十
馬車の中では、田舎紳士の饒舌《じょうぜつ》が、早くも人々を五年以来の知己《ちき》にした。しかし、男の子はひとり車体の柱を握って、その生々した眼で野の中を見続けた。
「お母ア、梨々。」
「ああ、梨々。」
馭者台では鞭《むち》が動き停った。農婦は田舎紳士の帯の鎖に眼をつけた。
「もう幾時ですかいな。十二時は過ぎましたかいな。街へ着くと正午過ぎになりますやろな。」
馭者台では喇叭が鳴らなくなった。そうして、腹掛けの饅頭を、今や尽《ことごと》く胃の腑《ふ》の中へ落し込んでしまった馭者は、一層猫背を張らせて居眠り出した。その居眠りは、馬車の上から、かの眼の大きな蠅が押し黙った数段の梨畑を眺め、真夏の太陽の光りを受けて真赤《まっか》に栄《は》えた赤土の断崖を仰ぎ、突然に現れた激流を見下して、そうして、馬車が高い崖路《がけみち》の高低でかたかたときしみ出す音を聞いてもまだ続いた。しかし、乗客の中で、その馭者の居眠りを知っていた者は、僅《わず》かにただ蠅一疋であるらしかった。蠅は車体の屋根の上から、馭者の垂れ下った半白の頭に飛び移り、それから、濡れた馬の背中に留《とま》って汗を舐《な
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