そのとき一寸、本で読んだ幣帛の切り方を話したことがあるんです。そしたところが、この槙三という人は、数学が専門だものだから、専門的に話を聞かれたらしいのですよ。」
「そうだよ、そうだよ。専門的にあ奴は考えたのさ。」
と由吉はまた云って、この話の長びくことを揉み消した。
「しかし、専門的ならなお面白いじゃないか。それを一つ聞こうじゃないか。」と男爵は容易に後へ引こうとしなかった。
もうさきから、不愉快そうにいらいらしていた遊部は、冷笑を泛べた唇に脂肪をぎらぎらさせて、港の方から聞える汽笛の音に耳を傾けたり、這入ってくる外人の方を向いたりしていたが、侯爵邸のいつかの夜、矢代と論争めいたことになったときには、平尾男爵はその一座にはいなかったので、また五月蠅《うるさ》くなりそうな二人のことなど知らなかった。
「僕の大学時代の学友で、数学の専門家があったが、それがだんだん修業しているうちに、仙人になって来てね。断食なんか平気になったり、いつでも地獄や天国を見たり出来るようになった男があったよ。みそぎもよく一人でやっていたな。その男の云うことだと、断食なんて、何んでもないもんだそうだ。ただそれをやるときにだね、一大事をやるように人が思うが、そうするともう駄目だと云うのだ。そんなことを思ったりしちゃ、途中で死んだり病気したりすると云うのだ。いつも毎日やることを、今日もやるんだと思って、平然とやると、らくらくと出来るらしいんだが、それは僕にいろいろ暗示を与えてくれて良かったね。」
平尾男爵のそう云うのを面白がったのは、誰よりも東野だった。
「地獄や天国が見えるのかね。それはいい。しかし、またどうしてそんな人間が、そのまま断ち切れて人に伝わらないのかね。後が続かなくちゃ勿体ないじゃないか。」
「何んでもそれは、そんな人間は素質が初めからあって、自分が知らなくても、ぽッとその者の頭の後に円光がさしているらしいんだよ。ここにいる者らは、まア皆落第だね。見たところ、誰も円光は見えないよ。」
テーブルの周囲のものらは笑いながらそれぞれ各自の頭を見廻した。
「もしかしたら、幣帛だってそういう人が、何かの暗示で白紙を切ったのかもしれませんね。そうでなければ、そう長くただ一枚の紙がつづくものじゃないからな。」と、矢代は、このときはもう真面目な心にひびく声で、
「僕は数学というものは、そういうものだと思いますよ。これは無目的で、私心がないというその無目的な美しさが美しいんだと思う。」
矢代はこう云って皿の車海老にレモンの露を滴した。しかし、それは侯爵邸で遊部との議論のさい、ニュートンとピューリタニズムの精神の一致を遊部に説かれて、彼から止どめを刺されたのと同じ手で、いま彼を自然に刺し返したことに気づいた。遊部もすぐそれを知ったらしく、卓上に垂れたミモザの花房の上からちらりと嘲笑を見せて云った。
「しかし、そういうことは偶然という、怪しいものだなア。殊に有史以前の大昔のものが、そんな巧緻な近代幾何と一致するなんて、僕らには想像出来ないことですよ。ただそれは空想というものに過ぎぬ、夢ですよ。」
「まア、そう思いたい軽信は、お互いにありますがね、しかし、そんならニュートンだって夢ですよ。けれども、ピューリタニズムがニュートンと一致したり、ガリレオやデカルトがカソリックと一致したりしているというような、そういう夢というものの美しさを人間が信じなければいられぬ以上、日本の御幣だって、何んらかの数学上の最高地点と一致してくれたって、良かろうじゃありませんか。御幣は数学なんだからな。」
矢代は、見るまに変ってゆく遊部の馬鹿にした表情を見詰め、今夜はどのようなことがあっても敗北していられぬと、握るフォークとナイフも自然に固くなった。
「しかし、あなたは日本の太古にそんなことがあったなんて、本当に思われるんですか。」と遊部はまた真正面から矢代を見て訊ねた。その顔はもう怒ったように生真面目だった。矢代は、そういう遊部と対き合うと、まったく遊部のその正直さも無理ならぬことと急に思えて来るのだった。遊部とは限らず、矢代たちの時代に受けた教育では、ニュートンを信用するのは当然のことで、この遊部の思いを翻すことなど容易に出来ることではなかった。しかし、彼と同時代の青年の中にも、槙三のような、幣帛の姿から胸打つものを見た感動ある新鮮な能力も蘇っているのを思うことは、矢代にさらにまた別の感動を加えるのだった。それは驚くべきことと思い、見ている卓上の布の白さも心を休める美しさに見えて来た。
「まア、僕たちは一番正直に考えるべきところへ来てしまったのですよ。あなたも僕も、どういう巡り合せか、そうなって来たのだから、なるたけ僕らは感傷を避けて、古代文明の新しい数学に驚きましょう。実際、意志や感情じゃどうしようもない、美しい姿がある以上は。」
「じゃ、そのうち、僕も御幣を担がせて貰いましょう。」と遊部は静にいって、皿の上のマヨネーズを攪き廻した。
矢代は遊部にこの場は先ず勝ったというものの、明らかに腹立ちを与えて負かした自分の説得の不足を残念に思った。それも終りに、そんな侮辱を含んだ口吻を吐かせたと思うと寂しかったが、しかし、今日の遊部との論争は侯爵邸の夜よりはまだ良かった。矢代が遊部を説得するに都合の良い何よりの強力な武器を、槙三から持ち運んで来てくれたのは、他でもない千鶴子だったからである。またこの日の千鶴子は侯爵邸の夜とは違い、矢代の信仰の対象に槙三が動かされて来たことを喜んでいる様子が顕れ出ていて、他人事ではなく彼女もまた嬉しそうだった。この千鶴子がともに信仰に近づいて来てくれた表情の明るさは、また矢代の明るさでもあり、そして、それこそ長らく彼の望んで熄まなかったものの一つだった。
「僕は君と一緒に帰って来て得をしたのは、何より俳句を勉強したことだったよ。」と平尾男爵は東野に云った。「あれはだいいち論争したくなくなって善いね。もし世界に俳句を拡めたら、世界は見違えるように美しくなるなアとそう思ったが、君、芭蕉の思想なんて、なかなかどうして、あれは孔子以上だぜ。静寂でいてそのくせ千変万化するところは、どこかベルグソンにも似ているし、御幣にも通じるし。」
「ところがまた、俳句界ほど論争の多いところは、世界に稀だよ。」
東野の言にテーブルの周囲は一時にまた笑い崩れた。しかし、それは笑いとともに捨て流せぬ、俳句以外の重大なものに通じる心として矢代の胸に残って来るのだった。男爵も同時にそれを感じたらしく、ひとり大きく頷きながら云った。
「一番静かなものの中が、一番論争が激しいというのは、そりゃまた日本だね。」
「あれは論理と心理の極致に花を咲かせようとする念願なんだからね。つまり、やっぱり御幣をいただくための斎戒さ。不浄があってはならぬから論争する。しかし、それは何もわれわれの論争にしたって、日本人のする論争ならすべて、結局はみな斎戒だよ。戦争にしろ平和にしろ、よく考えてみると等しくみなこれ斎戒さ。それ以外にはないのだよ。悪だって善だって、漫才だって、玉乗りの果てに至るまで日本人はそうなんだから、まア、とにかく、僕らにしてもやっと御幣の傍へ帰りついたのだからね、お祭りぐらいはしたくなるよ。」
東野はそう云ってからフォークに突き刺した海老の顔を、何ぜだかすぐ食べようとせず愛らしそうに暫くじっと眺めていた。
「この道や行く人なくて秋の暮だ。」と遊部は不興げにひとりにたにた笑った。
東野は隣りのその遊部に何事か云いかけようとしたとき、エレベーターから顕れた久木男爵が、ボーイに案内されて彼の方へ近よって来た。
「わたしは郵船へ電話してみたところが、入港が遅れそうだというので、つい藤沢で閑をとりすぎました。しかし、多分こちらだろうと見当をつけてみたところが、やっぱり当った。まア、御無事で何よりでした。御苦労さま。」
大実業家というよりも芸術家に見える、久木男爵はこう東野に挨拶をしてから、食卓の周囲の顔を見廻した。そして「やア、これはこれは、どなたもお揃いですね。」と云って、矢代にもへだてのとれた情愛の籠った眼を向けた。
一同の話題はそれから再びなごやかな風に変って来た。食事も横浜の支社ですませて来たと云う久木男爵は、葡萄酒だけ少量唇につけ、黙っている婦人たちの方へ笑いを誘う軽い巧みな話題を向けるのだった。一番年長者だけに万遍なく食卓の両側に気をつけた細やかさで、この富豪の常の気苦労もよく感じられる自在な表情だった。
しかし、矢代はもうこのときから、いつもの自分ではなくなるように思った。それは自然に父の死を思い出したからだったが、――父の死の直前、久木男爵に自分が会ったということが、父の死の原因になったと思っている矢先だった。またそれは男爵に悪意を持つことでもなく、むしろ善意に解した場合、一層その度を強める性質のことにも拘らず、何んとなく矢代は、眼前に当の男爵がいるだけで今までの彼ではなくなるのだった。
「久木さんはお幾つだ。」
こう矢代に訊ねたときの父の嬉しそうな眼もと、彼に銚子をさし傾けてくれた謙虚な気持ちなど、思えば、そのときの父の代えがたい喜びであったものばかりが、今はそのまま喜びとしては彼に伝わらず、どう仕様もない一抹の悲しみの露となって滴り、漸次にじりじり胸中に拡って来るのだった。
食事がすんでからそれぞれ、バルコオンよりの部屋へ移り椅子を変えた。矢代は久木男爵から離れた椅子をとると、港の方をひとり眺めた。彼の位置からは、平尾男爵の令嬢たちが、柔いフランス語で戯れている無邪気な肩のあたりから、灯台の鋭く明滅する光りが見えた。どこかフリジヤの花を思わせる少女たちの姿だった。光りの廻って来るのを待っているうち、矢代がパリへ着いて間もないころ料理店の一隅で、偶然この幼い子たちを見た記憶が蘇って来た。すると、またその光りの遅い廻転は、ふと父の骨が火になって出て来たときの、最初の鮮やかな色を思い出させた。それは繊細な花茎を連想した直後の彼の感傷とはいえ、父の死の光りの前の少女の姿は、一層活き活きと揺れたわむ呼吸に見えて美しかった。
「平尾さんのお嬢さんはパリでお生れになったのですか。」
久木男爵も、二人の令嬢の自然なフランス語を耳に入れたらしくそう訊ねた。
「そうです。この下の方ですが、これで日本を今日初めて見るのですよ。いろいろ教えこむのにこれからまたひと苦労です。何しろパリじゃ、子供の遊戯に、恋人から手紙の来るのを待つ遊びがあるもんですから、見ていてときどきひやりとしますよ。」
平尾男爵のそう云うのも待たず、皆の笑い出す声の中に沈まりながら、令嬢たちはまだ無心に話しつづけた。
「子供のことというと、僕も外国では自分の子供と同じ年恰好の子に会うと、いつも一緒に遊んで見ることにしたが、そこの国民の成長力を感じるには、それが何よりですね。」と東野は久木男爵に云った。
「そうそう、どこの国の子供も子供のときは、みな同じように可愛らしいが、大人となると、またどうしてあんなに違うもんだか、相当憎いのもおりますからね。いったい、子供と大人とどのあたりで違って来るものか、なかなか微妙な研究問題ですよ。これは、わたしもときどきこの年になって、自分もこれで憎い人間になっているのかもしれぬと、考え込んだりしますからね。」
久木男爵のそう云うのを矢代は聞くともなく聞きつつ、思わず、自分にとっては事実そうだと忘れていた灯台の光りをまた見詰めた。しかし、怨もうにも怨めぬこの憎さは、天から転がり下った宿命の糸に見え、少女のか細い肩の間から徐ろに廻って来る光りの瞬きも、ますます父の最後の笑顔をほのかに浮き出す灯火のように、愁いを含んで射しこもって来るのだった。
「ね、ほんとにお父さん、あんなに喜んで死んだんですもの。」
父の亡骸を抱いた矢代の傍で、そんなに喜んだ母の顔も彼の眼から離れなかった。しかし、それもこれも起ったすべてのことは誰も知らず、ただ彼の胸中で人知れず燃え上っては、やが
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