の人の過去には自分との間に似た幾経過もあったこととも察せられて来るのだった。こんなことは、矢代の胸苦しさを一層ふかめそうな筈なのに、却ってそれが思いもうけぬ手柄のような感興を誘うのは、やはり千鶴子の人柄のせいだろうか、このようなことのある場合に、死を賭して操守を重んじた幾代ものカソリックの訓練の齎らす信用のせいだろうか。――矢代はいつもこれに似た疑問の起って来るときどき、思い出すことは、フロウレンスへ行ったときに見た山上のカソリックの聖堂の中だった。その日は日曜日で、洞穴に似たフィエゾレの内部には蝋燭が立て連ねられ、黒色に揃いの白襟の娘たちの一団が、高く捧げられた金色の十字架に対い合唱していた。陽の光りの射し込まぬ暗い堂内に鳴りこもったその合唱の力は、段段と響きとどろく強烈な楽器のようだった。その轟きは入口にふと立った矢代の胸に異様な圧力を加え、弾き返されるようにすぐまた彼は外へ出て来たが、そのとき眼に映った一瞬の聖衣の揃った見事さは、近代の混らぬ西洋の真の美しさを初めて見たと思わせた。矢代は千鶴子もあのときのフィエゾレの内部に連なるものの一人かと思うと、今もピエールのことなどで撃ち返す気もせず、むしろ、あの中世紀そのままの壮厳な古古しい金色の合唱が、人界を離れた別世界に見え、排他的な人を寛さぬその厳しさに、手の届かぬ怨めしげな気持ちさえ覚えて来るのだった。
「年をへし糸の紊れの苦しさにという、安倍貞任の歌があるが、あなたも、さアどうかしらなど云うところを見ると、貞任みたいになかなか歌が上手いなア。八幡太郎は矢で狙っても、歌が上手いといのちを救うんだからね。僕らは日本式に太郎でいこう。」
と矢代はこう云って、千鶴子に弓弦をひき絞っているような様子の塩野を顧みて笑った。
「その方がピエール氏を喜ばすか。」と塩野も笑ってしまった。
椅子の背にもたれたこんな寛いだ気分も、寝ていた人が起きて来たらしい廊下をわたる足音で緊った。もしかすればそれは千鶴子の母のかもしれないと矢代は気がかりだった。千鶴子が三人の客の名を告げてあるなら、彼女の母にしても出るべきかどうか迷うであろう場合だったが、こんな夜分の遅いときには、皆が帰った後から母に来客の名を報らす捌きも考えての上で、招じ入れたにちがいないとも思われた。しかし、それにしても、自分のこの家へ来るのはやはり少し早すぎたと矢代は思った。間もなく、今まで暗かった庭の芝生の一角に、応接室からの洩れ灯以外の別の光りが射し、一本立っている樅の太い幹が浮き出ていた。そして、襖を開けたてする音につづいて間もなくドアが開いた。
「やア、これは――遅くから失礼してるんですよ。」と塩野は頭髪を撫でつけ、千鶴子の母らしい人に立って云った。
「まア、わざわざ送っていただいたりしましてね。由吉が電話で今夜は帰れないって云って来たもんですから、そのつもりで早く寝みましたのよ。」
塩野にゆっくりした口調でそういう千鶴子の母は、矢代の方を少しも見ようとしなかったが、それでも無意識にむじな菊の着物の襟を併せていた。千鶴子には似ない細い眼尻の下り気味のところや、下ぶくれの豊かな頬には、幾らか気ままな感じも含み、特に長めの睫毛の影には、裕福そうな落ちついた品もあった。どちらかといえば由吉に似ていたが、人を容易に受けつけそうもないおっとりした白味の多い眼は、家中で一番権威を具えた存在なことも、ひと眼で矢代には呑み込めた。千鶴子がすぐ次に矢代を母に紹介した。すると、千鶴子の母は笑顔を消し初めて矢代をじっと見詰めたまま、何も云わずにお辞儀をした。それは一寸恐わそうな怯えを帯んだ表情で、視線を下に落すと、あたりの床を見廻しながら、
「この子はわがままな子なもんですから、皆さんにいろいろ御迷惑おかけしたことだろうって、そう申しているんでございますよ。ほんとにこの子は。」
笑いもせず襟を併せ併せいううちにも、徐徐に遅い微笑が泛んで来た。矢代はその笑顔を見て、初めて、これで心の通じる部分も必ずある人だと思った。
「小母さん、宇佐美の外国行きの用意はもう出来てるんですか。お急がしいでしょう。」と塩野は訊ねた。
「あの人はのんきなものだから、行くんだか行かないんだか、分らないんですのよ。先日も藤沢さんがいらして下すったんですが、あの方一緒につれて行けって仰言るのに、君なんか連れてったらおれの悪事が露顕するからいやだ、なんて申すんですよ。」
「藤沢が来ましたか。あれは今度、幹部になったなア。」
「そうですってね。あの方のお母さんとは父兄会でお会いしたきりなんですが、御病気ですって。」
小さいときからの皆の交遊の深さも思われる塩野たちのなじみぶかい素ぶりだった。矢代はそういう話を物珍らしく聞いていたが、宇佐美家への自分の日の浅さもまた次第に感じ、これで千鶴子と自分との縁談が整うような日が来たら、塩野の立場も今の自分のような位置に変るのだと思った。そこに瞬時に巻き違う寂しさに似たものの淀みもたまって来るのだった。それにしても矢代は、これで自分が旅さきで千鶴子に汚点を滲ませていたなら、こうして彼女の母と会う苦しさも、今と別して心忌ましい夜となっていたにちがいないと思った。その点、まだ何事もなく旅中の友づれに変りのない現在の自分だったが、しかし、そう思うと、とやこうと気がねを組んで考える自分の憂鬱さが、急に明るみに照し出された汚点のように見えて来て、さすがに人の母たるものの貫禄は、このような微妙なところに射し出るものかと、矢代は、またもそんなところに感心されて来るのだった。
塩野と千鶴子の母の間では、それからも暫く、由吉や塩野の小学時代の父兄会を中心にした親たちの話がつづいた。そのどの話もみな矢代の知らぬことばかりだったが、ある山科という人物の話になって来たとき、別に取り立てていうべき事でないにも拘らず、妙に塩野の受け答えが渋りがちにっかえ、ときどき矢代の方を向きかけようとしては、表情をもみ消す彼の気苦労の様子を見た。矢代も関りないことながら、ふと意味なく自分もともに浮き足立って来るもののあるのが怪しまれた。そして、何かそこに、千鶴子と自分との縁談の進行を妨げている介在物の臭いも幽かに起つのを感ずると、やむない宇佐美家の困惑の有りようも、それとなく伝えたい弁明の意を含むようにも受けとられ、無理ならぬ母の苦しい立場も、これで一つや二つではないのであろうと、話の間、矢代は二人の話から疑心をいだく自分の耳を遠ざけたくなり、ビールのコップに唇をつけるのだった。
「千鶴子さん、何か他になかったかしら、こんなチーズだけでしたの。」と千鶴子の母は娘を顧みて注意した。
「他にって、あったかしら、探して見ますわ。」
千鶴子は母からのそんな注意に、何か思いがけない思慮を汲みとった身軽さで椅子を放れた。
「黴びてやしませんでしたかしら、何んだか、おかしな物を引っぱり出したりして。――あの子は自分の好きな物じゃないともう何も気がつかないんでございますよ。癖が悪うござんしてね。」と千鶴子の母は、もうこのときは知人の母の謙遜さが見えへだてもとれた眼差だった。
「そんなこと、もう御存知でしてよお母さん。」と千鶴子はドアの傍から云った。
「あら、まだあなた聞いていたの。」
「早くお美味しいもの、持って来なさい。」と塩野は無遠慮な冗談を大きくドアの方に対って云った。この塩野の大声は、それまで客間に滞りがちだった窮屈さを一気に揉みほごして成功した。
「食べ物のことで思い出しましたが、パリの罷業のときは千鶴子さんと二人で、コーヒー一ぱいを飲むのに、随分苦労をさせられたことがありました。どこの店も戸を閉めていて、飲みも食べも出来ないんですよ。お蔭で胃が少し良くなりましたが、一番ひどい目に会ったのは僕らのようです。」
まったくこんな無意味なことを矢代が千鶴子の母に云うのにも、相当の骨折りだった。先ず何より意味など持たぬことをと思い、食物の話などを選んだのだったが、急に千鶴子の母は、
「胃がお悪いんですの。」
とびくりとした表情でひとり笑わず、問い質すように矢代を見た。なるほど、これは不慮の失策だったと矢代は思った。
「悪いというほどもないのですが、向うで日本食を少し続けて食べたときは、誰でも胃が悪くなるんですよ。そのくせどういうものか、一週間に一度は食べないと、日本で米にあたって来ている中毒を急に脱いでは、体を壊すと、まアそんなことが云われているのですね。しかし、事実、米を食べた日は胃が重くなって、少し憂鬱に黙り込むようになるのは、僕だけじゃないようです。やはり、その土地のものを食べるというのが、一番人体にはいいようですね。」
無理に弁明したのでもなく、しかし、幾らかは弁解をまぬかれない、板挟みに合った感じで、矢代は、ただの客とは違う自分の位置の難しさを一層感じ、やはりこのような息苦しさは生れて初めてのことだと思った。
「そんなことどなたかにもうかがったようでしたわ。西洋人が日本へ来て洋食をいただいてると、だんだん頭が悪くなるんだとか、その方のお話、なかなか面白いこと仰言ってらっしゃいましたですよ。はア、そんなものかしらと、あたし思いましたが、そうでございましょうねえ。それでその西洋人の方、日本食をこちらでいただくようにしたら、御自分がお国にいらっしゃったときのように、また頭がよくお癒りになったとかうかがいましたわ。」
千鶴子の母にしても、同様今のような難場に立ち合ったことなど幾度もないことは、彼女のそういう話し方の間のろい調子にもよく出ていた。矢代はこれでどちらも自分の欠点を蔽いつつ、しかも、漸次小出しにまたそれを見せ合いながら進むまどろかしい均衡も、必要のある限り守り通し、続け通さねば、この結婚は成立おぼつかないのだと悟った。こちらだけ万事分ったような顔をするのは、折角の苦労も瓦解させる原因にもなりそうで、今は何事も知らぬ初客のように対応しているのが、この特殊な千鶴子の母との苦境を切り抜ける自然の力だと思うのだった。暫くして、千鶴子がアスパラガスやソーセージを持って客間に戻って来た。ビールなども、先ず彼女の母の前ではあまり飲まない努力もすべきだとは矢代に分っていたが、しかし、こんなに気苦労な場所では、無駄な警戒心を取り除いてくれるものこそ何よりの救いだった。
「お母さん、もうお寝みになって下さいよ。」と千鶴子は気を利かせて母に云った。
「じゃ、あたしお先に失礼させていただきまずから、どうぞ、お良ろしかったら、皆さんお泊りになっていらして下さいね。ね、あなた、そうお奨めして。」と千鶴子の母は娘に云って立ち上ると、それからまた、「矢代さん胃がお悪いんだそうですがら、ビールをあまりお奨めしちゃいけませんよ。」と附け加えた。千鶴子は出し抜けな母の注意が飲み込みかねたと見え、
「いいんですのよ、この方。」と一寸笑って云ったが、母が部屋から消えるとすぐ矢代に対い、
「あなた、あんなことお母さんに仰言ったの。胃がお悪いなんて。」と訊ねた。
「胃はやはり良くないからな僕は。ついうっかりしちゃったんですよ。ね、塩野君。今夜はもう失礼しようじゃないか。」と矢代は塩野に云って時計を見た。
「いいよ。これから帰るの遅いから、ここで泊めて貰おう。」と塩野はどういうものか強情に居直った。
「君は今夜はまた、あんまり面白がりすぎていけないね。僕は気が小さいんだからな。」
矢代がそう云っているとき、廊下の外から千鶴子の母が急にまた、「千鶴子さん、千鶴子さん。」と二度ばかり呼ぶのが聞えた。千鶴子は聞き耳を立てるように表情を締め、「はい。」と云ってすぐ部屋から軽く出ていったが、その後で塩野は矢代の方へ傾きながら声を低め、
「大丈夫だ。お祝いしよう。」と云うと、かなり興奮の強い手もとでコップをかちりと矢代のに合せた。始終椅子ぶかくかけていた佐佐も背を起して来た。そして
「手術の立会いに立たされたみたいで、疲れたよ。」とにこにこして彼もコップを矢代に合せた。
「いつの間にやら僕は、君らに荒療
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