」と誤記]は僕ともで二、三人だった。
 僕は冬、三尺も四尺も雪が積って、まだ踏みかためられた道も何にもないところを、凍えるようになって通った。行くと、先生のお母さんが寒そうな風をして、小さな火鉢に粉炭を少し入れて来て、それをふうふう吹いて火をおこしてくれた。僕は先生のこのお母さんが可哀そうな気がして、母にその話をした。母はすぐに馬丁に炭を一俵持たしてやった。先生のお母さんは涙を流してお礼を言った。そしてその翌日からは大きな炭でカッカと火をおこしてくれた。
 僕はこの先生に就いて、いわゆる四書の論語と孟子と中庸と大学との素読を終えた。
 先生はまだ二十四、五か、せいぜい七、八の年頃で、その風采は少しもあがらなかった。しかしそのお母さんは、風は汚なかったが、どこかしらに品のある顔をしていた。が、そうした士族の落ちぶれたようなのは僕にはちっとも珍らしいことではなかった。
 僕はその後幾度も囚人として監獄にはいって、そのたびにいつもこの先生のことを思い出した。生徒の僕等に何かものを言うんでさえ少々はにかんでいたようなおとなしい先生だ。きっと先生は囚人などとは直接に交渉のない、内勤の方の何かの事務を執っていたのに違いない。とても囚人を叱ることのできるような先生ではなかった。

 それからまた、やはりその頃に、夜五、六人の友人を家に集めて、輪講だの演説だの作文だのの会を開いた。すぐ一軒おいて隣りの西村の虎公だの、町の方の杉浦だの、前にそのお母さんのことを話した谷だのが、その常連だった。虎公と杉浦とは僕よりも一年上の級だったが、近所の柴山という老先生の私塾に通っていたので、虎公が杉浦を連れて来たのだった。谷は僕よりも一年下だった。
 本読みの僕はいつもみんなの牛耳をとっていた。僕は友人のほとんど誰よりも早くから『少年世界』を読んでいた。そしてある妙な本屋と知合いになって、そこからいろんな本を買って来て読んでいた。修身の逸話を集めた翻訳物のようなのも持っていた。また誰も知らない、四、五冊続きの大きな作文の本も持っていた。そうした雑誌や書物からそっと持って来た僕の演説や作文はみんなの喝采を呼ばずにはおかなかった。
 新発田から三、四里西南の水原という町に、中村万松堂という本屋があった。そこの小僧だか番頭だかが、新発田に来て、ある裏長屋のようなところに住んでいた。それをどうして知ったの
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