吻をしなさいと今云ったのですよ、と梶に云った。イレーネは云われたごとくおそるおそる、梶の方へ身をよせかけて来て、そして、彼の右の頬《ほお》に唇《くちびる》を軽くつけ、ぽっと赧《あか》くなったと思うと、両手で顔を蔽《おお》って俯向《うつむ》いてしまった。
「この人は日本の娘そっくりだなあ」
 と梶は笑った。そのとき、渦巻いているホールの賑やかさの中から、バンドの喇叭手《らっぱしゅ》がただ一人、濡《ぬ》れた唇に輪形をつけしきりと梶の方を向き向き、喇叭を吹いたり止めたりした。
「あっ、あの喇叭はこの子を愛しているな」
 と梶は頬杖《ほおづえ》つきながら思わず洩《もら》した。すると、ヨハンはまたすぐその喇叭手を手招ぎした。喇叭は楽器を椅子の上へ置き残したまま席へ来ると、ヨハンは彼にまた梶の洩したことを話してみたらしく、
「やはりあなたの云われたようでした」
 そう云って笑った。ホールはますます高潮して来た。いつの間にか踊る客らの数も増して来ていて、いっぱいにさざめき廻る渦は乱舞に近く、梶はハンガリヤ狂躁曲《きょうそうきょく》もこうした興奮の旅情から描かれたものかもしれないと思ったりした。そのう
前へ 次へ
全33ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング