に云った。
「この子はあなたに、今夜これからホテルヘ連れて行けって云いますよ」
これには梶も即答に窮した。どうしたことか、日ごろの不粋がはたと途惑いしたようだったが、またそんなことでもない、傍にいるイレーネへの義理が、それだけは今夜は駄目だと抑えかかり彼を苦しく笑わせるのみだった。すると、アンナはヨハンを介せず、もどかしそうに梶の耳もとへ直接口をよせて来て、
「You are beautiful.」
とひと言囁いた。彼には、まことに思いもうけぬ囁きであった。このような言葉を、彼は今まで半生まだ聞いたことがかつてなかった。おそらく、アンナの知っている英語のうち、彼に与えて通じそうなただ一言の華《はな》むけであったろうが、しかし、この遠い異国の果てで、まだ誰からも貰《もら》ったことのない言葉をひと言不意に貰おうとは――、梶は、貴い滴りのようにアンナの囁きを素直に胸で受けとめて悔いなかった。イレーネは喇叭にしつこく迫りよられていながらも、ひそかに、ときどき恨みを蒼《あお》く放つ眼で梶の方を睨《にら》んだ。こちらの方はこれで良いと諦《あきら》めていた矢さきの折だっただけに、梶はまだ断ち切れ
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