のだった。
 強盗殺人君はよく北海道から逃亡した時の話をした。一カ月ばかり山奥にかくれて、手当り次第に木の芽だの根だのを食っていたのだそうだが、
「何だって食えないものはないよ、君。」
 と入監以来どうしても剃刀を当てさせないで生えるがままに生えさせている粗髯を撫でながら、小さな目をくるくるさせていた。
 そして、
「どうせ、いつ首を絞められるんだか分らないんだから……。」
 と言って、できるだけ我が儘を言って、少しでもそれが容れられないと荒れ狂うようにして乱暴した。湯もみなよりは長くはいった。運動も長くやった。お蔭様で僕等の組のものはいろいろと助かった。この男の前では、どんな鬼看守でも、急に仏様になった。看守が何か手荒らなことを囚人や被告人に言うかするかすれば、この男は仁王立ちになって、ほかの看守がなだめに来るまで怒鳴りつづけ暴ばれつづけた。その代り少しうまくおだてあげられると、猫のようにおとなしくなって、子供のように甘えていた。
 ある時なぞは、窓のそとを通る女看守が、その連れて来た女の被告人か拘留囚かがちょっと編笠をあげて男どものいる窓の方を見たとか言って、うしろから突きとばすようにして叱っているのを見つけた彼は、終日、
「伊藤の鬼婆あ、鬼婆あ、鬼婆あ!」
 と声をからして怒鳴りつづけていた。看守の名と言っては、誰一人のも覚えていない今、この伊藤という名だけは今でもまだ僕の耳に響き渡って聞える。何でも、もう大ぶ年をとった、背の高い女だった。その時には、ちょうど僕も、雑巾桶を踏台にして女どもの通るのを眺めていた。
 仲間のものにはごく人の好いこの強盗殺人君が、たった一度、紙幣偽造君を怒鳴りつけたことがある。偽造君は長い間満州地方で淫売屋をしていたのだそうだ。そしてそのたびたび変えた女房というのはみんな内地で身受けした芸者だったそうだ。偽造君はそれらの細君にもやはり商売をさせていたのだ。
「貴様はひどい奴だな、自分の女房に淫売をさせるなんて、この馬鹿ッ。」
 と殺人君は運動場の真ん中で、恐ろしい勢いで偽造君に食ってかかった。それをようやくのことで僕と詐欺老人とで和めすかした。
「俺は強盗もした。火つけもした。人殺しもした。しかし自分の女房に淫売をさせるなぞという悪いことはしたことがない。君はそれでちっとも悪いとは思わんのか。気持が悪いことはないのか。」
 ようやく
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