静まってから左翼の方の寝台へ遊びに行くこともやはり東京から来た先輩に教わった。「仲間」の仕事というのは、これが一番主なことであったのだ。
この東京から来た先輩の中には、もっとも「仲間」ではなかったが乃木将軍の息子もいた。からだは第一期生じゅうで一番大きかったが、学科は一番できなかった。そしていつも大きな口をにやにやと微笑ましていた。
が、そんな「武士道の迷行」へばかりでなく、僕はまた本当の武士道へもまじめに進んで行った。
何とかいう文学士の教頭が、倫理の時間に、武士道の話をした。それは、死処を選ぶということが武士道の神髄だ、というのだった。
僕はその話にすっかり感服した。そして僕の武士道を全うするためには、僕自身の死処をあらかじめ選んで置かなければならないと決心した。それ以来僕は古来の武士の死にかたをいろいろと研究し出した。何かの本を読んでは、これはと思う武士の死にざまを、原文のまま写し取った。そしてその写しは、たしかに一巻の書物くらいにはなっていた。
そのいろんな死にざまの中で、僕の心を一番動かしたのは、戦国時代の鳥井強右衛門のはりつけだった。というよりもむしろ、そのはりつけの図に題した、誰だかの「慷慨赴死易、従容就死難」という文字だった。
「よし、俺も従容として死に就いて見せる。」
僕は腕を扼して自分で自分にそう誓った。
やはりこの教頭の話で、もう一つ覚えていることがある。それは、遼東半島還附の勅語の中の、「報復」という言葉の解釈についてであった。その言葉の前後は今は何にも覚えてない。たぶん「臥薪甞胆して報復を謀れ」というような文句だったろうと想像する。この「報復」というのは、表むきは何とかの意味だが実は復讐のことだ、と言うんだった。そして僕はその表むきの意味が何であったかは今でも思い出すことができないほど、そのいわゆる本当の意味をありがたがった。
何月か忘れたが、たぶん初夏の頃だったろうと思う。平壌占領記念日[#底本では「紀念日」]というのがあった。
僕はその日の朝飯に初めて粟飯というものを食わされた。ちょっと甘い味がしてうまいと思った。おかずは枝豆と罐詰の牛肉が少々とだった。名古屋の第三師団全部が、その朝はこの御馳走だったのだ。
当直の、前にも言った北川という大尉が、食堂でこの御馳走のいわれを話した。平壌を占領した晩だか朝だかの、これ
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