まったくおかしくなってこう呟いた。それも、そのときの千鶴子がすぐまたここへも来るのだと思うと、日本を好きで夢にも見たと云われているモネーの代表作の著想も、あるいは、今こうして見ているこの沼だと思っても、別に自分にとって不都合なことではないと、真面目に彼は考え込むのだった。実際もしモネーが云われるごとく、日本の睡蓮をいつも夢見たとするなら、今は亡いモネーの夢を身に灼きつけ、彼に代ってここまで秘かに運んで来たのかもしれぬ、とも思えたりした。
 間もなく千鶴子は裏門からいつもと違い和服姿で降りて来た。紫色のぱっちりした矢絣の膝のよく伸びた姿勢で、柘植の木の横から段を降りるのが沼の水面に映っていた。莟のまだ固い紫陽花の叢に指さきを触れ、小径を廻ってからよって来ると木椅子へ並んで腰かけた。
「このごろ外出はらくになりましたの。」千鶴子は額を一寸揉み彼を横眼で眺めた。いつの問にかひどく老成した風な、ゆったりとした微笑に矢代は気附き、千鶴子も長らくの気疲れがようやくほぐれて来たものと察せられた。彼は和服のよく似合うのを賞め、少し遅れて手紙の礼を述べてから、
「本当ですかね、お母さんのことなどあんなに都合よくいきましたか。」と訊ねてみた。
「あたしのお母さん、そういうところのある人なの。あなたにもお気の毒じゃないかしらと思うほどなの。それにおかしいんですのよ、あなたの胃の悪いことばかし気にして、じっと考え込んだりしているかと思うと、その次にはまた、矢代さん矢代さんって、云うんですもの。あたし、ひとりでいるときお腹の皮がよじれそうなことがありましてよ。でも、良かったわ。」
 千鶴子は終りだけそう小さく云って、沼の水面に眼を落とした。浮き上った小魚の空気を吸う口もとを中心に波紋が拡がり、それが絶えず続いて雨の降り込むような音を立てていた。
「しかし、そんなに信用されては、また困るなア。あなたも今からそう云っといて下さいよ。僕は事実、あなたの手柄になるような人物じゃないのだからな。」
「先日も面白かったわ。お母さんがあんまりあなたのことを云うものだから、由吉兄さんあの調子で、あなたのことを、どうもちと真面目すぎて、気苦労だねと云ったの。そしたらお母さん怒って、それはあなたが不真面目だからですよって、云い返すんですのよ。」
「いや、そこが僕の不幸なところでね、いつも僕は、人から買いかぶられるんですよ。こ奴だけはどう仕様もない悲劇なんだが、――」
 もう二人の結婚は定ったのも同様だと思う安心で、矢代はそういう軽い歎息を洩らした。喜びいさんでいるにも拘らず、ぐったり木椅子に倚りかかるのは、自分も著くべき所へ達した疲れのためかと、彼は対岸の芝生に生えた赤松の肌を眺めて思った。ひと叢の羊歯が沼に対ってたれ下っている水際に桜の弁が溜っていて、右方の繁みの隙から、裾に風を孕んだ鞦韆の高く跳ね上って来る脚が白く見えた。
「式の日はあなたの方で決めて下さる。」
 千鶴子は黙っている矢代に少し不服そうな和ぎで訊ねた。ここまで追いつまって来ていながらも、まだ一度も二人の結婚のことについて口に出したことのなかった自分が何ぜだか分らず、それも一足跳びに跳んで式の日を訊かれた今だったが、彼は、その千鶴子の突然のことさえ別に異様なことだとは思えなかった。
「いつがいいかな。」彼は呟くようにそう一言云っただけでまた沼を見るのだった。
「お宅の方の御不幸のことも考えなければいけないし、あたしには分らないわ。」
「それもあります。」
「じゃ、やっぱり秋ね。」
 矢代もそのころになるかと思われたので同意した。そして、その他に何か云わねばならぬ重要事項がひしめいているように思われるのに、一応隈なく探して見て後も、何もなく、その他はぼんやりとただ他人に任せて置くべきことばかりのように思われ、彼は沼の周囲の垂んだ鉄柵の鎖を眼で追いつつ、なお云うべきことを考えてみた。暫く二人の黙っている前で、鯉がぐるりと尾で泥を濁しあげては廻游して行く水面に、閑かに春の日が射していた。
「母もあなたのことはもう気附いている風なんだが、それも僕からあらためて云ってみて、それから東野さんに仲人を頼みたいと、こう考えてるんですがね。どうですか、ゆっくりしてるようだが、しかし考えてみると、まだあなたとお会いしてから一年よりたっていないんですからね。一年じゃ少し早すぎるとも云えるですよ。」
「でも、ゆっくりなさる理由は、お父さんの御不幸だけでしょう。」
 千鶴子は、矢代の浮き浮きとしない様子に物足りなさを覚えた視線で訊ねた。彼はそうだと答えた。そして、いま少し自分も浮き立つべきだと思ったが、蘆の嫩芽の微風にそよいでいる物静かな沼の光りに、我ながら憎くなるほど落ちつきが出てしまい、却って、千鶴子に対し気の毒な遠慮のある思いさえされて来るのだった。
「京都へはいつお発ちになって。」
「ちかぢか行くつもりです。」
「なるたけ早くお帰りになって下さいね。あたしもお邪魔でなければ、御一緒したいんだけど――お母さんきっといいって云うと思うの。でも、お宅の方の御都合もあるでしょうから、御遠慮さしていただいてもいいんですのよ。」
 千鶴子は足袋の筋目にパラソルの先をあてがい、前に蹲み込む姿勢で横の矢代の表情を窺うように云った。父の亡くなる前から一度京都へはともに行くのも、たしかに二人に勉強になることだという意味で、千鶴子たちに矢代は話したこともあったこととて、いま彼女からそう云われて返事に窮する筋合もなかったが、とにかく、この度びのは父の骨を携えての旅行であった。そのような常の約束とは性質の違う旅の日には、遊山のように浮き立って誘う気分にもなれず、無理にも随いたい意の彼女から出るまで、この返事は待つことにしたいとも考えられた。
「昨夜も実はそのことで、妹にぜひ連れて行けと駄駄をこねられましてね、京都までならともかく、九州の方へも行くとなると、僕も承諾しかねてるのです。」
「でも、お妹さんお伴したいと仰言るの、御無理もないわ。お連れして上げなさいよ。」
 千鶴子は矢代と幸子との間にあった昨夜の不明瞭な喰い違いの様子も敏感に察したらしく、場所には似合しからぬ唐突な笑顔だった。矢代は京都行きの決定についてはそのまま曖昧な気持ちを残し、それ以上はどちらへとも押し切ることを出来ぬこのような難渋も、以後家庭生活に這入れば山積して来るであろう重圧感を覚えたまま、さきから眺めつつつい忘れていた、千鶴子の清潔な白足袋の下の水面へ絶えずぶくぶく噴きのぼっているメタン瓦斯の泡沫を看守り、どのようなことも日の光りのもとで切り開かれぬことはあるまいと、彼の覚悟も自ら定って来るのだった。矢代は古沼の底に漸く足の届いた思いにもなり、「さア、行きますか。」と云って木椅子から立ち上った。そして、千鶴子にこの沼の睡蓮を見て何か思い起すことはないかと訊ねると、
「あッ、そうそう、あたしさきからあなたに云おうと思っていたところなの、ほら、ね、チュイレリイの――」
 と千鶴子は急に眼を耀かせて矢代を見た。
「モネー館。」
「そうそう、モネー館、あのときは蛙みたいに、まん中のベンチに坐って、二人でお腹を空かせていたの思い出すわ。ほんとにこんな所だったわ。」
 過ぎ去ったことでも思い起せば現実になる、という哲学の見本めいて、口にして二人で云うと、忽ちそれは真実の重みをもって顕れ、二人でその思い出を支えるように沼に密集した睡蓮の周囲を廻っていくのだった。矢代は、モネーの日本好きは狂人のようでいつも自邸を日本趣味で溢れさせていた話や、彼が見たくてやみがたかった日本の夢の中で静に死んだその生涯の代表的傑作が、自分らの見た睡蓮の沼だったことなどを話してみた。
「でも、あなたはあのとき、そんなこと仰言らなかったじゃありませんか。これは地獄の絵だなんて、そう仰言ったわ。」と千鶴子は多少からかい気味に笑った。
「あのときはコーヒー一杯も飲ましてくれないものだから、つい腹立ちまぎれに失礼なことを云ったのさ。しかし、これでモネーの天国だと信じたものが、あの睡蓮の絵にこもっていたのなら、たしかにあの日の地獄よりもこの古沼の方が天国かもしれないからな。」
 矢代はそう云いながらも赤松を渡る風の音を聞き、擂鉢形の底から空の明るい方を見上げると桜の葩がこぼれて来た。沼の小径から芝生の小高い上へ登り、そこでまた去りがたくなった二人は、どちらからともなく腰を降ろして睡蓮を眺めるのだった。
「ときどきこれからここへ来ましょうね。あたし気に入ったわ。こんなに静で、それに誰もいないんですもの。」
 手をついてそう云う千鶴子の指の間から芝生の新芽が伸び出ていて、手頸の初毛の上を匐って来る蟻の黒い蹌踉めきが、新婚に入ろうとしているものの生彩ある放心を感じさせた。矢代は刻刻に充実していく自分の喜びの常でないものを覚えたが、ふとそれがどういう訳ともなく哀感に変っていく細い流れの伴うのも感じ、蟻から下の睡蓮の方に眼を転じた。水すましの描いている波紋が沼に降り込む雨に似ていた。

 東野の家は公園から間もない高台にあった。壊れた門から玄関まで相当遠い前庭に雑草が茂っていて、その草の中に花飾の下った台石の高い柱廊が見えた。一瞥した家の様子は、東野の酔狂めいた風格のある部分をよく顕したものだった。千鶴子の話では、東野の夫人は歌人だが関西の財閥の出で、病身のためいつも夫人附きの須磨の別宅に寝んだきり東京へは殆ど出て来ないとのことで、三人の子供たちも二人は須磨、長男だけが乳母に育てられ父と共にいるということも、矢代は初めて聞かされた。また千鶴子がそんな東野の身の上を知ったのも、真紀子に話されたということを考えると、矢代は、帰ってからの東野や真紀子の二人の交際も、自分の想像外のところまで深まっていることとも推測された。東野は作家としては退潮期に入り華華しい活躍を停止していたとはいえ、ときどき人の意表に出る大胆な作風で、想像力を重んじるものたちからは愛敬され、科学主義の作家たちからは疎んぜられる傾向があって、漸次に今は和紙会社の副業の方に熱心になり始めているのも、一つは東野の癖の多い趣味性によるのかもしれず、また彼の外遊の目的も文学上のことより、寧ろ和紙の販路の拡張のためもあったかと解された。
 家の中は、呼鈴を押してみても暫らく静まり返っていて答えがなかった。千鶴子は裏庭へ廻ったり、雑草の中でひとり花を咲かせた美しい杏の樹を仰いだりしているとき、玄関が中から開いて東野の大きな顔だけ外を覗いた。
「どうもあなたらしいお宅ですね。すぐ分りますよ。」矢代は挨拶などこの東野にはする気にならず、始めから寛いだ気分で云った。
「荒涼としたもんだろう。僕も帰ってみて我ながら驚いたのさ。」
 そう云う東野の後から、二人は人気のない廊下を渡り、樹の多い母屋の方の中庭を越して離れになった中二階の居間へ通された。ここはまた広い庭に丈の高い芒ばかりが生い茂っているだけで、野末を見渡すような芝生の一隅にその離れの座敷が浮いていた。
「これでこの部屋は雨が降るといいんだよ。」と東野は案外気に入っているらしく、部屋の障子を開け放した。
 密閉されたガラスの棚には、大きな数十の古硯や古墨その他、古い文房具の犇めくように並んでいる中に混り、八大山人の対幅と、オートイユの競馬の版画が懸けてあって、扁額には「眉子山房」と鳴鶴風の意外に生真面目な字が読まれた。千鶴子は先ず硯の蒐集におどろいて棚に近よった。すると東野は自分の財産の主要なものは硯だけだと云って笑い、鳩首の彫刻のある蒼黒い硯を出して指先で撫でながら、これが眉子《びし》だと訓えた。そして、日本へ帰った以上は東洋文明を知るために、紙、筆墨、硯に対して一度思いを深めるべきでここにもつとも精緻な文化の華が潜んでいるとも語った。棚の上に直接見える古硯類には和硯が多かったが、品種は全国にわたっているのも東野の綜合的な性格がよく窺われるものだった。近江の虎斑、甲州の雨端、長崎の若田、福井の紅渓、駿河の馬蹄と、東
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