たということであった。
この柔道は荒木新流という、実はもう古い流儀のものだった。
その後坂本先生は、僕が最初の入獄を終えて初めて家を持った時、こんど上京したからと言って訪ねて来た。これは後で間接に聞いたことであるが、実は父と相談して僕を説得しに来たのだったそうだ。が、そんなことは少しもなしに、今でもまた折々訪ねて来ては昔ばなしをして行く。
「どうしたって、そんな病気になる筈はないんだがね……」
僕が肺の悪いことを聞いて先生は不思議がっていた。そして先生発明の曲伸法という運動方法を勧めてくれた。最近に僕はこの曲伸法で獄中で大たすかりをした。
先生はもう五十をよほど越しているのだろうが、昔僕が知っている三十幾つかの頃の、小造りであるがまんまると太った、色つやのいい顔の先生そのままでいる。そして今でも、小石川のその修養塾のそばに道場を造って柔道の先生をし、また夏は子安辺で水泳の先生をして、毎年の冬隅田川で寒中水泳を催している。
この柔道から少し遅れて、撃剣も教わりに行った。昼の柔道の時間をその方へ廻したのだ。流儀の名は忘れたが、先生は今井先生と言った。
先生は大兵肥満の荒武者で、大きな竹刀の中に電線ほどの筋がねを三、四本入れていた。一種の国士といったような人で、昔星享が遊説に来た時、車ごと川の中へほうりこんだとかいう話もあった。最近にも大倉喜八郎の銅像の除幕式の時、そこへ飛びこんで行って大倉をなぐるのだと言って意気ごんでいたそうだが、みんなにとめられて果さなかったそうだ。
僕はそこで荒っぽい、竹刀の使いかたの大きな撃剣を教わったので、その後幼年学校にはいって、おもちゃのような細い竹刀でほんのこて先きだけでチャンチャンやるのが実にいやだった。
学校では器械体操とベースボールとに夢中になっていた。そしてこうして一日とび廻っては、大飯を食っていた。
十三の正月から十四の正月までに、背が五寸延びた。そうして十四から十五までに四寸延びて五尺二寸何分かになった。
四
中学校の校長は、先年皇子傅育官長になって死んだ、三好愛吉先生だった。
僕等は先生を孔子様とあだ名していた。それは先生が孔子様のような髯をはやしていたばかりでなく、何かというとすぐに孔子様孔子様と先生が言っていたからでもあった。先生は真面目な謹厳そのもののような顔をしていた。そして主と
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