とき欠いて彫ったものだ。裏に書いてある。」
東野の云うままに裏の添書を見ると、西暦千九百二十年初秋、五十六歳の時ヨルダン河より自分汲み来れる水を用い、千九百三十一年、仲秋揮毫す。右肩印はエジプトのルクソルにて、左裾の印はシリヤのベエルウトにて、彫らしめしものなり、とあった。この事実を証明して見せてくれたことはなお具合が悪くまだかと矢代は思った。そして拷問攻めの道具のようにこんなに数数並べ立てる東野を見て、この人はも早千鶴子と自分の悩みある部分を見透していて、仲人をする以上二人の間の蟠りを、今の間に切開して置きたい暗黙の意志からだろうと、むしろ疑いさえ強く起って来るのだった。実際そう云えば、千鶴子が古万古の壺に礼をして捧げ持った後で、「それで良ろし」と低く頷いたのも、仲人として見るべきところを見届けた後に、役目を自覚したかった責任感からでもあろう。たしかに、二人の間で起るべき当然の悲劇は、蔽い隠そうともいつかは顕れることだった。その千鶴子と自分に、今のうち見るべきその心を正視する恐怖に耐え得せしめようと企てた東野の心底は、これを避けずしっかと感じるべきだと、矢代も肚を据え直した。それにしても、彼は東野の素知らぬ顔のまま不意にこちらを落すいつもの癖に、脅やかされたそれだけ反動もまた鎮りかねるのだった。それも矢代には分っていることだとしても、まだ内心胸を突かれておどおどしているに相違ない千鶴子が、少し彼には気の毒になって来た。しかし何はともあれこんな日に、偶然二人を攻める道具の揃った東野の宅へ来合せたということは、二人にとって幸運か不運かまだ彼には分らず、何かとしきりに云いたくなるのだった。「あなたもクリスチャンですか。」と矢代は、もう切開された傷口から古ガーゼを抜き出したくなって、こちらから訊ねた。
「いや」と東野は暫く黙っていたが、「これをくれた人の子供さんを一寸お世話したことがあってね、そのお礼だよこれは。」
「しかし、こういう、まアいわば結構な言葉を貰われてどうですかね、そのときの気持ちは。」と矢代は、千鶴子の悩みの整理も兼ねた逆襲の態勢も次第に加わって来るのだった。
「僕は別にどうとも思わなかったね。しかし、これを欲しいとこちらから望んだわけでもないときだったから、いよいよ僕にも来たかと観念したよ。そうだろう君。誰にだって一度は来るからな。そりゃ、ただ事ではないさ。しかし、来たものは何んとも仕様がない。これは意志でもなし精神でもない。霊魂だからね。有り難く僕はお受けしたさ。」
東野の平然としてそういう胸の裏のどこかに、まだ矢代の手の届かぬものを彼は感じた。
「有り難くね。」
「うむ、――」と東野は頷いたまま黙って矢代を見ていてから、「だって君、これは日本人がそれだけ苦労したことだよ。その他のことじゃないよ。それだからこそ、われわれの神様だってそれをお認めになって、よしよしと優しく仰言って下すったというもんだろう。僕には、そういう他国の宗教精神というものは、それ以外に感じようがないのだよ。それ以外の感じようというものは、いくら上手く云えたところで、僕には嘘に見えるのだ。見えれば仕様があるまい。」
「じゃ、神なんじと伴にありと、いうのも、やはりその神さん、僕らの国の神さまだという意味にも、あなたにはなるんですね。」矢代はそう問いつつも顔の赧らんで来るのを覚えたが、そこが東野の芸の壊れどころだと思い彼の眼の中を瞶めていた。
「それはそうだよ。」と東野はここだけ妙に静かに答えた。そして、なお穏やかに角壜の中の水を見た。「しかし、そういうことを云うと、みな人は気に入らないんだよ。主観的だというのさ。しかし、客観的にどうなって見たところで、結局は同一性という主観的なものからは脱けられないよ。天上天下唯我独尊に落ちつくこと、そこが人間知識の相場市場だ。」そう云って東野は少し黙った。そして、また紙を巻きながら、「僕はこの水と字を貰ってからいつも考えたね。これはやはり日本の神さまも向うへも行っていらっしゃるということだと、大真面目で思ったんだがね。そうでなくちゃ、僕には世界というものを感じる感覚能力も無くなるんだからね。ところが向うのものはまた向うで、自分のところの神さまを同様に考えるだろう。そういう人間感覚の較べようの不可能な世界へ、科学がぬっと顕われて客観塔という同一性の抽象塔を建てたのさ。まア、建てられるだけは、建ててみるのも良いだろう。あれは人間が退屈したんだよ。賽の河原というところだね。」
「それじゃ、カンフル注射はせずとも良いでしょう。」と矢代は軽く笑って云った。が、ふと見たヨルダンの水はこのときはもう普通の水に見えて来て、よしッと矢代は思い、これでようやく一日の危機を脱したと思って喜んだ。ところが、彼の何気なく云ったその一言に、今度は東野の方が意外に正直な壊けを見せて、瞬間自分を取り鎮めようとする多忙な眼の光りで笑い出した。
「五十鈴川のこのお水へカンフル注射をするときは、実際僕も慎重に考えたよ。しかし、水というものは腐敗が速いからね、もし細菌をわかしちゃ、勿体ないし、そうかといって捨てちゃなお悪いし、そこで僕は科学的に考えたのさ。少しは自分の精神に苛責を加えてやらなくちゃ、素直な精神という奴は固定してしまう惧れがあるよ。要するに、急所を固定せしめないのが自分に対する戦闘だよ。」
早や先廻りしてそう云う東野の弁明のしなやかさを、矢代は黙って記憶にとどめ賛同もしなかったが、彼の苦しみの存するところもまた感じて、急所は固定しかけているなと思った。すると、東野は突然自分の膝を軽く打つと、「あ、そう君に云うの忘れていた。」とそう云って、傍にいる千鶴子の耳を憚ることでもあるのか、そのまま云い出さず、古万古の袱紗の口を締めていた。矢代は度重なる東野の今日の不意撃ちにまた何を云い出すのかと重苦しい感じだったが、やはり彼の動き出す言葉を待つのだった。
「先日ニュー・グランドで、君たち帰った後からの話だがね。いろいろと諸君のこともまた出たのさ。そのとき最後に久木男爵が、君に自分の会社へ来てくれる意志があるか、どうか。一度訊ねてみてくれと僕に云うのだ。僕は君の会社向きでないことを云って、一応反対したんだがね。男爵の方はまた、考えがあると見えて、それだから君に入社して貰いたいというんだね。それなら話は分るが、その代りに高給を出してくれるか東野大学出身だからと、つい僕は冗談を云ったのだよ。そしたところが、即座にそれは僕に任すというのだ。僕にだよ。面白いじゃないか。」
と東野は云ってにやにやしながら矢代の顔を窺った。
「それであなたは幾らくれるんですか。」
他の会社へならともかく、聞いたときから久木会社へは勤める気持ちのさらに動かぬ事情もあり、矢代は給料のことなども冗談のつもりでそんなに露骨に訊ねられた。
「それで僕は、じゃ、無給にしようと答えたのさ。本当の話だよ。どうかね。」
無茶な話とはいえ、考えればこれには含蓄ある展望も開けていた。しかし無給とあればともかく、考慮の外で断ることの出来ぬ人情の世界の相談になって来たと、矢代も難問に直面した思いになったが、どこまでが真面目な一点だかその朧ろなところが、彼の身をよろめかす温みでもあった。しかも東野の瞳の中には、こちらの結婚という急所を睥み据えた鋭い笑いの秘められているのも、返答を待つことの特別巧みな東野としては勿論、矢代の入社試験の問題をもともに投げ出しているにちがいなかった。
「とにかく急所を固定せしめないように、暫くその返事延ばさせてくれませんか。」と矢代は答えた。
「うむ、しかし、向うは大真面目だよ。」と東野はひと言洩すと、漸次机上の物を片附けていった。
矢代は東野の立ち上った甚兵衛羽織の後姿を眺め、継ぎ継ぎと大小の礫を投げつけては姿を昏ます迅速なその手際に、ついこちらも自分を無くしてゆく疲れと寂しさとを感じ、またこれからの食事も共にしなければならぬ数時間の長さが、異常な忍耐に思われて来るのだった。
夕暮が迫って母屋の方から東野の子供の声の聞えて来たころ、三人は家を出た。
夕食は東野の行きつけの相鴨を食べさす店だった。上げ潮の隅田川の水に灯の映って見える玄関の軒灯をくぐり、二階へ昇って行くと真紀子はもう先に来ていた。彼女は東野とはつねに会っているらしく、二人の間で何の挨拶もなかった。矢代はパリでは真紀子と宿が同じのせいもあって、会うとやはり懐しかった。それでも東野と並んでいる彼女の背後に久慈の姿が絶えず纏いついて放れず、話すにしても、真紀子との間に久慈がいてこそ感情の連絡も維持された習慣も、急にそれが東野に移っている変化は何かにつけ当分具合も悪かった。またそれに気附いている真紀子も、いつもと違った遠慮がちで、話も双方ともに滑らかに辷らなかった。
すきやきの鍋を、真紀子と東野、そして、千鶴子と矢代と二つに頒けた。鍋がそれぞれ熱くなり油の面にしみ崩れて来たころ、東野はセーヌ河の岸にあった有名な鴨店の鴨と食べ較べてみて欲しい、ここのは勝るとも決して劣っていない味だと云って、誰より先きに一人喜んだ。一同が黙っていると、鴨の食べ方を説明して、みなのはなっていないと非難しつつ、おろしに入れる醤油の差し方、手ごろな柔かさの味加減をいちいち細かく看守っていて指図した。東野の訓えるままにして食べたものは、なるほどどの肉も味が数倍上等だった。
「これで少し、もう季節が過ぎているからね。ほんとに、一月二月のを食べさせて上げたいのだが。」
東野は自分の作のように残念がりつつも、鍋の下の炭加減にまで注意しつづけ、他のものがいかがわしい肉を摘まむと、それを箸から抛り落し、「これこれ、」と云っては別な適当のを指し替えた。
「驚いたな。来つけたのは古いのですか。」
と矢代は感服して訊ねた。来つけてから十年になること、そして、この家のどの古い女中も肉の択び方、炭加減、大根おろしの量の盛り方などは、自分よりも下手だと云って、特に、この店の良心的な野菜類の選定の厳格さを賞した。葱は上州から、人参は京都、海苔は大森、椎茸は伊豆、と一流品の出所まで精しく話した後、ここの鴨だけは芸術品になっているとまで、ついにそのあたりから東野の説明も少少うるさくなって来た。
「しかし、君、日本の芸術家の中で、第一番は農夫だと僕は思うがね。」
とこう東野が続けて突然に云ったときは、いつもの癖とはいえ、もう厳密科学の真理の表現が逆説とならざるを得ぬ状態に似ていて、何か切っ羽詰った苦しさが裡に巻き溢れているように矢代には感じられた。
「あの手で真紀子さん、俳句の方も叱られているころでしょう。」と矢代は笑った。
「そうなの、先生はあたしの句賞めてくだすったこと、たった一度だけ。それもあたしの一番いやな句ですのよ。」
矢代から東野へ瞬間流眄を向けそう云う真紀子の笑顔を見て、矢代は、まだ東野に対して弟子とまでは云いがたいなと思った。
「真紀子君のあのときのあの句は良いよ。待つ朝の鏡にうつす青落葉――そういうんだがね。いいだろう君、ルクサンブールの朝がよく出ているよ。それも一寸自棄ぱちな静かな凄さが潜んでいてね。」
東野の説明を俟つまでもなく、その句の「鏡にうつす」という自動的な表現で、久慈と別れる朝の真紀子の覚悟が、青葉を繊手で※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]ぎ落とすように鮮に出ている句だと矢代は感じた。そして、なおそのころの真紀子たちの心境の移り動きも知りたくなって、いま少しその他の句を披講して貰いたいと頼んでみた。
「まだいろいろあったね。荷造りのくずれ痛める冬の旅――これもまア、見られる。」
「それは先生に直していただいたの。」と真紀子は云ったが、そう云い終ると一寸首を竦めて俯向いた。
「いまの句は句以外に、久慈と僕との間のことで面白い意味があるのだよ。これは話さぬと実は味も少いのだが。」
一つ話してみるかと東野は相談を真紀子にしかける風に彼女を見てから、久慈が真紀子と別れるとき東野の宿へ来た
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