の村へ来ても、どこの家へも行かずに私の家へ来て泊っていったが、ある日伯母は東京へ行って来たといって私に絵本を一冊土産にくれた。それは東京の名所を描いた絵本だった。そのころは、私はもう私のいた筈《はず》の東京を忘れていて、私の一番行きたいところは、湖の見える大津と大伯母のいる上野の町とであった。この伯母には子供が五人もいた。遊女街の中央でただ一軒伯母の家だけ製糸をしていたので、私は周囲にひしめき並んだ色街の子供たちとも、いつのまにか遊ぶようになったりした。
 二番目の伯母は、私たちのいた同じ村の西方にあって、魚屋をしていた。この伯母一家だけはどの親戚たちからも嫌われていた。大伯母などは一度もここへは寄りつかなかったが私の母だけこことも仲良く交際していた。むかしはここは貧乏で、猫撫《ねこな》で声のこの伯母は実家の祖父の家から、許可なく魚屋へ逃げるように嫁いだのだということだったが、このころは祖父の家より物持ちになっていた。この伯母の主人はいつもにこにこした眼尻《めじり》で私を愛してくれた。私は祖父の家の後を継いでいる養子よりも、この魚屋の主人の方が好きだった。
「おう、利よ、来たかや。」
 こんな優しい声で小父がいうと、けちんぼだといわれている伯母が拾銭丸《じっせんだま》をひねった紙包を私の手に握らせた。ここには大きな二人の姉弟があったが、この二人も私を誰よりも愛してくれた。
 三番目の伯母は、私たちが東京から来たとき厄介になった伯母である。この伯母は気象が男のようにさっぱりしていた。この伯母の主人は近江《おうみ》の国に寺を持っている住職で、一人息子もまた別に寺を持っていた。伯母は家の中の拭《ふ》き掃除《そうじ》をするとき、お茶や生花の師匠のくせに一糸も纏《まと》わぬ裸体でよく掃除をした。ある時弟子の家の者が歳暮の餅《もち》を持ってがらりと玄関の戸を開けて這入って来た時、伯母は、ちょうどそこの縁側を裸体で拭いていた。私ははらはらしてどうするかと見ていると、
「これはまア、とんだ失礼をいたしまして、」
 と、伯母は、ただ一寸《ちょっと》雑巾《ぞうきん》で前を隠したまま、鄭重《ていちょう》なお辞儀をしたきり、少しも悪びれた様子を示さなかった。またこの伯母は、主人がたまに帰って来てもがみがみ叱《しか》りつけてばかりいた。主人の僧侶《そうりょ》は、どんな手ひどいことを伯母から云
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング