すやろか。」
「そりゃ正午や。」と田舎紳士は横からいった。農婦はくるりと彼の方をまた向いて、
「正午になりますかいな。それまでにゃ死にますやろな。正午になりますかいな。」
という中《うち》にまた泣き出した。が、直ぐ饅頭屋の店頭へ馳けて行った。
「まだかのう。馬車はまだなかなか出ぬじゃろか?」
猫背の馭者は将棋盤を枕にして仰向《あおむ》きになったまま、簀《す》の子《こ》を洗っている饅頭屋の主婦の方へ頭を向けた。
「饅頭はまだ蒸《む》さらんかいのう?」
七
馬車は何時《いつ》になったら出るのであろう。宿場に集った人々の汗は乾いた。しかし、馬車は何時になったら出るのであろう。これは誰も知らない。だが、もし知り得ることの出来るものがあったとすれば、それは饅頭屋の竈《かまど》の中で、漸く脹《ふく》れ始めた饅頭であった。何《な》ぜかといえば、この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手《しょて》をつけるということが、それほどの潔癖《けっぺき》から長い年月の間、独身で暮さねばならなかったという彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから
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