吻をしなさいと今云ったのですよ、と梶に云った。イレーネは云われたごとくおそるおそる、梶の方へ身をよせかけて来て、そして、彼の右の頬《ほお》に唇《くちびる》を軽くつけ、ぽっと赧《あか》くなったと思うと、両手で顔を蔽《おお》って俯向《うつむ》いてしまった。
「この人は日本の娘そっくりだなあ」
 と梶は笑った。そのとき、渦巻いているホールの賑やかさの中から、バンドの喇叭手《らっぱしゅ》がただ一人、濡《ぬ》れた唇に輪形をつけしきりと梶の方を向き向き、喇叭を吹いたり止めたりした。
「あっ、あの喇叭はこの子を愛しているな」
 と梶は頬杖《ほおづえ》つきながら思わず洩《もら》した。すると、ヨハンはまたすぐその喇叭手を手招ぎした。喇叭は楽器を椅子の上へ置き残したまま席へ来ると、ヨハンは彼にまた梶の洩したことを話してみたらしく、
「やはりあなたの云われたようでした」
 そう云って笑った。ホールはますます高潮して来た。いつの間にか踊る客らの数も増して来ていて、いっぱいにさざめき廻る渦は乱舞に近く、梶はハンガリヤ狂躁曲《きょうそうきょく》もこうした興奮の旅情から描かれたものかもしれないと思ったりした。そのうち、餅《もち》の殻が各席に配られると、客らはそれを手ん手に掴《つか》みあたり介意《かま》わず投げつけ合った。それまで静にしていたヨハンも大きな体を乗り出させて、ホールの渦を目がけて手あたり次第に投げつけては笑った。その彼の様子には、大学校教授の少年の日の腕白さがふと丸出しに顔を出し、梶も愉快で餅殻をヨハンと一緒に投げつけるのだった。
「もっとやりなさい。もっと」
 と、ヨハンは餅殻をかき集めては彼にすすめて立ち上った。遠くで殻を巧みに受けとめた客は、それをまた投げ返したり、爆《はじ》け散り飛ぶ中で身を竦《すく》めたりした。
 このような喧騒《けんそう》を極《きわ》めた中でも、彼の箱の一隅で、喇叭はイレーネの肩に手をかけ、何事か一心不乱のさまで彼女の耳にかき口説《くど》いてやまなかった。喇叭の腕に巻きつかれた中で、じっと竦んだまま首垂《うなだ》れてゆくイレーネの首の白さを眼にしながら、彼は寂しさを感じた。そして今度は眼の大きな踊子に狙《ねら》いをつけ餅殻を投げてみるのだった。その子の体は、周囲から飛び来る弾の集中射撃を浴びていて、身を飜す暇もなく、絶えず肩に胴に餅殻は爆けつづけていた。ぴ
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