うな哀愁だった。
 食事をすませると、ヨハンは行く先の註文《ちゅうもん》をしない梶に困惑したものか、またホテルへ連れて帰った。彼の部屋の下の道から、ヴァイオリンの音締《ねじ》めの音がときどき洩《も》れて来た。梶はヨハンと二人でソファに凭《よ》って話をしているとき、ダニューブの真向いの岸に月が出て来た。波が白く部屋に対《むか》って線を引き細かい網目の綾《あや》をひろげているのが、長く月を忘れていた彼には思いもうけぬ慰みとなった。
「もう始まりますよ」
 とヨハンがその時云った。
「何がです」と梶は訊ね返した。
 ヨハンは音楽だと答えた。なるほど、部屋の下の道から、月の出るのを待ち構えていたのであろう。ダニューブの漣《さざなみ》の曲の合奏が始まった。彼はヴァイオリンの音を聞きながら、ヨハンの案内の仕方も手の込んだ劇を見せる変化に苦心を払っているのだと呑み込めた。漣の曲は対岸にある王宮の上から、月の高くのぼってゆくのに随って、次第に高潮し麗しさを加えていった。
「あれを弾《ひ》いているのはジプシイたちですが、あの中でも一番の名手らです」
 とヨハンは説明した。音色に滴《したた》るような弾力が
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