何分筆がいいので、書くのに骨が折れてね。さよなら。
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伊藤野枝宛・大正九年二月二十九日
四、五日前の大雪で、ことしの雪じまいかと喜んでいたら、また降り出した。それでも、今朝は晴れたろうと起きて見ると、盛んに降っているのでがっかりした。きょうは手紙を書く筈なのに、こんなことでは手がかじかんでとても書けまいと悲観していた。しかしありがたいことには急に晴れた。そして今、豚の御馳走で昼飯をすまして、頭から背中まで一ぱいに陽を浴びながら、いい気持になってこの手紙を書く。
実際この陽が当るか当らんかで人生観がまったく一変するんだからね。それだのにこの二月は、本当に晴れた日と言ってはせいぜい二日か三日しかなかった。それに毎年こんなに降っただろうか、と思われるほど雪が降った。コタツにでもあたってちらちら雪の降るのを見ていたら、六花ヒンプンのちょっといい景色かも知れないが、牢屋ではとてもそんな眺めどころの話じゃない。ちょっと眼にはいっただけでも、背中の骨の髄からぞくぞくして来る。また、実によく風が吹いた。ほとんど毎日と言ってもいいくらいに、午後の二時頃になって、向側の監房のガラス戸がガタガタ言い出す。来たな、と思っている中に、芝居と牢屋とでのほかにあまり覚えのない、あのヒュッーというあらしの声が来る。本当にからだがすくむ恐ろしい声だ。
監獄の寒さというのも、こんど初めて本当に味わったような気がする。以前の味は忘れてしまったのか、それともそれほどまでに感じなかったのか、こんなにひどくはなかったように思う。僕はよく風をひくと風にあたるのが痛い痛いと言って笑われて居た。実際痛いのだ。それがここでは、そとに居た時のように人の皮膚の上っ面がヒリヒリするくらいでなく、肉の中までも、骨髄の中までもえぐられるような痛みなのだ。じっと坐っていて、手足の皮と肉との間がシンシン痛む。膝からモモにかけての肉がヒリヒリ痛む。腰の骨がゾクゾク痛む。顔の皮膚がひんむかれるようにピリピリする。頸から肩にかけて肉と骨が突き刺される。この痛みに腹の中や胸の中まで襲われちゃ大変だ。と思いながら、しっかりと腕ぐみをして、例の屈伸法で全身の力をこめて腹をふくらす。いい行だ。
毎日毎日こんな目に会っていて、それで一年の冬の半分以上も寝て暮すからだが、風一つひかない上に咳一つたん一つ出ない。ただ水っぱなだけは始終出ているが。毎週一度くらいは胸に聴診器をあてて貰うが別に異状はないようだ。不思議なくらいだ。こんなにからだの具合のいい冬はもう十年余りも覚えがない。
もっとも、腸の方ではちょっと弱った。入監の翌朝からうまく毎朝一度通じがあるんだ。さすがにまだ夏の監獄の気が抜けずにいるんだと思って心丈夫に思って居たら、大晦日の晩から下り出して、とうとう本月の初めまで下痢で通した。ひどいんじゃない。毎日ほんの一回か二回かのごく軽い下痢なのだ。しかしちょうどこれと同じ下痢にかつて千葉で半年間いじめられたのだ。それがあと三、四年もたたったのだ。またかと初めの間は実に悲観したが、これもとうとう屈伸法で、かどうかは知らないが、とにかく征服してしまった。
この屈伸法のきかないのは霜やけ一つだ。ずいぶん注意して予防していたんだが、とうとうやられた。そして一月の末から左の方の小指と薬指とがくずれた。小指はもう治りかけているが、薬指は出るまでに治りきるかどうか。この創が寒さに痛むのはちょうどやけどのあの痛みと同じだ。一日のうちのふところ手をして本を読んでいる間と寝床にはいっている間とのほかは、絶えずピリピリだ。
天気のせいもあったが、この霜やけのお蔭で、本月はまだ一度も運動にそとへ出ない。菜の畑のまわりの一丁ほどの間をまわるんだが、僕は毎日それを駆けっこでやった。初めは五分くらいで弱ったが、終いには二十分くらいは続いた。それ以上は眼がまわって来るので止した。朝早くこの運動に出て、一面に霜に蔽われながらなお青々と生長して行く、四、五寸くらいの小さな菜に、僕は非常な親しみと励みとを感じていたのだが、もうきっとよほど大きくなったに違いない。この監獄でシムパシイを感じたのはこの菜一つだけだ。
そんな、あれやこれやでこの二月は大分苦しんだが、日にちのたつのは存外早かった。ちっとも待たずに日が経って来た。一月はずいぶん長かったが、そして社のことや家のことがいろいろと[#「いろいろと」は底本では「いろと」]思出されて出ることばかり考えられたが、そして汽車の音や何かが気になって仕方がなかったが、二月になってからは、もう社や家がどうなっているのか、まるで見当がつかなくなった。そして娑婆っ気が抜けて監獄っ気ばかりになった。終日たべ物のことばかり考えて、三度三度の飯時を待つより外に、何の欲っ気もなくなった。毎夜二
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