あり脹《ふく》らみがあった。譜も見ず、ゆらめき出て来た月の真下で、彼等は露天にそれを仰ぎさざめく波に合せつつ弾くのだった。ヨハンは又ジプシイのこの仲間らが季節のまにまに、ヨーロッパの各地を流れ廻ってゆく生涯のことを話し、他の一切のことを考えず、ヴァイオリンのみを抱きかかえて死んで行く、彼等の宿命の愁《うれ》いや歓《よろこ》びを話したりした。
「あれらは音楽そのものですよ。本格のものもやれるのですが、やはり譜にあまり捉《とら》われてはおりません。そんなもの面白くないのでありましょう」
「ここの市民権もないのですね」
「ありません。日本語では何といいますか。渡り鳥、そう、あれです」
ヨハンの云うことは、ここしばらく渡り鳥の生活をしている彼には、特につよく胸に滲《し》みとおる語感でさみしく迫った。ダニューブの漣が終ると次ぎに、彼のまだ聞いたこともない悲調な楽器の音が流れて来た。
ヨハンはすぐ、
「あれはタローガッタといって、ハンガリヤ独特の木の楽器です。やっているものもこの国第一等の人です」と説明した。
窓から彼は下を覗《のぞ》いて見ると、真黒な尺八の形で裾《すそ》の方がやや開き加減の
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