[#「野口男三郎君」はゴシック体]
翌日は雨が降って、そとへ出て運動ができないので、朝飯を済ますとすぐに、三、四人ずつ廊下で散歩させられた。
僕は例の食器口を開けて、みんなが廊下の廻りを廻って歩くのを見ていた。山口と一緒のゆうべ隣りの男を仲介にして話した男とも目礼した。そしてもう一人の同志と一緒にいるのが、当時有名な事件だった寧斎殺しの野口男三郎ということは、その組が散歩に出るとすぐ隣りの男から知った。男三郎も、その連れから僕のことを聞いたと見えて、僕と顔を合せるとすぐに目礼した。
男三郎とはこれが縁になって、その後二年余りして彼が死刑になるまでの間、碌に口もきいたことはないのだが大ぶ親しく交わった。その間に僕は、出たりはいったりして二、三度しばらくここに滞在し、その他にも巣鴨の既決監から余罪で幾度か裁判所へ引き出されるたびに一晩は必ずここに泊らされた。そしてことに既決囚になっている不自由な身の時には、ずいぶん男三郎の厄介になった。男三郎自身の手からあるいは雑役という看守の小使のようになって働いている囚人の手を経て、幾度か半紙やパンを例の食器口から受取った。僕もそとへ出たたびに何かの本を差入れてやった。
男三郎は獄中の被告人仲間の間でもすこぶる不評判だった。典獄はじめいろんな役人どもにしきりに胡麻をすって、そのお蔭で大ぶ可愛がられて、死刑の執行が延び延びになっているのもそのためだなぞという話だった。面会所のそばの、自分の番の来るのを待っている間入れて置かれる、一室二尺四方ばかりの俗にシャモ箱という小さな板囲いの中には、「極悪男三郎速かに斬るべし」というような義憤の文句が、あちこちの壁に爪で書かれていた。
僕なぞと親しくしたのも、一つは、自分を世間に吹聴して貰いたいからであったかも知れない。現にそんな意味の手紙を一、二度獄中で貰った。その連れになっていた同志にもいつもそんな意味のことを言っていたそうだ。
要するにごく気の弱い男なんだ。その女の寧斎の娘のことや子供のことなぞを話す時には、いつも本当に涙ぐんでいた。子供の写真は片時も離したことがないと言って、一度それを見せたこともあった。また、これは自分が画いた女と子供の絵だと言って、雑誌の口絵にでもありそうな彩色した絵を見せたこともあった。どうしても何かの口絵をすき写ししたものに違いなかった。しかし絵具はどう
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