р普@Pain.――De la Commune a l'Anarchie.――Le Socialisme en Danger.〕 三冊とも赤い表紙の本だ。それから若宮に「ノヴィコー」の本を借りて来てくれ。ノヴィコーと言えばわかる。さよなら。
   *
 堀保子宛・明治四十一年三月二十二日
 少しも手紙が来ないから、どうしたのかと思って心配していたが、はたしてまた病気だそうだね。一体どこが悪いのか。雪の日に市ヶ谷へ行ったからだというが※[#始め二重括弧、1−2−54]二、三人の仲間の出獄を迎いに※[#終わり二重括弧、1−2−55]重い風邪にでもかかったのか。それともまた、他の病気でも出たのか。少しも様子が分らないものだから、いろいろと気にかかる。そしてその後はどうなのか。もし相変らず悪いのなら、六日にはわざわざ迎いにまで来なくともいいから、それよりは大事にして養生していてくれ。
 僕も十日ばかり前に湯の中で脳貧血を起して、その後とかくに気分が勝れない。たぶん栄養と運動との不足なところへ、あまり読み過ぎたり書き過ぎたりしたせいだろうと思う。書物を読み出すとすぐに眼が眩んで来る。頭が痛くなる。しばらく何にもしないでぼんやりしている。するとこんどは退屈で堪らなくなる。やむを得ずまた書物を手に取る。毎日こんなことを幾度も幾度も繰返して暮している。しかし別に大したほどではないのだから、出てから少しの間静かに休養すればよかろうと思う。しもやけ[#「しもやけ」に傍点]も、一時は大ぶひどかったが、暖かくなるに従ってだんだん治って来た。
 その後セーニョボーの話はどうなったか。古那はどこの本屋へ相談したのだろう。もしその話がうまく行ったら、当分どこかの田舎に引っこみたいね。温泉でもよし、また海岸でもいい。『平民科学』の原稿はただ写し直しさえすればいいようになっている。
 志津野の子が生れたそうだね。まつのさんはどうか。この手紙は私事ばかりだから人に見せるに及ばぬ。もうあとが三日、四日には会える。さよなら。
[#地付き]巣鴨にて、一二〇〇生
[#改ページ]

市ヶ谷から(三)

   *
 堀保子宛・明治四十一年七月二十五日
 ……もその肩を聳やかして、それはそれは意気けん昂なものだ。礼さんも病監にはいっているのだそうだね。
 十七日に電車の判決があったのだから、すぐ赤い着物を着ることと思って、毎日のように待っていたけれど、まだ何とも音沙汰がない。堺も山川も同じことだ。あるいは予審の決定を待っているのじゃないかと思う。察するに、今夜あたり決定書が来て、そして明日早朝、赤い着物になるのかも知れぬ。
 保釈の金は戻ったことと思う。その処分については、なお会ってよく話そう。お為さんも困っているだろう。あすこからの借金だけは、ともかくも返して置くがいい。お為さんがうちのあとへ来て、そして足下が二階へ行ったのだそうだね。
 守田は『二六』をやめられたそうじゃないか。大恐慌だろう。細君はどうだ。秋水も土佐を出たとか、東京へ着いたとかいう話だが、どうしたか。いつか常太郎君から差入れがあったが、帰って来ているのか。宮永はどうしている。南の魚屋はどうした。諸君によろしく。
 大森へ旗の縫賃を払ってくれ。いくらとも決めてはなかったのだが、いいように払って置いてくれ。何だか裁判所へ証人として呼び出されたような様子だが、もしそうだったらわびをして置いてくれ。
 エスペラントの夏季講習会はどうしたろう。
 電車の刑を執行されても、巣鴨へ行くようなことはない。みんな済ましてから行くのだろう。
[#改ページ]

千葉から

   *
 堀保子宛・明治四十一年九月二十五日
 この監獄はさすが千葉町民の誇りとするだけあって、実に立派な建築だ。僕等のいる室はちょうど四畳半敷ぐらいの分房で、なかなか小ざっぱりしたものだ。巣鴨に較べて窓の大きくてそして下にあるのと、扉の鉄板でないのとがはなはだありがたい。七人のものはあるいは相隣りしあるいは相向いあっている。
 来てから三、四日して仕事をあてがわれた。何というものか知らんが、下駄の緒の芯にはいる麻縄をよるのだ。百足二銭四厘という大枚の工賃で、百日たつとその十分の二を貰えるのだそうだ。今のところ一日七、八十足しかできない。
 先日の面会の時、前へオイとか左向けオイとかいう大きな声の号令を聞きやしなかったか。あれがこの監獄の運動だ。僕等は七人だけ一緒になって毎日あれをやっている。堺がまさに半白ならんとするその大頭をふり立てて、先頭になって、一二、一二と歩調をとって行くさまは、それやずいぶん見ものだ。
 兄キに叱られたというが、何を言われたのか。浜の人には会ったか。谷君の方はまだ決まらぬか。話の都合によってはいずれにしても宜かろうが、茅ヶ崎に一人いるというようなことはとてもできまい。ともかくも決定する前に詳しく手紙で書いて寄越して、そして面会に来い。
 鹿住から何とか返事があったか。あるいは静岡の方からそんなところへ寄らなくともいいとか何とか言われていやしないか。僕からは来月あたり手紙を出そうと思う。五〇〇も請求しようと思うが、多いとかえってむずかしいからあるいは三〇〇ぐらいにして置こうか。そしてその中一〇〇ばかり本を買おうと思う。その前に僕の『万物の同根一族』を送って置いてくれ。
 パリから書物が来たら、著者の名と書名とおよび紙数とを知らしてくれ。ドイツ語の本はできるだけ早く送ってくれ。スケッチ外数冊郵送の手続きをした。その中の La Morale という[#「という」は底本では「というう」]のは兵馬に返してくれ。カスリの単衣は宅下げすることができんそうだ。
 千葉あたりに住みたいなどとそんな我儘を言うものでない。病気はいかが。猫のはがきは着いた。その他、足下のはみな見せられたようだ。他の同志からのはまだ一通も見ない。山川へエスペラントの本を送ったか。そのほかこうしてくれ、ああしてくれというたことは一々何とか返事を寄越してくれ。
 次のことを秋水に知らせてくれ。悟君の事件の本人には、堺、森岡、僕の三人の名をもって絶縁を宣告する。また、同志諸君にも爾来彼を同志視せざらんことを要求する。山川にもこの旨知らしてくれ。
 同志諸君によろしく。
   *
 大杉東宛・明治四十一年十一月十一日
 いつもながら御無沙汰ばかりしていてまことに相済みません。
 先きの電車事件が有罪となり、また新たに官吏抗拒事件というのが起って、目下私の在監中なのはすでに新聞紙や何かで御承知のことと思います。したがって定めて御心をなやましておいでのこととひそかにはなはだ恐縮しています。この上さらに御心配をかけるのもはなはだ相済みませんが、この際私に是非お願いしたい二つのことがあります。
 その一は私の廃嫡のことです。父上の方でも私のようなものに父上の家を継がせるのは定めて不本意のことでしょう。また私の方でも、私の兄弟あるいは親戚たることによって、それらの人の身の上に何等かの禍いのあるようなことが起っては、私としてはなはだ相済まざる次第です。したがって、なるべく私の身を父上の一家より遠ざけて置くのが、それらの人に対する私の義務かと思います。幸い菊の舅父は弁護士だとかいうように聞いていますが、そんな人にでも頼んで至急その法律上の手続きをして下さることをお願いします。これは先きに父上から堺までお話もあったことですし、別に御異存のあろう筈もないと思います。
 もう一つのお願いというのは金のことです。はなはだ申上げにくいのですけれど、何卒お聞き届けを願います。私、この一年ほど前からある学問の研究に着手しています。それはヨーロッパでもまだごく新しいので、日本の学者なぞはほとんど看過している学問上の新天地と言うべきものです。すなわち生物学と人類学と社会学(社会主義とは異也)とのこの三新科学の相互の関係です。もしこれが十分に研究できれば、今日の人類社会に関する百般の学問は、ほとんどその根底から新面目を施さねばならぬこととなるのです。私の先きの小著『万物の同根一族』などはそのきわめて小なる部分です。
 私はこの二年有余の長い獄中を、せめてはこの研究の完成によって慰められたいと思っています。もとより完成ということはむずかしいでしょうが、この在監中に少なくとも一大学を卒業する程度ぐらいまでは、容易に達し得らるるでしょう。しかしこの研究には大ぶ金がいります。まずこの間に百冊の本は読めるでしょうが、その価は決して三百円を下りますまい。そこで私の最後の無心として、父上にお願いします。もし私のような不孝児でもなお一片子として思うのお情けがありますならば、また私をして単純なる謀反人としてこの身を終らしめず、なお一学者としての名を成さしめんと思召すならば、何卒この三百円だけの金を恵んで下さい。もっとも一時でなくとも、本年と来年とに三度ほどに分けて下すっても宜いのです。
 金と言えば例の電車事件の時の保証金、あれはなおしばらくの間お貸しを願います。実は請取書がなくとも返して貰うことができたので、私の入獄のものいり[#「ものいり」に傍点]の際にほとんど費ってしまってあるのです。はなはだ申し訳もありませんけれど、何卒お許しを願います。
 私は獄中すこぶる健康でいます。留守居の保子は友人や同志の助けによってともかくもその日を暮して行けそうです。この二点は御安心を願います。
 最後に御両親および諸兄弟の健康と祝福を祈ります。
 父上様

 保子に言う。この手紙を持って静岡へ行って、そしてなおいろいろ詳しい事情を足下から話して来てくれ。また、その詳しい事情というのを僕から足下に話したいから、この手紙の着次第、至急面会に来てくれ。これはすでに典獄殿にも願ってある。
 この手紙の公表は禁ずる。
 たしか去年の今日は巣鴨を放免になった日だったね。
   *
 堀保子宛・明治四十一年十二月十九日
 もうここの生活にもまったく慣れてしまった。実を白状すれば、来た初めには多少の懸念のないのでもなかった。ああこの食物、ああこの労働、ああこの規則、これではたして二カ年半の長日月を堪え得るであろうか、などと秋雨落日の夕、長太息をもらしたこともあった。面会のたびごとに「痩せましたね」と眉をひそめられるまでもなく、細りに細って行く頬のさびしさは感じていた。しかし月を経るに従ってこれらの憂慮も薄らいで来た。そしてついに、今日ではそれがほとんどゼロに帰してしまったのみならず、さらに余計な余裕さえできて来るようになった。
 それに刑期の長いということが妙に趣きを添える。今までのように二、三カ月の刑の時には、入獄の初めの日からただもう満期のことばかり考えている。退屈になると石盤を出して放免の日までの日数を数える。裏を通る上り下りの汽車の響きまでがいやに帰思を催させる。したがって始終気も忙しなく、また日の経つのもひどく遅く感ぜられた。しかし、こんどはそんなことは夢にも思わず、ただいかにしてこの間を過ごすべきかとのみ思い煩う。そして、これこれの本を読んで、これこれの研究をして、などと計画を立てて見ると、どうしてももう半年か一年か余計にいなければとても満足な調べのできぬ勘定になる。さあ、こうなるともう落ちついたものだ。光陰も本当に矢のごとく過ぎ去ってしまう。長いと思った二年半ももう二年の内にはいった。ついでに言う、僕の満期は四十三年十一月二十七日だそうだ。
 先日の面会の時に話した通り若宮※[#始め二重括弧、1−2−54]卯之助君※[#終わり二重括弧、1−2−55]に次のように言ってくれ。この二カ年間に生物学と人類学と社会学との大体を研究して、さらにその相互の関係を調べて見たい。ついては通信教授でもするつもりで、組織を立てて書物を選択して貸して[#「貸して」は底本では「借して」]くれないか。毎月二冊平均として総計五十冊は読めよう、と。そしてもし承諾を得たら、第一回分として至急三、四冊借りて送ってくれ。
 なお、そのかたわら、元来好きでそして怠
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