いる松枝は細面のむしろ痩せ形の子であったが、今はそんなに太っているのかね。チョット想像しかねる。
   *
 堀保子宛・明治四十三年九月十六日・東京監獄から
 夏になれば少しぐらいからだのだるくなるのは当り前のことだ。しかし僕は、去年だって一昨年だって、特にからだが弱るとか、食欲が減るとかいうようなことは少しもなかった。そして心中ひそかに世間の奴等や従来の自分を罵って、夏になって何とかかとか愚図つくのはきっとふだん遊んで寝て暮している怠けものに限る、などと傲語していたものだ。
 それだのに本年はどうしたのだろう。満期の近い弱味からでもあろうか、ひどく弱り込まされた。まず七月早々あの不順な気候にあてられて恐ろしい下痢をやった。食べるものは少しも食べないで日に九回も十回も下るのだもの、病気にはごく弱い僕のことだ。本当にほとほと弱り込まされた。その後二カ月余りにもなって、まだ通じもかたまらず、食欲も進まない。雨でも降って少し冷えると、三、四回も便所へ通う。そして夜なぞはひどく腹が痛む。医者もまん性だろうと言うし、僕もあるいは幸徳か横田※[#始め二重括弧、1−2−54]二人とも腸結核だった※[#終わり二重括弧、1−2−55]のようになるのじゃないかとひどく心配していた。もっともこの四、五日は便も大ぶ具合がよし、おとといの雨にも別に変りはなかったが、うまくこれで続いてくれればいいがと祈っている。
 山川等の出た日だった。さほど強い風でもなかったが、もう野分と言うのだろう、一陣の風がさらさらと音するかと思ううちに、この夏中さしわたし二尺あまりもある大きな葉の面に思うまま日光を吸うていた窓さきの桐の葉がばさばさと半分ばかり落ちてしまった。そしてその残っているのも、あるいは破れあるいは裂けて、ただ次の風を待っているだけのようだ。秋になったのだ。
 病監の前のコスモスもずいぶん生え茂って、もう四、五尺のたけに延びた。さびしい秋の唯一の飾りで、かつやがては僕等を送り出す喜びの花になるだろうと、ひたすらにその咲き香うのを待っていた。
 すると本月の二日、突然ここに移されて来た。何のためだかは知らないが、千葉にはいささかの名残りもない。塵を蹴立ててやって来た。ここでは八畳敷の部屋に一人住いしている。仕事はきょう木あみ。前には二枚ずつを三本にして編むのだったが、こんどは五本に進歩した。またまずいの少ないのと叱られないようにと思って、一生懸命にやっているが、日に十六丈何尺というきまりのをようやく三丈ばかりしかできない。夜業がなくて、暗くなるとすぐ床につけるのと、日曜が丸っきり休みなのとが、はなはだありがたい。
 六日に例の課長さん※[#始め二重括弧、1−2−54]今の監獄局長、当時の監獄課長谷田三郎君※[#終わり二重括弧、1−2−55]が来て、「きょう君の細君が本を持って来たから、差支えのないものだけ名を書いて置いた」という仰せだった。その本は受取った。これからは司法省の検閲を経る必要はない。直接ここへ持って来てくれ。至急送って貰いたい本は、
 英文。ダーウィン航海記。ディーッゲンの哲学。ショーのイブセン主義神髄。クロのロシア文学。モルガンの古代社会。個人進化と社会進化。産業進化論。
 独文。科学叢書。
 露文。文学評論。
 伊文。論理学。
 古い本を宅下げするようにして置くから、近日中にとりに来てくれ。大ぶ多いからそのつもりで。本は五冊ずつ月に三度下げて貰える。
   *
 堀保子宛・明治四十三年十月十四日
 八月に書いた手紙は不許になったが、九月に出したのは着いているのだろうね。足下の方からさらに便りがないので、少しも様子が分らない。この手紙の着く頃は、ちょうど足下が面会に来れる時に当るのだが、今はただそれのみを待っている。
 先月の末であったか、湯にはいっていると「面会」と言って呼びに来た。まだはいったばかりで何処も洗いもしないのを大喜びに大急ぎに飛び出して行って見ると、思わざる渡辺弁護士だった。きのうその委任状に印をおして置いたが、もう事はすんでいるのだろうね。何だか話はよく分らなかったけれど、遅くなると取れんかも知れんとか言っていたようだったが、そんなことになっては大変だ。取れるものは早く取る方がいい。
 前の手紙に胃腸を悪くしているなどと書いて置いたから定めて心配していることと思うが、その時にもちょっと言って置いたように、その後ははなはだ経過がいい。まだ一週に一度ぐらいは下るが、大した下り方ではない。痛みは全然なくなった。このぐらいの下痢なら、ちょうどここで毎週一度大掃除をやらすように、腹の中の大掃除をやるような気持がして、かえって小気味がいい。出るまでには是非治したいと思ってしきりに運動して養生している。
 ことしは初夏以来雨ばかり降り続く
前へ 次へ
全30ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大杉 栄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング