野の短い説明の仕方も要領の良い飛躍で、目ぼしい品の前に来ると自分も見直すという風にひとり感嘆の声を上げ、
「どうです。君も少し勉強してお習字でもやり直してみませんか。」と彼は千鶴子に笑って云った。
「じゃ、真紀子さんもおやりになってらっしゃるの。」と千鶴子は訊ねた。
「早坂は僕の弟子になったんだからなア、あれには無理にもやらせるつもりだ。しかし、俳句は相当上って来たね。まだひどく性格が大正流に崩れておるのでね。それをこの硯で直してやるのですよ。」
褐色の袖無しを着込んで机の前に坐った東野の眼が、底光りしながら開いた額の下で涼しい微笑を帯んでいた。矢代は眉子を棚から下して掌に乗せ、硯面の蚕に似た斑紋を透かして見て、東野の俳号も眉子というのかと訊ねた。
「まア、いつの間にかそんな風になったのだなア。僕は家内が勝子というものだから、初期の間は、例の見て来て勝つで、ラテン語でビシと洒落てみたのさ。ところが、だんだん硯の方が好きになってね。このごろじゃ、眉子は中国の硯だから、ひとつ日本名に改名して何んとか庵とでもしたいと思ってるところだよ。名は他人につけて貰うのが一番いいんだから、一つ考えといてくれ給え。」転調していく東野の冗談の中にも、彼の歴史の悲調な笑いが短く籠っていて矢代は面白く思った。
「でも、それじゃ奥さんにお気の毒だわ。」と千鶴子は一寸扁額を見上げて云った。
「ところが、家内はまた僕より墨の方が好きらしいのですね。相当に良墨を持っておるですよ。何んとかして盗んでやろうと隙を窺ってるんだが、こ奴だけはなかなか頑固に放さない。何しろ墨は硯と違って、触れると忽ちそれだけ減るでしょう。一度僕はこっそり家内秘蔵の明墨を、この眉子で擦ってみたが、いや、その手触りの良さといったら、ぴりぴりッと髄に電感が来たね。それで僕は下手な句を一句書いてみたが――」
「何んという句です。」と矢代は訊ねた。
「菜の花の茎めでたかれ実朝忌、というのだったかな。僕にしてはその句は、細みのよく出た句ですよ。俳句というのは、硯と墨とがぴたりと吸いつき合った触感の、あの柔い微妙な細みから、自然に滴り落ちた一滴の雫でなくては駄目なんだよ。ぽたりッという音がして、墨の匂いがぷんとしてね。」
東野はそう云ったかと思うと、急にそのとき表情が変り、どうしたことかまったく不意に、
「君たち結婚式はいつですか。」と矢代に訊ねた。
その質問があまりに突拍子で連絡がなかったため矢代もつい笑い出したまま答えなかった。
「しかし、君たち早かれ遅かれ結婚するんでしょう。そのとき僕はお祝いに、この眉子で詩を贈ろうかと思ってね。水は五十鈴川の取りよせたのがあるからそれで書く、墨は家内の例の明墨を選ぶ。」
それは何より有り難いと思ったが、その途端に東野の今までの硯と墨との説明は、つまり二人の恋愛を意味していたのかと、矢代は初めて悟るのだった。一見こういう風な無意味なことも、いつか意味を持ち出して来ている東野の言動は、日常坐臥の生活そのものが芸と見え、それにはパリ以来久慈や矢代の絶えず悩まされたものだった。しかし、二人は彼に落されてみてから、結局その方が早道だったと気附いたことも再度ならずあった。今もやはりそうだった。
「実はそれでお願いがあるのですよ。」矢代は身動きしてなお前からの笑いをつづけた。すると、東野は矢代のその後の言葉を察したものか「ふむ」と云ったまま、どこか鳥のような両耳の部分で見ている風に、千鶴子と彼との中間の一点を見詰めていた。
「いずれ、もう一度あらためて伺いますが、どうもあなたから云われたんじゃ、少し芸がなさすぎるなア。」と矢代は傍の千鶴子を顧みて笑った。
「それはお芽出とう。しかし、僕の家内は寝ているから出られないよ。代りに早坂に出て貰うが、いいなら、おつとめ励むよ。」
即座に応じてくれた東野に、「結構です、どうぞ。」と矢代は頭を下げたが、いつもこういう場合に自分の出遅れる性癖を見せつけられた思いも強く、暫くは自己嫌悪を覚えあたりがぼっと暗く狭ばまって来るようだった。その間にも東野は仲人のそんな勝手な申し分は、本人は良かろうとも、両家の両親の意志をも尊重すべきが至当と思うから、なおよくこの事は相談の結果を待とうと、親切な保留さえしてくれたりした。そして、最後にまたこうも云って笑った。
「とにかく、諸君は人に気骨を折らせるお二人だよ。それは定評だからね。諸君は知らないだろうが、君たちの立った後というものは、皆がよると触ると君らの噂やら、臆測やらで、議論百出するよ。ひどいのになると、日本へ帰ったら僕に、君らの結婚をぶち壊せ、その必要を認めないというのがいたね。意味が分るか君。」
「どうしてです。」と矢代は訊ねた。
「誰にもやれないことをやったからさ。君らが外国で結婚もせずに、そのまま西と東に別れて帰ったのを、久慈は面白い皮肉を云っていたよ。あの二人の馬鹿は、今ごろ地球を二人で締めつけているようなものだが、お蔭で俺まで苦しいと云ったね。」
「あの概念、何に知って。」と矢代も思わず云って苦笑を洩した。
「しかし、まア、誰でもやれることをやって苦しむよりも、やれないことをやって苦しむ方が、意義があるさ。」
東野の低く沈んだ声に変ってそういうのを、このときは矢代も、自分のこととしてより東野自身のことを呟いたように受け取れた。そして、東野が立って部屋の外へ出ていっても、その後に残った彼の呟きの意味だけが尾を曳いて残り、そこに真紀子の姿の潜むのも感じられてからは、千鶴子とすぐには語れぬものもあって、この山房の午後の空気も暫時霽れ間を見せて来なかった。
矢代は棚から活眼のある古硯を降ろして眺めた。端正な重みの石の冷たさが掌へ滲み停って来る底に、まだ落ちつかず紊れるものの陰影を感じ、彼はそれも背後にいる千鶴子の体への騒ぎだと気附くと、微塵のように光る硯面に点けた指紋の曇りの晴れて来るのを待ち眺めるのだった。そうして暫らく彼は動かずじっとしているうち、硯の放つ光沢の中からパリのオーグスト・コント通りの街区が泛んで来た。あの通り全体ちょうどこんなだったと思うと、千鶴子とパリで別れた最後の夜、雨の降る中をそこまで来て、ベンチへ倒れ込むように腰かけたときのことが思い出され、それも今はこうしてそのときの苦しげな姿を手にとり眺めている自分だと思った。硯から手を放し、彼は後にいる千鶴子を見た。手摺によせかけた体を曲げ、庭の芒を眺めている千鶴子のなまめかしい矢絣の紫が、今日は重い帯をつけ打てば鳴り出しそうに休んでいる。
「眉子山房も真紀子さんの弟子だと容易じゃないなア。」と矢代は云った。
「今日いらっしゃるかもしれないわ。今お電話のようでしたから。」
「しかし、それはいいとしても、あの二人の前で久慈のことを話していいかどうか、そこが難かしい。」
「でも、そんなこと――さきほどだって、東野さんから久慈さんのこと仰言ったんですもの、いいと思うわ。」と千鶴子は矢代を見上げた。
「それにしてもさ、真紀子さんの方は、そうでもなかろうからね。」
もうなんの係りもないとはいえ、矢代はこう云うときでも、まだ千鶴子を知らぬ以前の、久慈と千鶴子の交渉の睦じさが眼から取り去ることが出来なかった。それも千鶴子の場合はともかくとして、真紀子と久慈との場合は結婚同様の二人の生活だった。今久慈を除いた後の四人が他人を混えず会うということは、矢代のみならず、それぞれにとっても未経験のことであった。各自の紊れ散る思いの面に浮ぶことは、移り変る旅の日の山川草木の姿といっても、揉み刺して来るものは人の姿にちがいなかった。しかし、振り返って見ても、よく千鶴子と自分はここまで来たものだと彼は思った。そして、久慈が二人のことを、「あの二人の馬鹿が、西と東に別れ地球を締めつけているようなものだ」といった戯れも、そう云われてみれば、二人の情念の伸び巻いて断ち切りがたかった当時の烈しい様も思い出され、二疋の蛇のような異様な姿として描かれて来るのだった。それも今はここで草叢を覗く二人であろうとは――そう思うと矢代は、自分の尾のどこかにまだ抜かぬ一本の剣が潜んでいるのも感じて来るのだった。しかしその剣はいつか一度は必ず噴き放って、焔の中を貫きぬけることもあるだろう。もしそれが宝剣だったら、天上へ届く鉄塔とならぬものとも限らない。――矢代は自分のこのような念願や空想は、世の中の男の誰もが不断に願ってやまぬ思想だったと思った。もしそれがなければ、身を灼く男の情念とは、何ものでもない腐肉の如きものだと思われるのであった。
「おろちだ俺は。」
彼はそう思いながら草叢から眼を空に上げた。東野が抹茶を持って出て来たとき、高樹町の実家に帰っている真紀子が間もなく来ることを云って、今夜はみな揃って夕飯を共にしたいから時間があるかと訊ねた。
矢代は礼を述べてから、さきに話に出た五十鈴川のお水を見せて貰いたいと頼んでみた。
「五十鈴川のは水質が最上だね。愛硯家はあの川裾の方の大寒中の水を汲んで硯にするのが例だが、僕のは菌のわかないようにカンフル注射をしてあるのだ。そうすると墨色もなかなか良い。」
と云って、東野は棚から袱紗に包んだ古万古の壺を出した。矢代は抹茶を飲み終ってから卵形の壺を捧げるようにし、そして少し揺ってみると、たぶたぶとした水量の重みに脇下に爽やかな胴慄いを感じて頭を下げた。
「これもどうやら地球に見えて来た。」とひとり喜んで云っては、彼はまた子供のように水音を聞くのだった。
なお東野は、硯水の質より墨色や発墨の美しさに相違の生じることを述べて、旅先きで蒐集して来た水の種類も、内地は勿論、外国のも歩いた先のを所持していることを話した。矢代はむかし幕府の将軍夫人が硯水を京都から取りよせる話を読んで、贅沢のたしなみ過ぎたるものと思っていたのも、事実いま東野の話で、日常の苦心の細やかさもそこまで深く分け入るものかと感服をあらたにした。
「それじゃ、筆と紙とならたいへんですのね。」千鶴子も同様に感動したらしかった。
「それはもう、これを云い出せばきりがない。筆だけでも幾千種あるか数知れないからな。僕は自分の好きなものを作らせるのだ。」と東野は云ってもう黙った。
千鶴子は茶の稽古はあると見えて、袱紗捌きも目立たず終え、古万古の壺に頭を下げると揺ってみながら、
「早くこれで詩をいただきたいわ。」と小声で机の上へそっと静に壺を返した。
東野は千鶴子のその様子を暫らく見ていてかすかに頷き、「それで良ろし」とどういうものかそう云うと、立って今度は金の星の模様の散っているガラス製の角壜を戸棚の奥から出して来た。そしてまた、
「これはヨルダン河の水ですがね、あそこへ行った知人が頒けてくれたものです。あなたはカソリックだと聞いていたからお見せしますよ。」
と云って千鶴子の前に置いた。それは通常の透明な淡水とどこも違わぬ水だったが、彼にはキリストの体を拭き浄めた水に見え、思わずどきりとして胸騒ぎが昂まった。横に顕れた千鶴子の膝頸のかすかに揺れるのを一寸見ると、一種無気味な感動の捨て場のない落ちつきなさで、「ふうむ。」と彼はひと言洩らしたままだった。方解石の稜面を横ぎる光線のように水は角壜の半ごろの部分で空隙を支え、薄日のもとに静まり返っていた。千鶴子は壜を手に取ろうともせず、襟を締め直した顔いろも幾らか蒼くなり、背を後ろに丸く縮める風にしてなお水を瞶めつづけた。東野は二人の間に対峙し合う秘かなものには気附かぬらしい無造作な様子で、すぐ次に奥から半折を持って出て来ると、またそれを拡げて二人に見せた。中に書かれた文字は五字でどこの国の字か矢代には分らなかったが、東野のその無造作な動きに、ようやく彼の塊ったままの気持ちもほッとした。
「これはイスラエル語で、インマヌエルと読むのだがね、意は、神なんじと伴にありというのだよ。聖書を訳した人がこの水で書いて僕にくれたんだ。ちょっと西蔵《チベット》の字に似ていて面白いね。落款の印はこれはヨルダン河の石をその
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