獄中消息
大杉栄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)寤寝切《ごしんせつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#始め二重括弧、1−2−54]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔La Conque^te du Pain.――De la Commune a l'Anarchie.――Le Socialisme en Danger.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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市ヶ谷から(一)
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宛名・日附不明
僕は三畳の室を独占している。日当りもいいし、風通しもいいし、新しくて綺麗だし、なかなか下六番町の僕の家などの追いつくものでない。……こんなところなら一生はいっていてもいいと思うくらいだ。しかし警視庁はいやなところだった。南京虫が多くてね。僕も左の耳を噛まれて、握拳大の瘤を出かした。三、四日の間はかゆくてかゆくて、小刀でもあったらえぐり取りたいほどであった。
十分間と口から離したことのない煙草とお別れするのだもの、定めて寤寝切《ごしんせつ》なる思いをしなければなるまいと思っていたが、不思議だ、煙草のたの字も出て来ない。強いて思って見ようと努めて見たが、やっぱり駄目だ。
いつまでここに居るか知らないが、在監中には是非エスペラント語を大成し、ドイツ語を小成したいと思ってる。
監獄へ来て初めて冷水摩擦というものを覚えた。食物もよくよく噛みこなしてから呑込むようになった。食事の後には必ずウガイする。毎朝柔軟体操をやる。なかなか衛生家になった。
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来た初めに一番驚いたのは監房にクシとフケトリとが揃えてあったことです。これがなかったら大ハイ※[#始め二重括弧、1−2−54]当時の僕のアダ名、ハイはハイカラのハイも※[#終わり二重括弧、1−2−55]何も滅茶苦茶です。しかしまさかに鏡はありません。於是乎、腕を拱いて大ハイ大いに考えたのです。そしてとうとう一策を案出したのです。それは監房の中に黒い渋紙を貼った塵取がありますから、ガラス窓を外して、その向側にそれを当てて見るのです。試みにやって御覧なさい。ヘタな鏡などよりよほどよく見えます。
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宛名不明・明治三十九年四月二日
この頃は、半ば丸みがかった月が、白銀の光を夜なかまで監房のうちに送ってくれます。
監獄といえども花はあります。毎朝運動場に出ると、高い壁を越えて向うに、今は真っ盛りの桃の木を一株見ることができます。なおその外にも、病監の前に数株の桜がありますから、近いうちにはこの花をも賞することがあるのでしょう。
月あり、花あり、しこうしてまた鳥も居ります。本も読みあきて、あくびの三つ四つも続いて出る時に、ただ一つの友として親しむのは、窓側の桧に群がって来る雀です。その羽の色は決して麗わしくはありません。その声音も決して妙なるものではありません。その容姿もまた決して美なるものではありません。しかし何だかなつかしいのはこの鳥です。
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宛名・日附不明
今朝早くからエスペラントで夢中になっております。一瀉千里の勢いとまでは行きませんが、ともかくもズンズン読んでゆけるので嬉しくて堪りません。予審の終結する頃までにはエスペラントの大通になって見せます。
ここにもやはり南京虫が居ります。これさえ居なければ時々は志願して来てもいいと思って居ったのに惜しいことです。今日までに噛まれた数と場所とは左のごとくです。警視庁では左の耳の下三。監獄では、左の耳の下二。右の耳の下一。左の頬一。右の頬一。咽喉二。胸一。左の腕四。右の腕三。右の足一。右の手の指一。こんなに噛まれて居ながら、未だにその正体を拝んだことがないので、はなはだ遺憾に思っています。
朝から晩まで続けざまに本を見て居れるものでなし、例の雀もどこかへ行ってしまう、やむを得ずに南京虫に喰われた跡などを数えて時を過しています。時々に地震があって少しは興にもなりますが、これとてあまり面白いものではありません。こんな時に欲しいのは手紙です。
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堺利彦宛・明治三十九年四月
五日、父面接に来り、社会党に加盟せるを叱責すること厳也。予すなわちこれに答えて曰う。「父たるの権威を擁して、しこうしてすでに自覚に入れる児の思想に斧鉞を置かんとす、これ実に至大至重の罪悪也。児たる我は、かくのごときの大罪を父に犯さしむるを絶対に拒む」と。噫々これはたして孝乎不孝乎。しかれどもまた翻りて思う。社会の基礎は家庭也。余社会をして(二字削除)に帰せしめんと欲す。(二字削除)の(二字削除)は、まず家庭に点火せらるるによりて初めてその端緒を開く。噫々われすでに家庭に火を放てり。微笑と涕泣、もってわが家の焼尽し行くさまを眺めんかな。
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堺利彦宛・日附不明
毎日毎日南京虫に苦しめられるから、どうしたら善かろうかと、運動の時に相棒の強盗殺人犯先生に聞いて見た。先生の言うには、それは殺すに限る、朝起きたら四方の壁を三十分ぐらいにらんで居るのだ、きっと一疋や二疋は這って居る、と。果然、のっそりのっそりとやっている。すぐに捕えてギロチンに掛けた。人の血を吸う奴はみなこうしてやるに限る。
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宛名・日付不明
先々月の二十二日にここに入れられたまま一昨日はじめて外へ出た。それは公判の下調べと言うので遠く馬車を駆って裁判所まで行ったのだ。例の金網越しに路ゆく人を見ると、綿入れは袷となった。中折はパナマや麦藁となった。そしてチラホラと氷店の看板さえも見える。世はいつの間にか夏に近づいたのだね。途で四谷見附の躑躅《つつじ》を見た。桃散り桜散り、久しく花の色に餓えたりし僕は、ただもう恍惚として酔えるがごときうちに、馬車は遠慮なくガタガタと馳せて行った。
読書はこの頃なかなか忙がしい。まず朝はフォィエルバッハの『宗教論』を読む。アルベエル(仏国アナーキスト)の『自由恋愛論』を読む。午後はエスペラント語を専門にやる。先月は読む方ばかりであったが、こんどは、それと書く方とを半々にやる。つまらない文法の練習問題を一々真面目にやって行くなどは、監獄にでもはいって居なければとうていできぬ業だろうと思う。ただ、一人では会話ができないで困る。夕食後就寝まで二時間余りある。その間はトルストイの小説集を読んでいる。
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この頃はノミと蚊と南京虫とが三位一体になって攻め寄せるので、大いに弱っている。僕昨日剃髪した。※[#始め二重括弧、1−2−54]髪を長くのばしていたのを短かく刈ったのだ※[#終わり二重括弧、1−2−55]これは旗などをかついで市中を駆けまわった前非を悔いたのだ。
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由分社宛・明治三十九年五月
どうせ食うなら重罪の方が面白い。軽罪はあまり気がきかない。無罪ならもっとも妙だ。看守さんに聞いたら九年以上との話。マア十年と思って考えて見よう。すると僕が出た時には、堺さんが五十近くの半白爺、秀哉坊がちょうど恋を知りそむる頃、僕がまだようやく三十二、三、男盛りの登り坂にかかる時だ。身体は大切にして居ればそう容易く死にもしまい。
エスペラントは面白いように進んで行く。今はハムレットの初幕のところを読んでいる。英文で読んだことはないが、仏文では一度読んだことがある。しかしこんどほど容易くかつ面白くはなかったようだ。
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宛名・日付不明
昨日から特待というものになった。と言ってもわかるまい、説明をしよう。社会主義者が人類を別けて紳士閥と平民との二になすがごとく、監獄では待遇上被告人を二つの階級に別けてある。しこうしてその一は雑房に住み、他の一は独房に住むの差異がある。……すなわち独房をもって監獄における紳士閥として置こう。
平民の方は少しも様子を知らないが、この紳士閥の方にはまた二つの階級がある。一は特待と言うが、一は何と言うのかたぶん名はないと思う。特待になると純粋の特権階級で、一枚の布団が二枚になり、朝一回の運動が午前と午後との二回になり、さらに監房の中に机と筆と墨壷までがはいる。この上に原稿を書いて『研究』や『光』に送ることができたら、被告人生活というものもなかなかオツなものなんだけれど。
白熊、孤剣、起雲、世民の徒は、来るとすぐにこの特権階級にはいったようだ。他のものはみな平民の部に属して居る。少翁なども勉強ができぬと言って大いにコボシているそうだ。僕のところは机だけは初めから入れてくれた。たぶん特待候補者とでも言うのであったんだろう。
自分が特権階級にはいって見れば、なるほど気持の悪いこともないが、その代りに特権褫奪という恐れが始終頭に浮ぶ。紳士閥が、軍隊だとか、警察だとか、法律だとかを、五百羅漢のように並べ立てて置くのも、要するにこの特権維持に苦心した結果に過ぎないのだ。
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折々着物についての御注意ありがとう。天にも地にもたった一枚の羽織と綿入れだもの、大切にしなくて如何しよう。ただ困るのは綻びの切れることだが、これは糸を結んで玉を作って、穴の大きくならぬようにして置く。もっとも看守さんに話をすれば針と糸とを貸して下さるのだけれど、食品口という四寸四方ばかりの小窓を開けて「看守殿お願いします、お願いします」と言わなければならぬのがいやさに、ツイ一度もいわゆるお願いしたことがない。
僕等の監房の窓の下は、女監へ往来する道になっている。毎日十人くらいずつ五群も六群もはいって来る。道がセメントで敷きつめられているから、そのたびごとに、カランコロン、カランコロンと実に微妙な音楽を聞くことができる。
女監を見るたびにいつも思うが、僕等の事件に一人でも善い、二人でも善い、ともかくも婦人がはいっていたらどんなに趣味あることだろう。『家庭雑誌』に載った秀湖のハイカラ女学生論も、決して日比谷公園で角帽と相引きするをもって人生の全部と心得ているようなものを指したのではあるまい。僕秀湖に問う。兇徒聚衆の女学生! これこそ真に「痛快なるハイカラ女学生」じゃあるまいか。
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昨日保子さんから猫の絵はがきを戴いた。何だか棒っ切の先から煙の出てるのを持っているが、あれが物の本で見る煙草とかいうものなのだろう。今までは人間の食物だと聞いて居たが、ではなくて猫の玩弄品と見える。
今朝妹と堀内とが面会に来た。こんな善いところにいるのを、何故悲しいのか、オイオイとばかり泣いていた。面会所で泣くことと怒ることだけは厳禁してもらいたい。そしてニコニコと笑っていてもらいたい。
入獄するチョット前からハヤシかけていた髭は、暇に任せてネジったりヒッパったり散々に虐待するものだから、たださえ薄い少ないのが可哀相に切れたり抜けたり少しも発達せぬ。よく見ると顔のあちこちに薄い禿がたくさんできた。これは南京虫に噛まれたのを引っかいたあとだ。入獄の好個の紀念として永久に保存せしめたいものだと思っている。
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今朝は暗い頃から火事のために目がさめて、その後ドウしても寝つかれない。そこでさっそく南京虫の征伐に出かけた。いるいるウジウジいる。ついに夜明け頃までに十有三疋捕えた。大きいのが大豆の半分ぐらい、小さいのが米粒ぐらい、中ぐらいのが小豆ぐらいある。これは出獄の時の唯一のお土産と思って、紙に包んで大切にしてしまってある。そしてその包紙に下のごとくいたずら書きをした。
社会において吾人平民の膏血を吸取するものは、すなわちかの紳士閥なり。監獄において吾人平民の膏血を吸取するものは、すなわちこの南京虫なり。後者は今幸いにこれを捕えて断頭台上の露と消えしむるを得たり。予はこれをもって前者の運命のはなはだ遠からざるを卜せんと欲す。社会革命党万歳! 資本家制度寂滅!
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同志諸君・明治三十九年六月二十二日
昨夕六時頃、身受けのしろ百円ず
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