日の挿話について語った。それによると、パリを発つ東野のことを聞いて来た久慈が、真紀子も一緒に連れて帰ってくれと彼に頼み、そして云うには、もう自分と真紀子とは別れること以外どう仕様もない事情にまで来た。原因についてもこれも判然としないが、前から東野に真紀子が俳句を見て貰いたい意志のあるのを幸いにして、今日は押しかけて来たのだから、自分は真紀子をよく荷造りした手荷物にするから迷惑でも、これを日本まで持って帰って貰いたいと云ったという。その荷造り君が出来るかと東野が訊き返すと、それは大丈夫自信があるという答えに対し、東野はまた、それでは今から少し袋の一角を切り取って置いてくれるように、そこから俳句を御馳走して健康の恢復に努めてみようと、そういう二人の単純な冗談がもととなって、意外にもそれが事実化して来たのだとの旅先に有りがちな挿話だった。
「しかし、そのエピソードは句の美しさを殺して駄目だな。」と矢代は云った。
東野は黙っていた。彼にしてはむしろ句の善悪よりも、前からの真紀子との間の自分の立場を明瞭に語りたい意の動きで、彼女の作句の中からそれに適当したものを択んだにちがいないことは分っていたが、それでも矢代は愉快ではなかった。殊に久慈のそのときの軽軽しい諧謔が、旅先とはいえ眼について、傍にいた真紀子の洋装まで品下った皺の潜むように見え、初めの悽艶な句にまで挿話の汚紋が滲みのぼって来る曇りを覚えた。
「大西洋でクイン・メリーの揺れたときの句だったが、冬薔薇の芯すら落すローリング――そういうのもあったよ。あのときの船の揺れば、相当だったね君。」と東野はこのとき真紀子に、珍しく当時の船室を追想する耀いた眼差に変って云った。
「ほんと、あのときはあたし、もう死ぬんじゃないかしらと思ったわ。あんなに揺れたこと初めて。」
真紀子も表情を眼に籠め、傍の千鶴子に対って云った。しかし、その豪華な船室の揺らめく句は、東野と真紀子の航海の愉しいさまを髣髴させているばかりではなく、その夜の二人の危ささえよく顕した艶麗な作だと矢代は思った。それにひき換え、シベリヤの荒涼たる中を流れて行った当時の自分の一人旅の寂しさを、今さらに矢代は感じ俯向いた。
東野と真紀子の方の鳥鍋は火も強く、ローリング激しい船室の句の出たころから、次第に活き活きと愉しげに変っていった中でも、千鶴子はどういうものか一人黙りつづけて沈んだ。矢代はときどき千鶴子を見たが、千鶴子はその度びに視線を彼から反らして悄気て来た。
矢代は、東野と真紀子との間を知りたく追い廻していた自分の眼に、ぱっと投げかけた東野の老練大胆な句の選択の仕方には、千鶴子や自分の若さに対して復讐めく興味の潜みも覚えたが、それが直接こちらへも、響き傾いて来る波の高さだとは予期しなかっただけに佗しかった。それも相手の二人は、別の鍋に揃って対い、エピキュリヤンの鍛錬に打ち向ってゆく覚悟歴然としつつある際だったので、こちらの鍋もストイシズムで立ち向いたい戦闘心の秘かに燃えかかろうとする矢さき、千鶴子に沈み込まれては、炭火も崩れるようで鍋を覗くのも自然に滅入った。
「蝶二つ一途に飛ばん波もがな――これはボストンでの作だったかな。勢いあまって悲しさ優れりというところだ。」
となお東野は続けた。もう何気なく云っているのではなかった。瞭らかに、いずれ矢代たちの若さには負けるのだと云いたげな、無遠慮な彼の戯れも籠った放胆が見えて、矢代は、この仲人の寂しさも急に人事ではなく思われて来るのだった。が、それも口誦んでいるうちに、ふとどこか沈んだこちら二人の今の身を引立てる祝詞とも合せ考えられて来るところに、この句の不思議な作用があった。そして、この場合はそれが後者だと思えて来る度がいよいよ強まって来たとき、
「頂戴しました。有りがとう。」
と矢代はそうひょっこりと東野に云った。
「いや――」と東野はさすがに嬉しそうな顔に変った。しかし、婦人たちは矢代の挨拶を真紀子たち双蝶のボストンに於ける睦しさの返礼と解したと見えて、急に笑い出した。矢代もそう受けとられても無理なく当然のときとて、一緒に笑った。
「こちらの鍋はいっこうに元気がないな。火を一つ掻き立てて見てくれ給え。」と矢代は鍋の耳を両箸で持ち上げて千鶴子に催促した。千鶴子は矢代に気附かれた具合の悪さで首を曲げ、燠の灰を払い落して立てよせながらも、やはり虚ろなように元気が乏しかった。矢代は彼女の元気のない手もとを見ていて、原因は真紀子の美しい俳句からではなく、むしろ東野の家を出る前から続いているように感じら打て来ると、それなら眉子山房のあのヨルダン河の水を見た以来の苦しさの名残りだと気がつき、そういうものならこれは一日や二日では癒らぬものだと、彼も同時に山房の水の寒けが再び襲って来るのだった。
「蝶二つ一途に飛ばん波もがな、――いいなア」と彼は蟠って来た思いを吹き消すようにそう云って、自分たちの飛び立つ海の明るさ波の広さを眼に泛べ、傍の千鶴子にもともに並び立って飛ぶ翅の用意を命じたくなった。間もなく千鶴子も彼の喜びを察したものと見えて居ずまいを正した。そのうち鍋もまた次第によく煮えて来た。矢代は千鶴子が強いて居ずまいを正したのではないことを心ひそかに希った。そして、早く一切の濁りを二人の間から取り払いたい気持ちでいっぱいになるのだった。
花の散った後の桜は葉の貧しさが急に目立った。薄紅い萼に鬚のようにのび残った雌蕋に、日の射しているのも、花あとの疲れがほの見え佗しい春の深まりになって来た。通りすがりの御用聞きが懐から目薬を出して、一寸眼に薬を落して去って行く後姿を矢代は眺め、やがて葉桜に変ろうとする前の葉越しの季節は、いいがたい寂さの含みあるものだと思った。
彼は千鶴子との結婚のことを母に云い出すのを、寝る前の静かな時を選びたいと思い、この日は朝から夜の来るのを待っていたのだったが、日の落ちそうに傾いて来た今となっても、さてそれを云い出すときのことを思うと、不思議なほど羞かしさを感じてつい怯んだ。ほんの一言で良さそうに思えるその瞬間が、どうしてこんなに羞しく感じるものか、彼はわれながら意気地のなさに呆れ、夕暮の迫って来た自宅の傍の小路をひとり廻り歩いてみた。心の落ちつきを計ってみたり、新芽をち切り歯で咬み砕いたりしながら、同じ道を幾度も歩いては、千鶴子もこのような気羞しさを押し切っていったものだろうかと、今さら女性の勇敢さに彼は感心するのだった。そのうち、桜の葩のあたりの路上を白く浮き染めている所まで来たとき、
「ほうッ。」
と、彼は初めてそう呟いて立ち停った。透明な薄明の迫って来る冷たい底から、眼に沁みこもる葩の白さに彼は急に結婚のことも忘れた。それは世にも見事な、思いがけない美しい世界だった。まだ人にも踏まれていない、点点とした鹿の子斑な路の上は、埃もなく少し湿り気を帯びた柔かさで、見れば見るほど、いちめん葩を滲ませていた。
「これはどうだ。縁起がいいぞ。」と彼はまた呟いた。薄雪のように鮮やかな路はまだどこまでも続いていた。下から射す明るさに眼も落ちそうになり、定めようのない焦点の散乱した思いで矢代は坂を下っていった。坂の下に川があり、そこも桜の吹きこぼれた草の間を水が流れていた。巻き下って来る厚い泡の中には、桜を集めた塊りが浮んでいて、瀬の落ち込む水流に撥ねられ、花の団塊は熄む間もなくぐるぐる白い圏を描いていた。
矢代は木橋の袂によって水面を見降しているとき、三十を二つ三つ過ぎた主婦が、片手に重い包みを携げ、片方で生れて日数のたたぬ赤ん坊を抱いて通っていった。着ぶくれた赤ん坊は母親の両腕から爆けそうにかさ張っていて、厚ぼったい綿入れのおくるみの襟が歩く度びに拡がった。別に取り立てた光景ではなかったが、見ていると、唇のようなその厚い友禅のおくるみが拡がるので、母親の眼が邪魔され、彼女は立ち停ると襟を口で啣え引きよせてはまた歩いた。その様子は、餌を啄んで来た親鳥が子鳥に物をふくませている必死の籠った恰好に見えて、矢代は暫くその母親の姿から眼が放せなかった。
いつもの時ならともかく、夜になれば千鶴子のことを母に云い出そうと決めていたときだけに、親鳥のその姿は、自分の知らぬ部分の母の労苦に見えて胸を衝くものがあった。しかし、今彼は、そのような光景から特殊な意義を見つけたい気持にはならなかった。むしろ、今は自分もまだおくるみの中にいる児と別に違わぬように思われて、駄駄をもこねかねない自分になりそうな気もされると、いつまでたっても、子は子のようなことより考えられぬものだと思うばかりだった。理窟だけは一通り云うことが出来ても、母にはもう言葉など一切無用のものに見えて胸も透り、感謝の念も昂まって来るのだった。森の梢に風が立った。そして、夕日が校舎のガラスを射ながら沈んでゆくのを見おさめてから、矢代は家の方へ引き返した。出て来るときは、気重く充実した気持ちで坂を下ったのも、帰りはもう一度少年のころの駄駄を繰り返すような気軽さで家へも這入れた。家では夕食の用意が出来ていた。
食事をすませてから湯に入り、お茶どきに母の呼ぶ習慣の時間の来るのを書斎で待っている間も、彼は、初めに母に云い出す言葉を一寸考えてみた。しかし、ひとり考えた通りの切り出し方は出来そうにも思えず、そのときの成りゆきに任せ自然に唇が動くままにしたいと思って彼は気を沈めるのだった。
間もなく階下から母と幸子の話し声が聞えて来た。話は猫を病的に愛する癖のある隣家のことで、話のひまひまに幸子の笑い声が暢気に高くつづいていた。婦人ばかりの隣家には猫が五疋もいて、中の一疋がこの朝死に、この葬いに幸子がいって悔みに花束を出すと、声を揃えて一家が泣いたという有様を、妹は口真似、手真似までしているらしくおどけた笑い声だった。
あの快活な笑い声へ、ぱしゃッと水を浴せるように、いま結婚の話を持ち出すことを考えると、矢代は二階から降りて行くのもまた怯むのだった。しかし、こういうことでは、いつまでたっても決しかねるばかりだと思い、ちょうど折よく怯んだのを幸いに、その自分の弱味を摘まみ出し前へひき据える気持ちで、彼は自分から階下へ降りていった。何んとなく猫を一疋摘まみ下げている風で、笑いのまだ消えない二人の傍へ彼は静に坐ってから、お茶を母に先ず頼んだ。
「いまお呼びしようかと思ってたところよ。」
と幸子は母に代り、急須に茶を淹れながら云った。
「兄さん聞いてらっしたんでしょう。猫のお葬式よ。人間とちっとも変らないの。お隣り。」と幸子は肩を竦めそこだけ声を低めて、またくっくっとおかしそうに笑った。
「でも、それだけにしときなされば、御功徳になるものですよ。そんなに出来るものじゃありませんよ。お優しい方だからね。」と母は笑いを停めて云った。
「でも、猫であれだけ悲しんで泣くのなら、人間が死んだらどうなさるかしら。あれ以上は悲しめないわ。まア、みいちゃん、こんなになって、って、おんおんお泣きになるんですもの、あたし御挨拶のしょうがなくて、弱ったわ。御飯もその日は誰もお上りにならないんですって。お線香上げて、お華を上げて、お坊さんまで来たりして。」
「これこれ。」と母は幸子の声の上るのをたしなめた。
たとい猫の葬いであろうと、父の死後まだ日数もたたぬのに、そういうことを口にする幸子の鈍感さが矢代には面白くなかった。そのくせ誰より父の死を悲しんで泣く幸子だのに、明るいときにはそれも気附かず矢鱈と浮き上っているのが不審だった。母が菓子を持って来て二人の前へ置いた。矢代は黙って茶を飲みながら、幸子の話の落ちつくのを待っていたが、幸子はそれからそれへと独り喋りつづけた。友達のこととか親戚のこと、隣家の女中の噂などと、人を笑わすことの巧みな幸子の話を聞きつつも、矢代は、この妹のいる前ではやはり今夜も駄目だとあきらめようとするのだった。
そのうち話も衰えて来て皆が黙り込んだとき、幸子は急にじろじろ兄を見始めた。そして、眼を異様に耀かせ気
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