味悪そうに机の上から肱を脱すと、身を彼から除ける風に引いて、
「どうしたの、兄さん。」と訊ねた。
いつもなら少し変ったことのある場合すぐ勘づく妹にしては、今夜は遅すぎた方だったが、それでも、早や気づかれたかと思い矢代は動悸が早く打った。
「先日の叔父さんの話ですがね。出しぬけに失礼ですが。」
矢代は妹には云わず母に対ってそう云いかけると一寸黙った。母は「ふむ。」とかすかに云っただけで、じっと俯向いたまま澄んだ表情に変った。
「式はいつでも良いのですが、僕の結婚のことは、僕に任せていただけませんでしょうか。」
矢代はこれだけ云ったとき、ふと後はもう云わずとも良いような気持ちがした。彼は織部の湯呑の碧い口を、つよく拭くように撫でている自分の指さきを見ながら、何か煮えるように熱くなった身の裡で溶け崩れてゆく別の悲しみを感じた。しかし、一切がこれで済んだ、そう思うだけでも彼はその後の母の答えをもう待っていなかった。
「あなたの好きな人なら、それで良いでしょう。」
母は前からこんなときの答えを定めていたらしい低い声で云ってから、眼をぱちぱちさせ、まだそのままの表情で畳の上を瞶めていた。彼はそれだけで身体が底から温まるように感じた。飛び立つような興奮も覚えた。
「どうも有りがとうございました。」矢代は湯呑みを放してお辞儀を深く丁寧に一度した。
「詳しいことはいずれお話しますが、外国で知り合になった人だものですから。――お父さんの骨も拾ってくれた人です。」そう彼が云うと、「ふむ。」と母は急に口もとに少し笑みを泛べて頷いた。
「どうもすみません。」
彼はこのときは謝罪の気持ちがいっぱいになってまた頭を下げた。そして、すぐ立って、その足で別室の仏壇の前へ行き、そこで父を頭に泛べて礼をした。少し遅れて後から仏壇へ来た母と擦れ違いに、彼は二階へ上ろうとすると、踏む段ごとに、母と何かが断ち切れたように感じられて涙が出て来た。もう一度前に戻りたい気持ちを見捨て流れに身を任すような切なさで、声を抑えて彼は泣いた。
彼は二階で独り坐っていても母との別れの恐しさがまだ続いた。そんなに自分を引きよせていく見えぬ千鶴子がこのときは憎憎しく、成就した結婚の形のすっきりと整っていったのに反して、首垂れるようなふかぶかとした寂しさを覚えて来るのだった。
二三日の間、矢代は母から結婚の承諾を得たことについては、千鶴子に手紙を書かなかった。前にも千鶴子には、母の承諾を得ることの難事ではない理由を、彼も公言したことがあって、その自信に間違いなく事情は進展して来たのだが、しかし、それはあくまで自分の方の内実を一応確かめておいたまでのことだった。まだ千鶴子の家の方の確かな内諾もないときに、ひとり急いでは、失敗のときの自分の責め苦を引き受ける心算でいても、そのため母にまで与える苦痛を思い、矢代は手綱をひき緊めてかかりたかった。相手は千鶴子ではなく彼女の母である。いつどのような理由でぐるりと変るかもしれない不安な部分が、まだ相当に色濃く矢代には映っていた。もし千鶴子に手紙を書くとしたら、先ず慶びとともに何よりその不安さを無遠慮に書きたかった。
しかし、ここに一つ彼に手紙を書き渋らすことが起って来ていた。それはやはり一応懸念のことで、千鶴子がカソリックだということだった。今さら彼女がカソリックだという理由で結婚をためらっているのではなかった。自分も日本人であるからは、今はそのような他国の宗教のことなど躊躇することもなく、這入って来たものである以上素直に自分の中なるものの一つとして、これを眺め、改め直してもみたい興味もつよく、その勇気もまた感じた。しかし、もし千鶴子が何かの弾みにカソリックの宗麟に滅ぼされた矢代家の特殊な歴史を知り、反対に母が千鶴子のそのカソリックを知ったときの、ある恐慌を予想すると、今からそれを告げ知らせて置くべきか否かに躊躇せざるを得なかった。たといそれは杞憂にしかすぎぬとしても、もし今かりにその事実を明瞭に話すとすると、この結婚は纏るよりも崩れる可能性の方が強かった。
矢代は、結婚という神聖なものの際に、そんな破談となるべき性質の介在するのを承知で、千鶴子と母との両方にその部分を隠匿して置く自分の不潔さが赦しがたかった。彼は母からの許可をそのまま千鶴子に書きかけてみても、いつもペンを投げ出させるのはその感情だった。自分の得た生の預り知らぬ遠いむかしに起ったことが、今ごろになりむくむく起き上って来て手紙を書きかける彼の腕をぴたりと抑えるのである。彼はそれを何か先祖の霊が二人に故障を起さしめない警告のためか、それともこの結婚は頷きがたいという意味かと、そんなことまで考えてはまたペンを持ちかけたが、やはり駄目だった。それも、妄想を押し沈めれば沈めるほど、遠くから瞶めている一条の透明な眼が冴え迫って来るのだった。
「嘘をいって見よ、砕いてみせるぞ。」
と眼は云いかけて来る。
「しかし、真実さえも私はまだ書きませぬ。ましてや嘘など申そうとは。」
と彼は答える。しかし、こういうことを答えるときでも、彼を瞶めている遠方のその眼の在りかは、矢代の家の城の滅んだ年ごろの遠さからではないように思われた。それはなおはるかに遠くからで、彼の記憶に溜った歴史の外遠くから射し透って来ている霊に似た、光りか波か分りがたい、時そのもののような澄み徹った静寂な眼であった。父の葬をすませた夜夢に見た父が、寝せても寝せても半身を起して来て、じっとどこかを瞶めていた遠方も、やはり今彼に顕われて来ている眼の方向と同じように思われるのであった。すべて物事の起るということは、そういう遠方のところから射し起って来ると思う近ごろの彼には、何か判断を要する切羽つまった場合に、彼の視線の自然に対う方向もまたそちらだった。それはこの世の外であったが、またこの世の中にあった。随って、このような眼を感じるときの矢代には、千鶴子のカソリックも母の仏教もともに彼から意味を失い、溶け混じた空なるものに見える習慣だった。
矢代は千鶴子に出す手紙には、自分のそのように見えて来ている空というものの考えも、よく彼女に分る風に書き込んでみたかった。
「こちらで起ったことは、みんな間違いだなんて、そんなこと、――あなたがいつもそんなことを思ってらしたのが、何んだかしら、いやアな気持ちよ。」
パリで別れる際にそう千鶴子の云った言葉に対して、矢代が返事を与えねばならぬのも、彼はこの手紙の中で書くことが適当だと思った。すべて外国で起ったことの締め括りは、自分の国に戻りついてからにしたいと思ったあのときのことなど、それもやはり帰って来てみて間違いではなかったと今彼は思うのであった。
矢代は結局千鶴子に手紙を書いた。それには、さまざまな自分の考えを述べた中に、キリストのようには自分のいのちを怨みに思ってはならぬということ、そして、もしキリストが日本に生れていたなら、もっとも科学的に考えた場合、高山彦九郎の位置にいたと思うということを忘れずに附けてから、最後にこう書いた。
「僕は自分の家の悲劇に関しましては、初めはあなたに云いたくはないと思いました。しかし、あなたも一度は僕とともに、カソリックの用いた大砲に滅ぼされた僕の先祖の城を見て下さる日のあることを想像し、そのときのあなたの悲しみ――あなたの子供の先祖の荒廃した城あとを、御覧になる日のことを思い描き、やはりこれだけは隠すべきことではないと決心いたしました。よしたといこのことが、どんなにあなたの胸を衝く結果になったとしましても――一度は正視すべき要のあるひそやかな惧れを、今のうちにあなたと共に切開して置きたいと思います。しかし、僕としましては、このカソリックに感謝すべきことが少くありません。第一に、僕の先祖の城が、日本で最初に用いられた大砲のために滅ぼされてみたということです。この犠牲は、他のいかなることよりも、なくてはならぬ重大必要な犠牲でした。今はも早や、どの人人の脳中からも消え去ってしまっている貧寒な犠牲でありますが、しかし、これほど近代の日本にとって緊要な犠牲があったでしょうか。火薬の爆発力を初めて感じた瞬間の壊滅の中には、世界を変形しゆく何ものか見えざる意志の秘密を、誰より先に感知した叫びが籠っていた筈です。この最初に大音響の発声された地が、僕の家の城砦だったという偶然は、これを僕はただの偶然事として見るほど、先祖を侮辱する気持ちにはなれぬのです。これを子孫が栄光と感じるのは、敗北を喜ぶ僕の感情とも見えますが、しかし、僕らの国の中で起った敗北は、すべて敗北にはならず、散華に変じるという奕奕たるわが国の特殊性を感じましたのは、何んといっても、僕の外国旅行の賜物だったと思います。そして、このようなことをもし負け惜しみとあなたが解されますなら、僕には、自分の国の美しさが分らなくなるのです。またあなたと結ばれようとする僕たち現在の運命の慶びも。――僕は一日も早く、もう姿を消しかけている僕の家の城砦にあなたとともに登り、雑草の中に伏して、あのパリの杜の中でのように土の匂いを嗅いでみたいと思います。」
千鶴子に与える恐怖を和げる気持ちも手伝ったとはいえ、矢代は、そのために偽りなく大胆になり得られたことを今は喜び、幾度も読返してその手紙を出すことにした。
千鶴子からの手紙は一週間も隔いて届いた。それは矢代が予想した慶びよりも、むしろ煩悶し、恐怖した心情のさまの露わに窺える手紙だった。彼の手紙を見た暫くは、自分にこの結婚の資格のないことを初めて自覚した苦しみが述べてあり、今もそれが取りきれず、矢代の慶びに応じて結婚すれば、このさきとも、何事か恐怖すべき事柄の起りそうな予感におびえ、夜もよく熟睡しかねる日日がつづいたと書いてあった。
「あたくしは慶んでよいのでしょうか、悲しんで良いのでしょうか。自分の信じた人のお家が、撰りに撰って、そのような、夢にも思わなかったカソリックの犠牲になられたお家だとは、何んというあたくしの不幸でございましょう。お手紙を拝見いたしました初めは、恐ろしくて、身体が飛びちってしまいそうでした。それでも幸いなことに、あたくしはまだあなたの御想像なさいますように、信仰深いものではございませんでした。ただあたくしの過去が過去で、何も識りませず、習慣のまま、今のような心もちをつづけてまいっただけのあたくしでございました。あなたの仰言いますように、自分のいのちを怨みに思ってはならぬということも、よくよく考えてみましたが、このようなあたくしの苦しいことも、怨みに思ってはならぬのでございましょうか。それとも、あたくしのこんな考えなどは、ひねくれた心の苦しみと申すものだろうかとも、考えたりいたします。お慶びしなければなりませぬときに、何んという悲しいお手紙になったのでしょう。あたくしは書いたり、破ったりいたしましたが、幾度書きましても、涙が出て来てなりませんでした。外国から帰りましてから、いろいろお訓えしていただいたりしたことも、まだ身につかないのかとお怒りになることと存じますが、ぼんやりもののあたくしながらも、お訓え下さったこといつとなく、考え込んだりして来ておりましたのが、今となって、あれもこれもと、一時に思いあたり、吹き襲ってまいりますので、お心のほどのお優しさ偲ばれ、なお悲しくなってまいります。みんなあなたのお家の方方のお許しや、あたくしの家のものの、許しのありました嬉しさに包まれながら、あたくし一人、なおこのような心暗さになりましたこと、何卒お赦し下さいませ。それにつきましても、結婚のことは、あたくしのこんな心ぐらさのままではと思い、拭き清められます日までお待ち下さいますことの我ままお願いいたしたく存じます。
[#地から2字上げ]千鶴子
耕一郎さま
矢代は千鶴子の手紙を読み終ってから、この手紙の返事は時間を遅らせず、すぐ出さねばいられぬ焦躁を感じた。穴の中へひとり落ち込み、藻掻き苦しむ様にも見え、何かの弾みで間違いを起しやすい、
前へ
次へ
全117ページ中102ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング