て自分の死とともに消えてゆく喜び悲しみの焔であろう。
 矢代はつい湿って来た眼を人に見られたくはなかったので、室内から視線を外に反らせるように心がけた。そして、出来るなら自分ひとり音立てず、この場から脱けて帰りたいと思ったが、一同の話の続きがまだ切れず、その機会も容易に来なかった。そのうちに立って席を空けていた東野が戻って来ると、
「そうそう、久木さんにさきからお訊きしたいと思っていたのですが、矢代君の説によると、御幣と数学の集合論の中心部分が等しいというのですがね、久木さんは数学の御専門だから、その集合論の概念を一つと思っていたのですよ。」
 と、また矢代の名前を皆の面前へ引き摺り出した。
「はて、何んですかね、それは――」
 久木男爵は小首をかしげ、「矢代さん、矢代さん何んですそのあなたのお説というのは。」と今まで人の背後に隠れるように苦心していた彼の方を覗いて訊ねた。
「いや、僕もよく知らないんですよ。」と矢代は咄嵯に答えて笑った。一同のものの笑声に混り千鶴子も笑顔をちらりと彼の方に向けたが、急に千鶴子だけひとり愁いを顔に表わして矢代をじっと見詰めていた。
「あなたは今夜はまた馬鹿にお静かですね。さてはそこから船の灯を見て、思い出したのですか。」と久木男爵は云ったので笑いは一層高くなった。
 矢代は熱くほてって来る顔を皆から転じて船の灯火を見た。碇泊している東野らの船の、まだ灯を点けたまま埠頭に長く連っている明るさが、またも千鶴子と一緒に航海した港港の夜景を思い出させて来るのだった。
「面白うてやがて悲しき鵜舟かな。」
 いつも旅の思いにつれ口にのぼる芭蕉のそんな句も、ともに泛んで来たりしたが、千鶴子と彼に注がれた一同の視線はなお離れず窮屈だった。
「しかし、港の夜景というものは、実際物を思わせるものだよ。無理はないさ。フランスの名高い詩人だが、たしかヴァレリイだったと思うがね、人生のうちで愛人と二人で港港を船で這入って行くことほど幸福なことはないと云っているよ。何んでも、陸と海とが口をつけているのは港で、そこを二人で這入って行くのだからというのだね。」と東野は云って、海の方を見ながら、「青年はいいな、まだまだこれから幾らでも機会はあるんだからね。しかし、もう僕にはそれが何もない。今夜で了いだ。」
 思いがけない東野の悲痛なそのひと言に、皆は水を打たれたように急にしんと静かになった。
「しかし、始めあれば、また終りあり、といった形だな、あの船は。」と久木男爵は云ってまたすぐ一同を笑わせた。
「それが、つまり御老人の集合論ですかね。そこを一つ聞きたいものだな。」と由吉はすかさず久木男爵に応酬した。
「いや、冗談じゃない、そういうのが集合論ですよ。ラアデマッヘルという数学者でしたかね、その男の云うのには、一つの部屋に男という集合があり、また別に女という集合があってダンスをした、すると、二人の男女が手を繋いでみて、うまい具合に残りがなくなった場合には、一対一の対応が出来たということになって、男女の数は相等しいという、その証明の仕方が、つまり、集合論のそもそもの始めのような所ですからね。まア港を船で行くそれみたいなものかな。平面という一次元の世界では、人間の考え得られる数のすべてと、直線上の点のすべては一対一の対応が出来る。相等しい個数を持っているという、そこのところが、いわば集合論の口みたいなものですよ。」
「じゃ、僕のような独り者がぼんやり港の船を見ているという――こういうのは、その集合論の口へも入らぬというものですかね。」と由吉は、そろそろもう数学の世界から喰み出したい気骨を眉目に見せ始めて来るのだった。
「しかし、あなたのようなそういう独身の人の希望は、船舶を動かす動力になりますよ。その動力が物を連続させるという、つまり、平面に幅や厚さを与える二次元三次元の立体の世界を織り出してゆくのですからね。そこで前に戻りますが、その集合論の口のところの、一対一の対応の積を、2のX乗という代数の形で表現して見せたのがカントルという豪い数学者で、さアそれからは数学の世界は根柢からひっくり返って、大乱になって来たのですよ。港から港を船で、恋人と二人で航海するというような平面上の幸福は、むかしの夢で、平面も立体もないというような、おかしな世界が現れて来たりして、ややこしいことになったのです。そのカントルの集合論の発表は、西暦千八百七十七年というのですから、ひょっとすると、西洋も十九世紀の終りのそのころが、大乱の始めかもしれませんよ。数学の世界ほどこの世で、正直な告白をするものはありませんからね。」
「そうすると、その数学の大乱の結果と、幣帛の形というのは、どういうところに関係があるもんですか。」と、今まで黙っていた田辺侯爵も、だんだん興味の動いて来た様子で訊ねた。
「さア、それはわたしも初耳でしたね。しかし、そう云われてみると、なかなかこれは面白い、というより、強く胸を打って来るものがありますよ。たしかに――耶蘇の方の千八百七十七年は日本のいつごろでしたか。」と久木男爵は一同の顔を見廻した。
「明治十年ごろでしょう。」と矢代は答えた。そして、そう答えてしまうと同時に、その年の前後は日本にとっても重大な転換期だと思いあたり、光は東方よりという言葉も思い出すと、そのころより漸次に、光度を世界に増していった夜明けの日本の姿も彼は思い出されて来るのだった。
 久木男爵も考え込むときの例の癖を出して眼鏡を脱し、暫く鋭い表情のまま黙っていてからまた云った。
「ともかく、幣帛の形というのは幾何学として見ると、一枚の紙が連続的に、裏と表とを見せて無限に垂れているところに、現在の集合論との関係が成り立っているわけですから、鍵はどうもそこの連続の場所にあるらしいようですね。しかし、それはなかなか結構な問題ですよ。」
 久木男爵はそこまで云って一寸説明を止めたが、複雑な問題を手ごろなものに纏めたい工夫で、眼の光りがますますこのときから強くなるようだった。
「さきもお話した通り、愛人同士が手を繋ぐ、一対一の対応というのは平面上のことだったのですがね。これがいろいろに発展して、立体上にも同様に手を繋ぎ得る対応があると考えられるようになってからは、立体と平面との区別がっかない混乱を惹き起したのですが、その後になって今度は、ヒルベルトという大家が出て来たのですよ。この人は、平面とか立体とかの次元を比較するのに、前のカントルのように一対一の手を繋ぐ対応を考えるのを中止して、先ず平面と立体とが連続したものとして、つまり、陸と海とが口をつけた港港を行くように、そこの口をつけた連続ということを中心に、考えを発展させたのですね。そうすると、一枚の紙を無限に連続させて切るためには、どんな切り方をすれば良いかということが、一番の難しい、また新しい問題になって来たのですよ。要するにその切り方の形が幣帛と同じになって来ているところが、今仰言たようなことになっているんじゃないかと、こうまア私は思われますがね。しかし一寸不思議だな。数学者たちは宇宙の姿をメビウスの帯と称して、紙の形で描いておりますが、なるほどそのメビウスの帯は、幣帛に似ていますよ。わたしもなおよく研究してみますが、しかし――不思議な国だなア日本というのは。エジプトからかな。その御幣は。」
 頭を椅子につけ天井を見詰めてそう云う久木男爵は、もうこのときから一同とはまったく別の世界に入っているらしく、笑顔も消えた孤独な眼だけぱちぱち瞬いていた。
「しかし、そういうことになると、世界の人間どもに港から港へ旅をさす幸福を与えてやるのは、いよいよ御幣らしくもなって来たね。よほど話が整って来たよ。」
 由吉はパイプに火を入れて云ったが、もう今は彼について笑うものもなく、海からの夜風にガラスの冷えて来た部屋の中で、一枚の白紙に吸いよせられたように、一同は妙に静になってしまった。平尾男爵は手帳を出すと、「千八百七十七年と。カントルだね。」と呟いて記入した。そして「僕も帰り着いた夜、こういう風向きになろうとは思わなかったな。しかし、これで多少は僕の研究に方向がついて来たよ。東野君、君の専門の方はどうかね。その千八百七十七年前後のあたりは?」と訊ねた。
「そりゃ、勿論、立体も平面もこの世から姿をかき消した時代だよ。何しろ明治十年というと、西南戦争のときだからね。あのころは、隆盛の細君が香銭七百円もらって、突き返して人気が出るやら、吉原の女郎が洋装してみな並んでみたりするやら、そうかと思うと、そうそう、たしか、湯島に数学会社というのが出来た年だよ。会員が九十名だ。医学会社というのも出たね。何んでもやたらに、資本金七万円、五万円という会社が出始めたりしているよ。柳原愛子皇太子を分娩す、なんて新聞記事があの年に堂堂と出ていたのを、何んかで見たことがあるね。西郷隆盛の首がないので、大騒ぎしている記事と一緒だものだから、覚えているんだが、米が君、二銭五厘のときだ。それでも、日本の渥美半島の酒が、フランスから註文を受けたので、びっくりしたりしている。とにかく、三井が創立式を挙げた年で、軍艦が横須賀で初めて出来た年だ。」
 東野が声の調子がとれず、強くそう云っている途中でも、平尾男爵の令嬢たちはもう椅子の上で眠りかけていた。それまでそわそわと落ちつかなげにいた真紀子は機を見て立ち上ると、家がこの近くだから先に失礼したいと云って一同に挨拶した。すると、「それでは僕も」と云い出すものも多くなって、真紀子の挨拶をきっかけに急に遽しくそれぞれ椅子から立った。残るものらも下のロビーまで送りに皆と一緒にエレベーターの口まで行こうとしたとき、軽く後から矢代の肩を打つものがあった。見るとそれは久木男爵だった。
「君、今晩ここで泊ってらっしゃいよ。先日お約束の電報を上げようと思って、田辺さんにあなたのところを調べていただいたところが、御不幸があったということで、つい遠慮をしました。どうも御愁傷さまで。」
 と男爵は、もういつもの笑顔に戻り穏やかなお辞儀をした。
「有りがとうございます。」
 矢代は尋常にこのとき返礼だけは出来たが、それでもぼッと熱気に蒸されたような困迷を覚え、却って落ちつき払ったように身体がそこに突き立ったままだった。
「しかし、もうお暇も出来たでしょう。お父さまの御病気は?」とまた男爵は優しく訊ねた。
「脳溢血です。」
「ほう、それじゃお名残り惜しいですね。お幾つでした。」
「七十一です。」
「じゃ、わたしとあまり違いませんね。そろそろわたしにも廻って来ますかな。」
 気軽く笑いつつも微妙な変化を示す男爵の前にいると、矢代は、ふと自分の中に父もともにいるような重圧を感じ、生前男爵に抱いた父の気持ちがそのまま姿勢にまで加わろうとするのだった。彼の頭の高さも父から叱りつけられるようで、たしかに先日侯爵邸で会ったときとは、また別した渦巻きを体内に感じ、ともすると表情も固まろうとするのを、彼はようやく平素のままに心を支えて帰りを急いだ。
「今夜のお話はたいへん結構でした。もう少し精しくお訊きしたかったのですが、今日は友人が多いものですからこれで失礼します。」
 エレベーターの扉の中へ皆の這入るのを眺め、矢代も久木男爵にそう云って後から自分も入った。遊部や速水は侯爵夫妻の空いた自動車で帰ることにしたが、矢代は昼からの会合に人疲れを覚えたので乗り切れぬ自動車をやめて歩くことにした。しかし、急に由吉ひとりは平尾男爵らとホテルへ残ると云い出したため、千鶴子だけ先に帰ることになった。
「枕木さんからのお土産でもあるんでしょう。きっと。」
 宿泊する由吉の意存を千鶴子はそう云い当てて矢代と歩いた。他に塩野と佐佐もいた。みな疲れている様子で薄霧の降りた夜道を黙りつづけた。海からすぐの河口まで来たとき、誰からともなく橋の上で自然に足が停った。ほの白く煙っている潮の灯を見ているうち、佐佐が軽い吐息をついた。欄干の鉄の冷えているのがいつかまた旅の日の夜を思い出させて
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