来るのだった。しかし、矢代はこの日、槙三から持って来てくれた千鶴子の報知のことを思うと、それが何よりも嬉しかった。海の開けている河口の霧も、末拡がりに開いた白い扇に見えて元気が出た。彼はこのような機会に、千鶴子の家へ結婚を申し込むべき形式の相談を二人でしたいと思ったが、傍にまだ人がいてそれも出来がたかった。橋の欄干から離れて歩いて行くときも、矢代は暫くそれを云い出す機を覗って緊張した。賑やかな通りに出てからも、傍を人の通り抜けようとするとき、身を除ける自分の肩が千鶴子に触れると、つい押し気味になって彼は千鶴子を道の片側によせていった。そして「今夜はお宅まで送らせて貰いますよ。」と云ってみた。
まだ意味も分らぬ容子の千鶴子は、ちらっと彼を見て笑っただけだったが、そのとき烈しく片頬に灯を受けた靨の鮮やかさは、初めて船で見たときと同じ美しさだと矢代は思った。
「僕は二三日中に重要な手紙を上げたいんですが、そのときには、あなただけでも、うんと云って下さい。良ろしい?」
千鶴子は返事をせずに軽く一寸頷いた。
四人づれの矢代らは、省線を降りてから暗い道を幾つか曲って行くうち、もう来た方向も忘れるほどになった。道路の中央に椎の木が肌に飴を噴き流し一本立ちはだかっていた。穴のある節くれ立ったその幹の裂けた半面に、交番の灯が射していた。矢代はいつか秘かに来て見てここで車を降りたときの、見覚えのある樹と交番だと思った。
近づいたとき彼は、馬の首を打つように懐しく椎の幹を叩きながら、
「もう遠くはないなア、これは見覚えのある樹だ。」とひとり呟いた。
それは名木だった。高さは夜分で分らぬながら、見上げる枝は道いっぱいに拡っていて、四人づれの矢代らは両側に裂かれてそれぞれ通っていった。練塀を連ねた静かな小路に瓦がしっとり重く湿って見えるころだった。
「君来たことあるの、ここへ。」と塩野は不思議そうに訊ねた。
「一度通ったことがあるんだ。秋だったかね。」
外国から帰った当夜、自宅へ戻るより先に、ここまで飛ぶように来たときの、あの思い上ったような寂しさや身の軽さを彼は思いあわせ、今夜の夜道はそのときとは違い、よほど踏み応えのあるたしかなものに見え、これからも幾度ここをこうして通ることだろうと考えたりした。しかし、そういえば、千鶴子と初めて船で会ったとき以来月日はまだ一年よりたたないのだと思った。ただの一年で見切れぬものを見、聞きなれぬものを聞き、行いきれぬものを行った結果が、この夜道を選んだのだとすると、間もなくこれから見える千鶴子の家の門口は、自分にとって地獄か天国か、どちらかの道の入口にちがいはないとも思った。
「今日は僕らは一日海を見て暮したが、何んでもない日じゃなかったね。僕は東野さんらの船の入港して来るのを見ているとき、旅立ってから一年もたったのだなアと思ったが、しかし、君、あの夢みたいな僕らの一年は、あれは非常な生活の実践だったどいうことが分ったね。みんな、あれは幻影じゃない、実践だったのさ。僕の死んだ父親だって、また君らのお父さんたちだって、生きているうちに一度はどうしても行ってみようと一生思い詰めて、とうとうそれも行われずに死んじまったことを、ともかく曲りなりにも、僕らは実践しちゃったんだからね。そしてどうだろう、何んのことはない、二代もかかって紙一枚の御幣に気がつくなんて――」
矢代はその最後のところで云い辛くふと黙ると、「残りたる紙一枚や父の春」と、そんな句が口から自然に出た。ブロウニュの森で東野や久慈たちと句作をやって以来の彼の句だったが、よく意味の分らぬままにも暫くそれを呟きつつ彼は俯向いて歩いた。
まだ棕櫚縄の結び目の新しい千鶴子の家の建仁寺垣が見えて来たとき、塩野は、「じゃ、ここで失礼しよう。さようなら。」と千鶴子に云った。
「どうもありがとう。でも、ちょっと休んでらっしゃらない。まだそんなに遅くはないんですもの。ね、お這入りになって――」
千鶴子はいつも入りつけている塩野に云う無雑作な声だったが、入れば中にいる彼女の母に初めて会う矢代の困惑の様子を慮ったと見え、幾分ためらう色のひそむのもすぐ闇の中で矢代は感じた。
「どうしょう。休まして貰うか。」と塩野はまた矢代を見て訊ねた。
今夜は千鶴子の家まで送ろうと、横浜でそう云い出したのは矢代自身だったが、それも中へ入るつもりの毫もなかったこととて彼は返事に窮し、「しかし、もう遅いからここでお別れにしよう。」と云って停った。
「でも、ちょっとお茶でもめし上ってらして――」
と、今度は千鶴子は矢代にはっきりした笑顔で云った。このときは前のためらいも消えていて、いずれ来るものは来ると即座に決断した女性の大胆な変化が見えた。チロルで氷河を渡ろうとしたときも同じ落ちつきで、ぐんぐん彼を氷の中へ誘い込んだのも、ちょうどこんな千鶴子だった。
しかし、いずれにしても、今この門を潜るのは少し無謀なことであった。思慮あれば避けるべき筈の場合だったが、門柱の横の潜戸の中へ消えた千鶴子の後から、何んの相談もなく続いて塩野も潜ると、矢代は自分ひとりそこから去るのも、むしろいかがわしい咎めを残すばかりに感じられ、特別な一大事の前後の処置とは思えぬ気軽さで彼も潜っていった。そして、底白い砂の拡がりを踏みつつ彼は、いちいち自分の微細な動作まで手にとるように分る緊張にも拘らず、どこかぶらりとした旅ものめいた暢気さもあって、まだ見ぬ千鶴子の母に会う興味さえ覚えて来るのだった。矢代を撥ねつづけていた母親だけに、彼は初めてその人に会うことに張り合う気もうすうすに感じ、大玄関の框の前でみなと一緒に靴を脱いだ。
玄関から畳廊下を右の方へ行った突きあたりのスウィッチで、廊下より一段低めな応接室に灯が入った。隣室から離れた感じの厚壁に包まれた親しみある部屋の中を矢代は眺め、また庭を暫く眺めた。
「この画、佐佐んだが、この景色は君もたしかに見た筈だよ。」
と塩野は暖炉棚の上に懸ったパリの風景画をさして云った。
画はパンテオン附近の裏小路らしい風景だったが、崩れない確実な筆触の美しさは佐佐の頑固さと同時に、明澄な純粋さを保持しつづけようとして苦しんでいる、彼の性格もよく現した絵だった。
「とにかく色調に細やかな愛情が出ているところを見ると、どうも、自分の部屋から始終眺めた景色らしいな。」と矢代は絵に対ったまま云った。
佐佐は「うむ」と口重い笑顔で頷いて、自作と再会した嬉しさを白い歯に見せ、椅子にかけてもまだ絵から視線を放そうとしなかった。部屋の隅にグランドピアノがあり、壁に添った棚には由吉の趣味と見える陶器が幾つも置いてあった。一つはアフリカの器らしい厚手の水指と、支那の慶磁の白い湯呑、それに日本物では紫野の茶碗、その横に朝鮮の鶏龍の蓋物の鉢が一つ。中でも鶏龍の別毛鉢が一番優れて美しかったが、それらの選択の仕方には、特に大物をさしひかえた凝り性の滋味な統一が伺えて愉しみぶかい選択だった。
千鶴子がお茶とお菓子を持って来た。家人はもう寝たと見え庭に射し込む灯影がどの部屋からのもなく暗かった。千鶴子はまた引っ込んで出て来たときには、今度はチーズとビールを擁えて来た。
「矢代さんお初つに来てくだすったのに、何も今夜は見つかりませんのよ。御免なさい。」
千鶴子のそう云うよりも、女中の手を煩さなかった心遣いが結構だったと矢代は思った。そして、隣室からへだたったこの部屋の潤いの籠った明るさは、久しぶりに千鶴子と二人で自分の部屋に帰ったときの、パリのある夜の寛ぎに似たものを思い出し、そのときの灯の匂いを嗅ぎ出すように首をのんびりと廻しあたりを見た。すると、朝からの休む暇もなかった気疲れも加わって、ふと彼は、こんなとき二人がもし結婚をすれば、もう今の匂やかなものの通う路は断ち消えて無くなりそうな恐れも覚えて来るのだった。
「今夜の東野さんは凄かったね。本当の平和はもう来るぞ。と云ったときの、あの人の顔ったら、なかったぜ。」と佐佐は云って生菓子を一つ摘まんだ。
「しかし、あの久木男爵も面白かったよ。御幣の形と射影幾何との説明を、港港を船で行くといったところなんて、ただの鼠の爺さんじゃ、ちょっと出来ない芸当だよ。僕はあのとき、つい悪いことを思い出してね、よっぽど云おうかなと思ったんだが、それも悪くてやめちゃった。あの爺さんには、パリで千鶴子さんと僕と大石とは困らせられたんだからなア。」と塩野は今ごろ急に意外なことを云い出して苦笑した。
「どうして。」千鶴子も矢代同様急には解せぬ面持ちで訊ねた。
「ほら、あのパリの大蔵大臣邸で夜会があったでしょうが。あのときには、僕ら、久木男爵とこの鮭の缶詰を輸出させるのに骨折った夜会だったのさ。フランスの法律を動かそうってんだから、何しろ相手は鉄壁の陣営だよ。それを二三日前から徹夜の作戦で、とうとう漕ぎつけたのは良いが、暫くはお蔭で神経衰弱さ。しかし、思い出すなア、あの夜の苦労は。」
塩野の云うのを聞いているうち、矢代は千鶴子とチロルを早く切り上げてパリへ戻った原因の一つも、塩野からその夜会へ出席を急がれていた千鶴子の都合のためでもあったと思った。それにまた、彼の悩まされた書記官のピエールと千鶴子とのオペラでの一件のことにしても、同様に大臣邸のその夜会が始まりのようでもあったが、いずれもそれらの起りはみな、塩野の今の言葉で、初めて矢代にはよく頷けて来ることばかりだった。そして、
「何んだ、あれがね。」と彼も思わずそう云ったまま暫く塩野の顔から眼が放れなかったが、実際、自分にとっては重なる苦楽の集るところに、何も知らず男爵はいたものだと、むしろ今は、人には語れぬ鬼気こもる縁の深さにますます彼は愕くのみだった。
「あれがね、でもないよ。君は知らないからね。僕たちのあのときの苦労は。」と塩野は塩野で、またそのために思い起すことも多いらしかった。
「いや、君たちのお蔭で、僕も苦労をさせられる羽目になったのさ。」と矢代も今は負けずに云って笑った。そして、千鶴子に対い少し皮肉に出たくなって、
「その後ピエール氏から便りはありませんか。」と訊ねてみた。
「一度。」と千鶴子は肩を一寸すくめた表情で答えると、「お見せしてよ、後で。」と云って、ビールの栓を抜く手つきもいつもとは違い、争われぬなまめいた形になるのだった。何かそれは復讐めいた色艶にさえ矢代は感じ、一寸息苦しい思いになって俄に打ち返す言葉も出なかった。
「そうそう、ピエールさんといえば、たしかあの人、ひょっとすると日本へもう来るころかもしれないよ。日本へ行くほど愉しいことはないと、云ってたからね。あの人は日本を好きで仕様がないのだよ。」
塩野はまだ矢代と千鶴子との間に今も生じている微妙な気持ちの反り合いには、少しも気付かぬ無頓着さで云うのだった。
「いや、もうあの人、来ない方がいいよ。」と矢代は、ひと息の苦しさも愉しみに擦りかえて千鶴子の顔を眺めた。
「そんなこと仰言らずに、めし上れ。」
千鶴子は矢代のコップにビールを注いだが、こういうときのほんの少しの勝ち越しも、いつか男をたしなめる優雅な手つきにするすべさえ加わり、それも自分の見知らぬ夜会で養われて来たものかと、少し赧らんだ千鶴子の眼もとに泛んで来る微笑を、矢代は今さらにおどろき振り返った。
「じゃ、この一ぱいだけはピエール氏のために。後はもう駄目だ。」矢代は先ずこのとき一ぱい飲んで、塩野に対い、
「この千鶴子さんはね君、ピエール氏が非常に好きだったんだよ。君はいつも傍にいたくせに、写真なんて機械に気を取られて、知らないんだろう。」と云って笑った。
「ピエール氏が好きか、を好きか、どっちだ。」
「さア、それはこの人に聞かなくちゃ。」
「え、どっち千鶴子ちゃん。」と塩野は、またこのようなことに限っては稀な稚拙さで、顔を前に突き出して訊ねた。
「さア、どうかしら。」
特に真面目に聞くべきことでも無論なく、今は過ぎ去ったこととして軽軽と取り扱う千鶴子の返事に、矢代は、こ
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