妙な気候なので、内外にいる日向ぼっこ連の健康がはなはだ気づかわれる。あとの二度とも本が郵便でばかり来るので、あるいは足下も寝ているのじゃあるまいかと心配している。八月の千葉での面会の時に、読んでしまった本を持って帰れと言った時も、眼に涙を一ぱいためて何のかのと言いわけする情けなさそうな顔つきは、どうしても半病人としか受取れなかった。
 手紙もこれで最後となった。これからは指折って日数を数えてもよかろう。僕の方では毎十の日に本が下るのでそれを暦の一期にしている。まず本が来ると、それを十日分の日課に割って読み始めるのだが、いつもいつも予定の方が早すぎるので、とかく日数の方が足らぬ勝ちになる。したがって日にちの経つのが驚くほど早い。そして妙なのは、この五、六月以来堪えられぬほどそとの恋しかったのが、ここに来てからは跡かたもなく忘れて、理屈の上でこそもう幾日たてば出られるのだとは知っているものの、どうしても感情の上のそんな気が浮んで来ない。何だか今ここにこうしているのが自分の本来の生活ででもあるような気持すらする。しかし何と言っても定めの日が来れば出なければなるまい。
 森岡の神様※[#始め二重括弧、1−2−54]獄中で少し気が変になって自分は神様だと言い出した一同志※[#終わり二重括弧、1−2−55]はどうした。一と思いに腐れ縁を切ってしまわなくっちゃというので、誰にも会わずにすぐ船で大連へ行くと言っていたが。なるほどああいう男もできるのだから、お上でわれわれを監獄にぶちこむのも多少はごもっともとも思われる。僕もすっかり角を折ってしまった。こんどこそは大いにおとなしくなろう。もう喧しいむずかしいことはいっさいよしにして、罪とがもない文芸でも弄んで暮すとしようか。それとも伸※[#始め二重括弧、1−2−54]弟※[#終わり二重括弧、1−2−55]のように三井あたりで番頭にでも[#「番頭にでも」は底本では「番頭にで」]雇おうと言うなら、金次第でどこへでも行こう。ほかに何にも芸はないが、六カ国ばかりの欧州語なら、堅いものでも柔らかいものでも何でも御意のままに翻訳する、というような触れで売り物にでも出ようか。しかしせっかくこうしておとなしくなろうと思っていても、お上で依然として執念深くつきまとうようなことがあっては、何もかもおジャンだ。
 来月の初めには父の忌日が来る。いっさいの儀式は止せ。寺へ金を送ったりするのも無用。
 僕の出る日には、子供等はうるさいからみな学校へやって置け。決して休ませるには及ばん。
 本をもう五、六冊頼む。ただし来月上旬でいい。『新仏教』読んだ。お為さんがアッパレ賢帰人となりすましたのはお祝い申す。
 出る前に、ふろしきを差入れるのを忘れないよう、いつかは本当に困った。着物は洋服がよかろう。
 堺は久しぶりで大きな声で笑っていようね。山川はにやりにやりか。
[#改ページ]

市ヶ谷から(四)

   *
 伊藤野枝宛・大正八年八月一日
 はじめての手紙だ。
 まだ、どうも、本当に落ちつかない。いくら馴れているからと言っても、そうすぐにアトホオムとは行かない。監獄は僕のエレメントじゃないんだからね。まず南京虫との妥協が何とかつかなければ駄目だ。次には蚊と蚤だ。来た三晩ばかりは一睡もしなかった。警視庁での二晩と合せて五晩だ。しかし、いくら何だって、そうそう不眠が続くものじゃない。何が来ようと、どんなにかゆくとも痛くとも、とにかく眠るようになる。今では睡眠時間の半分は寝る。
 どんなに汗が出てもふかずに黙っている僕の習慣ね、あれがこのかゆいのや痛いのにも大ぶ応用されて来た。手を出したくて堪らんのを、じっとして辛棒している。こういう難行苦行の真似も、ちょっと面白いものだ。蚊帳の中に蚊が一匹はいっても、泣っ面をして騒ぐ男がだ、手くびに二十数カ所、腕に十数カ所、首のまわりに二十幾カ所という最初の晩の南京虫の手創を負うたまま、その上にもやって来る無数の敵を、こうして無抵抗主義的に心よく迎えているんだ。僕にはこうしたことのちょっとした興味がある。
 次には食物との妥協だ。監獄の御馳走なら、どんなものでも何の不平なしに、うまくと言うよりはむしろ心地よく食べる。それだのに、差入弁当となると、何とかかんとか難くせをつけたい。そして、こんなものが喰えるか、と独りで口に出して、大がい半分でよしてしまう。きのうからようやく昼飯の差入れがはいらなくなった。お蔭で監獄のうまい飯が食えた。久板が豆飯豆飯と言って喜んでいたが、その筈だ、いんげん[#「いんげん」に傍点]がうんとはいっているんだ。この食物の具合からだろう、大便が二日か三日に一度しか出ない。監獄にはいるといつも、最初の間はそうだ。そして、それが、一日に一度と規則正しくきまるようになると、もう
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