ぬ糸も感じて、ふと躓《つまづ》くよろめきに似た思いもするのだった。
 アンナには喇叭の囁く意味も聞きとれるものであろうか、さらにイレーネには頓着《とんちゃく》せず梶を揺すぶり流す視線をつづけた。何か擦れかわり入りかわる暖寒の気苦労で、ちょうどホールも最後の湧《わ》き立ちに近づき、崩れようとしているときだった。
「それでは帰りましょう」
 とヨハンは巧みな見切りのころ合いを失わず立ち上った。時計を見ると三時を少し過ぎていた。アンナは梶の手を握りながら出口まで二人を送って来たが、ついにイレーネの姿は見えなかった。街には人通りは少なかったが、夜中の三時過ぎだというときに、ここではもう太陽が赤赤と照っていた。
 ホテルの前まで来たとき、ヨハンは明日は最後の日だから朝の十一時に来ると云って、二人は別れた。梶は部屋に戻り寝台に横になっても、夜か昼か分らぬ部屋の広さがうるさく眼について眠れなかった。しかし、日本を発《た》つとき、医者の友人が云ったように、日本人が誰もここではあのような眼にいつも逢って来たのであろうかと思うと、この日の自分の事実も自分個人のものとは思えぬ色どりに見えて来た。そして、ここ
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