。」と矢代は云った。そして、そこに気附いた叔父の眼を高く思うより今まで自分を眼中にしなかった叔父の態度が、こんなに変って来たのは珍らしい近ごろのことだと思った。それにしても矢代はまだ前からの不快さから脱せられず、ともすると遠慮に落ちる声も低くなりがちだった。
「僕は母が東北で父が九州ですから、あまり美点を持ちすぎて苦しいですよ。」
笑いも出来ず矢代は呟くようにそうぼつりと云って、貞吉の前から起つ工夫をした。話の腰を折られて貞吉も笑いながら黙った。隣家の塀の上から桜の白く覗いているのを、二人は期せずしてどちらも眺めているとき、貞吉の次女が紅茶を持って這入って来た。この次女の忍にも縁談が持ち上っているのを矢代は聞いていたが、これで眼に触れる街街に満ちた娘たちのどんなものにも間断なく縁談が湧き上っているのだと思うと、急に平凡な日常のその平静さがただならぬ光景に見えて来るのだった。それは潮どきにさしかかり一人一人が裡に持ち含んでいた蕾の一時に開き初めた今の季節に似ている眺めだった。
矢代は小石川の貞吉の家から帰るときすぐバスには乗らず桜の下を歩いた。下枝と梢の花間に灯火が射し込み、群がる花明りの長くつづいた夜道だった。枝も動かず額を染めるような明るさの下だったが、矢代の気持ちは沈んだ。先日千鶴子から来た手紙の内容にしても、彼女の母が矢代に会ってからは急に変り、このごろは何かというと彼のことを母から持ち出して話すようになって来たとも書いてあって、今は二人の結婚への予定は順調といっても良いときだのに、それに彼は、その喜びさえ気苦しい色に変えようとしている自分を感じ、いつもの夜とは花の眺めも違って見えた。
しかし、矢代は、今のような気重さは、そう長くつづくものとは思えなかった。むしろ、ちかぢか機を見て自分の母に千鶴子のことを話し、二人の結婚の許可を得るときに、当然母の承諾を得られるものと一途に思い込んでいる自分の勝手な身構えが、気辛い重さに感じられているのだと思った。もし母が不承知の場合は、必然的に一層母を困らせてゆく予感を与えるのが、父の亡くなった直後であるだけに矢代には辛かった。それも母には千鶴子がカソリックだということだけは、秘め隠していなければならぬ気苦労が今からつき纏って離れなかった。
実は彼は、母には父の納骨をすませた旅さきから手紙で結婚のことを云い出す考えでいたので、妹を一緒に京都へつれて行くこともひかえ、母の傍に残したくもあったのだが、この夜はそんなに旅さきまで策を用うるのが佗しく仰ぐ花明りも眩ゆかった。もう喜びが過ぎてしまった後のようにもの悲しさが脱けなかった。
矢代が家に戻ったとき幸子は留守に来ていた書類を持って二階へ来た。
「はい。お手紙。」
何かその妹の声に常の声よりわざとらしさが響いたので、矢代はすぐ千鶴子からのも中に混っているのを感じ、眼をその方へ向けなかった。
「お元気ないのね。叔父さん何んか仰言って。」幸子は下へ降りようとせず彼の傍へ坐り込んだまま顔を見ていた。
「どこの桜もよく咲いていたね。」と、彼はひと言いってからふと書類へ視線を落としたが、まだやはり手に取り上げようとしなかった。
「叔父さんはあたしも京都へ行くように仰言ったでしょう。」
「いや、そんな話はないよ。」
「嘘だわ。あたし電話で忍さんに、そうお願いしといたんですもの。お話あったにちがいないわ。」
忍との間で、その点にも少し矢代は触れたと思ったが、それを妹に答えるには、まだ見ない眼前の書類の内容の方が重すぎた。千鶴子の手紙の返事が、自分の京都行きと一緒に千鶴子も由吉と出られそうな模様なら、今は幸子への自分の答えも幾ちか変るかもしれぬ不愉快さを彼は感じた。そればかりではない。彼の答えを待ち構えている幸子の眼もとに早や千鶴子の手紙の中を察した鋭さがあり、兄と自分の間を邪魔しているものへの、露き出した爪も見えた。
「今夜は叔父さんとの間で珍らしく文化論が出てね。あんなことを僕に云う人じゃなかったんだが、――これも桜のせいかな。」と矢代は云って笑った。
しかし、そういえば、この花どきで誰も幾らかは変調を来たしているのに不思議はないと思った。幸子にしても同様だと思うと、彼はあらためて妹の顔や容子をじろじろ瞶め直し、「お茶、お茶、」と促して妹を下へ降ろそうとした。
「でも、お手紙早く御覧になってよ。あたし気がかりだわ。」幸子はまた書類を彼の方へ押し出すようにして催促した。
「手紙に関係はないだろう。」
「ですから、もし有れば困ると思ってよ。」
あくまで無遠慮に押し詰めて来る幸子のしっこさに、矢代はいら立たしくなり、「お茶だよ。」とまた強く云ったが、我ながら急におかしくなってつい笑い出すと、
「見たければ手紙を見なさい。まだ僕は見ないじゃないか。」
とそう云って、初めて彼は書類の封を妹の前で切っていった。
予感のごとく中に千鶴子からのも混っていた。明日東野氏の家へ行くついでがあるので良ければ矢代にも来て貰いたいという意味であったが、用事はそれだけのことでも、千鶴子の母が前より一層彼にまた会いたいと云って困るとも書いてあって、そんなに急に変って来る婦人というものについても、ただ喜ぶばかりのことではすまされず、多少は眉の顰む不安も覚えた。
幸子は矢代の穏やかでない様子を感じたものと見えて、後は何も云わずお茶を持って上って来るとすぐ下へ降りて近づいて来なかった。
その夜彼は遅くまでひとり起きていた。千鶴子に手紙を書きかけてみたがそれも気乗りせず中途でやめ、写真帳の中から研究用に蒐集してある写真と地図とを覗いた。それらの写真は、かねて社長の貞吉から調査の命を受けていたものでもあり、かつまた、矢代自身の勉強にも欠くべからざる重要な種類の、わが国の上古のもっとも純粋健全な古建築を、漸次に装飾してゆく仏教様式の変化を示した神社の写真で、地図はそれらの山奥の存在地を示したものばかりだった。写真に顕れた神社の姿に、ほんの些細な様式が伺われるだけでも、そこには必ず襲って来ていた新時代がそれぞれにあった。そして、それに伴う闘争に継ぐ闘争の果の現実が、争われず今の自分の中にも確実に影響を与えているものであった。
矢代はそれらの写真を見ているうちに、今の自分の生活に暗示となる精神を自然に拾い上げてゆくのだった。そして、写真の含む問題とは別して、新しい自分の時代の悩みとは何んであろうかと考えると、それは千鶴子のカソリックを法華の母に告げ報らせることを秘め隠そうとしていることだと思った。いずれは露れ出ることであるからは、最初に云っても良いとも思われたが、神仏混淆の権現造の建築に、さらにカソリックの尖塔を加える困難は、ただ建築様式として見た場合に於てさえ未曾有の苦心を要することであった。おそらく幾度となく兵火に焼き払われることだとしても、事実この世の日本に来ているものである以上は、工夫に工夫を重ねてこれをも日本化せしめて行く日のあることも、いつかは来るにちがいないのである。
カソリックの建築のことは、直接彼の仕事に用はなかったが、矢代の勤めている貞吉の建築会社一つの整理部でも、建築の日本化問題は絶えず悩みの種で、また情熱の自然に対うもっともな意義ある研究点であった。飛鳥朝における支那朝鮮の建築そのままの直写時代から、奈良、平安前期に至るその消化時代をへて、宇治の平等院に示された平安後期の日本化の完成という順序は、これを短い時代の例としても、明治の初期から吹き流れて来た欧化主義の直写時代、大正の消化時代をへて、現在の日本化時代という、矢代らの呼吸している一期間に於てもそれは繰り返し行われて来た歴史である。またそれはただ単に建築の様相にとどまらず、精神の世界に於ても変りなかった。飛鳥朝から昭和の現代まで、およそどの短い時代の一断面を切り採って覗いてみても、そのうちのどれかに属した努力が払われ、それに苦しみ、産み繋いで来ているという経過の底にはまた、自然にそれをそのように導く別の力がなければならなかった。
「それだ、自分の知りたいと思うものは。」と矢代は思った。しかし、昨日今日の一日の彼の思いは、父の骨を中心にして、母、妹、叔父たちの巡り重なる中で、千鶴子を家へ引き入れる準備に費された心労だった。この千鶴子からは幾度となく逃げようと試みたり、放れる覚悟もしたりして来た筈だのに、ますます深まってゆくばかりの、意志も智慧も行いもすべて無力化させるもののあるのはこれは何んだろう。それにも拘らず一種異様な緊密した力が張りつつ、彼の心を捉えてどこかへ押し進めて行くもののあるのも、また認めねばならなかった。
夜中に雨が降ったと見えて水溜りに桜の弁が浮いていた。矢代は洩れ陽を透かし楓の薄紅い爪を見上げた。柿の芽も縒りをほごした膨らみ柔く、彼は朝の食慾を急に覚えたが、父の死の前後まで朝夕来ていた鶯が姿を見せなくなったこのごろの朝は、庭の木の葉脈まで父の血管に似て見えた。庭をひと廻りしているうちに、ふと父の植えた白い牡丹が葩を散らせているのを見ると、突然の痛さに彼は眼を早めて、繁みを潜っていった。裏木戸を開けて、竹林の間の冷えた路を通る間も、牡丹の崩れた葩の白さがなお追いかけて来て放れなかった。陽の光りの鋭く竹の節に射しこもった縞が、泳ぐように波の変化を示していく中で、彼は煙草に火を点け、朽葉を冠った筍の高まりを探しつつ歩いた。
矢代が竹林をぬけて広い道路へ出たとき、六十あまりの一徹そうな老人が、焚火をしている十七八の娘に道を訪ねていた。それに娘が何か答えると、老人は鰐足のままあたりを見廻した。そして、ひどく驚愕した頓狂な大声で、
「へえ、ここがそうかね、これがね。」
と云って竹の杖でとんと地を打った。
「わしのここへ来たのは三十年前だったが、何んと変ったことだ。あんたら、そのときまだ生れてなかったぞ。」
老人は今度は娘の顔を覗いて放そうとしなかった。そのときお前はどこにいたと問い質す風な鋭い老人の視線に、答えようもなく娘はただ、羞しそうに顔を赧らめているだけだった。これで三十年の星霜の変化を真面目に表情に顕せば、こうしてこちらのぼんやり見ている景色にも、あの老人の、只ごとではすまされぬ狂人めいた、昂ぶる様にもなるのだろうと矢代は思った。実際、三十年の年月の経過の後に、自分も再び外国へ行くようなことでもあれば、定めし思いの外の変化に眼をみ張ることと想像された。そして、そのころはもう自分に子供も生れているだろうと思うと、その子に対い、いまお前はどこにいる、と老人のように問い詰めたくもなって、午後から会う筈の千鶴子との会合も意味ふかく、おろそかには出来ぬ日常の二人の行いだと思われて来るのだった。
午後から約束の時間に矢代は東野の宅へ出かけた。千鶴子の手紙では別別に行く客の先方に与える迷惑を考え、その近くにある松濤の公園で待ち合せてからにしたいとの事だったので、白い標示札を見つけて彼は中に這入った。公園は大名屋敷の名残りの小さな庭で、擂鉢型に傾きよった樹の底に、細長い人工を加えぬ沼があり、その周囲に雑草の乱れた小径が見えて、市中の公園には稀な都びた趣きの、人を待つにふさわしい目立たぬ場所だった。
矢代は沼べりの木の長椅子に腰を降ろした。人が誰も見えず頭の上から芽を噴いた楓の枝が垂れていた。沼の水面いっぱいに密集した睡蓮の葉が浮いていて、中央に蘆の葉に埋った島が二つ見えている。矢代はその沼を見ているうち、どこかで見覚えのある親しみを感じ、ふと忘れていたパリのモネー館の楕円形の壁画を思い出した。それは周囲の壁面の全部に、沼に浮んだ睡蓮の画ばかり巻き連った部屋だったが、そのときは、日本のどこかで見た風景だと思っていたのに、それが反対に、パリのどこかで見たことのある景色だと思っている自分だった。あのときは千鶴子と二人で、食事も出来ぬ空腹をかかえ、苛立たしく睡蓮の部屋へ飛び込んだのだったが――
「ははア、あの部屋そっくりの実物がこんな所にあるなんて――」
矢代は
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