした。
間もなく、僕は初めての暑中休暇で新発田へ帰った。
ある日ふと父の机のひき出しを開けて見たら、「極秘」という字の印を押した、状袋が出て来た。封が切ってあるので僕はすぐ披いて見た。それは、当時の参謀本部の総長か次長かの何とかの(四字削除)ら各師団長および各旅団長に宛てたもので、(十七字削除)、そのつもりで将校や兵の教育をしろ、という命令風のものであった。
僕はすぐに指を折って数えて見た。三十七年と言えば、僕がちょうど少尉になった頃のことだ。僕は躍りあがって喜んだ。
父の机の上には、ロシア語の本だの、黒竜会の何とかいう雑誌だのが幅をきかしていた。
(が、ここまで書いて来て、この記憶があるいは幼年学校入学以前のことでなかったかという疑いが出て来た。それは、これが片田町の家の、父の室での出来事であったように思われるからである。その頃から父は旅団副官をやっていた。幼年学校にはいるその年か前年かに、僕の家は尾上町に引越した。どうもこの尾上町でのことではなかったようだ。すると、ロシアに対する報復ということを教えられた時にそれを思い出して、そしてその思い出がかえって後の事実のように記憶されて来たのかも知れない。しかし、僕がその(四字削除)を見て、少尉になってからのことだと喜んだのは、確かに事実である。そして僕は、この「極秘」ということについてすでに何か知っていたものと見えて、その喜びを自分一人の胸の中にたたみ込んでかつて誰にも話したことがなかった。)
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