身辺は絶えずそれらの話題で豊かだったが、しかし、真紀子だけは実家が横浜にある関係上、話の途中にも電話がしきりにかかって来て場を立ったので、その度びに顔の曇るのを眺めるのは気がかりなことだった。
「お忙しいんじゃない。お帰りになったら。」
と見かねた千鶴子は真紀子にすすめても、真紀子は何か決するような表情でいちいち電話を処置していた。家に戻れば耐えられぬことの積み上って来る煩わしさから、一時でも遠ざかっていたい焦躁が、却ってこういう場合いつも彼女を活き活きさせて来るのは、まだパリ以来の真紀子の癖だと矢代は思った。家は明治の古い貿易商で、ウィーンに残っている彼女の別れて来た良人の早坂が養子であるうえに、真紀子もまた養子であるということ以外彼の知るところはなかったとはいえ、それだけでも家中の煩雑さを了解するに事欠かぬ事情が揃っていた。
「しかし、僕はアメリカの日本街というのを見て一寸驚いたね。何もあそこは大阪と変らないじゃないか。暖簾の懸った銭湯もあれば、床屋へ入れば、どんなに刈りまひょ。といきなり問われたりして、僕は郷愁を覚えたよ。」
平尾男爵は突然こう云って笑ったので、皆誰も感合した笑いを洩すのだった。この男爵は田辺侯爵と同様に大名華族で、初めは社会学の研究にパリにいるうち、次第に農業経済の研究に入っていって、むかしの自分の領土の向上に関心を向けているこのごろだった。二人の令嬢の中の妹の方がパリで生れたためか、父男爵の後ろの方で今もフランス語で戯れ合っている幼い姉妹の姿を、極めて淑やかな大和絵風の夫人が自然に任せて眺めていた。透きとおる肌の白さのくち数の少い、高貴な夫人の容姿は、幾らか憂鬱なほど静かだったが、その隣りの外人に似た緊った輪郭の侯爵夫人とときどき慎しやかな低声で話しているのは、見ていても好個の対象で感じが良かった。
「そういえば、世界の都会のうちで、一番愉しそうににこにこして生活している所は、大阪だと僕は思ったが、あそこはまったく特殊国だね。」矢代は塩野にそう云うと、一団は時ならぬ真実を聞きつけたという風にどっと笑った。
「モスコーはどうだった。」と東野は矢代に訊ねた。この中のほとんど誰もが外国にいた者たちばかりだったが、モスコーを見たものはまだ矢代以外に一人もいなかったからである。
「あそこのことを話すのは、なかなか難しいですよ。僕は一度、モスコーの人間はどうしてあんなに憂鬱な顔をしているんだろうと、何んの気もなく話したことがあるんだが、そうしたところが、いきなり横から、こ奴はファッショだと、怒鳴られたことがあった。とにかく僕は、あの長いロシアの道中で、笑っている人間の顔を見た記憶がないのだけれども、あれは一つは国民性か、それとも他に原因があるのか今は疑問ですね。その疑問だけは本当なんだが。」
「しかし、そういう重大な疑問を、自国民にも話し得ないということは、そりゃ、世界の誰も彼もが戦戦兢兢として暮しているという証拠だね。とにかく、もう起るものは起っているよ。そして、救うものもこれでどこかに潜んでいるんだ。」と東野は云って窓から樹の間越しに海を見た。
「にこにこしている大阪か。救うのは。」と由吉は間を脱さずひやかしたので、また皆は一緒に笑い出した。
このような真面目な話題や雑談がお茶どきから夕食前まで一同の間で続けられたが、時間はおどろくほど早く過ぎた。そして一同はロビーから六階の高い食堂へ移り変って、夕日に漲る海面を下にしたバルコオンで食事の支度を待つのだった。大きく拡がった海が刻刻に色を変えてゆく後から、追うように灯が港に点いていった。薄明りのころの横浜は遠い沖が瑠璃色に傾き、船の赤い横線が首環のように水面に眼立って来る。矢代はパリにいるとき、カルチエ・ラタンで久慈と食事中、傍にいたアンリエットが突然、匂いの強いセロリの茎をぽきりと折って、「ああ、横浜へ行きたい。」と嘆息を洩した夕暮どきを思い出したりした。そのときは、千鶴子が明日ロンドンから来るという日で、二人は彼女の宿の選定に悩んでいたときだったが――
茂った帆檣の見える埠頭の方から汽笛が鳴った。バルコオンの欄干のところで、真紀子と千鶴子は皆から少し離れた位置に立ち、裾に微風のそよぐ忍び声で何事か話していた。二人の笑顔を海面からの反射が細かく浮き上げ、スカートのぴったりと締った物腰の揺れる、あたりの燃えるようなひとときだった。
その横の空地を越した向うに、アンリエットが父と二人でいたという、廃館になったマッサアジュリーム会社の白壁が見えた。
矢代は、そこの白壁に射し返った入日を受け、ペンキ塗の緑の鉄柵の影が折れ曲っているのを見ているうち、ふと急にうつろうものの寂しさを覚えて来るのだった。
「ああ、横浜へ行きたい。」
と、そうアンリエットの洩した嘆息も、あの主の変った廃館を見たかったためだったのかと、彼は自分に会話を教えた教師の胸に今も失われぬその夢の巣を、彼女に代ってなおよく覗いた。入日の変化につれて、海草の広大な層がそこだけ見る間に黒く変っていった。残光の漂った水面を掠め汽笛がまた鳴りつづけた。そして、時計の歌の消え入るような余韻を腹に沁み透らせ、港はしだいに灯を明るくしていった。
「矢代さんにお話したいこと、それはいろいろあるの。いつかまた、ゆっくり落ちついたときにね。」
と真紀子は食卓につく前に、あきらめに似た悲しさを含んだ声で、矢代の傍へ来て云った。
「どうぞ、是非来て下さい。」矢代は真紀子の不幸な旅を慰めるつもりで短く云ったのだったが、しかし、自分はこのような屈託のないことも、帰って以来千鶴子にまだ一度も云ったことはなかったと思った。
一同が食堂のテーブルについたころ外はまったく暗かった。そこへ藤沢帰りの久木男爵から東野に電話がかかって来て、すぐこれから行くから待っていて貰いたいということだった。食事も半ばまで進んだとき、平尾男爵は、隣りにいる田辺侯爵に、
「どうだね、このごろ君の郷里の方の忙しさは。」と訊ねた。
「相変らずだ。」と答える侯爵は表面閑そうな声だったが、地もと県民の種種雑多な集りの会長を引受けている関係上、その仕事の多忙さは、産業や教育、工業や政治関係など、華族仲間の交際以外のことだけでも容易なことではないと矢代には分った。一見、閑そうに見えているものでも、どこかに必ず人知れぬ多忙さがあるものだが、それは、このごろの矢代のみならず、ここに集っている誰彼皆がそうだった。殊に侯爵は県民の育児と教育事業に熱心で、図書館の蔵書目録を充実させることには、直接の力を惜しまない風だった。全国でも侯爵の県下の図書の豊かさは、一般に鳴り響いていることだったが、育児事業の完備と育英奨励も、これまたともに有名だった。
「僕は船の中で東野君にもいろいろ話したんだが。」と男爵は侯爵の方にナイフを持ったまま傾いて云った。「田辺のように図書館を豊富にしたり、育英、育児に熱心になったりするのは、これは勿論大いに推賞すべきことだと思うんだが、僕は自分の研究の社会学をすすめていってみてだね、どうも、自分の郷里の県下を健全な方向に発展させるためには、先ず何より市町村の祭りを大切にして、これを奨励すべきが根本だと思って帰って来たんだよ。農業とか、芸術とか、その他の生産関係など、殊に工業にまでこれを及ぼすべきだと考えるんだが、まア、僕の考えは君の現実派に比べて理想派だけれども、理想派必ずしも非現実主義ではないので、むしろ、君より僕の方が現実主義だとも自慢し得るんだがね。しかし、それはさて措き、農業経済というような点から考えたって、日本内地の手の込んだ集約主義の農業の成功というやつは、やはり、町村の祭りが根本だということは、これは誰も異存なく認めなければならんのだから、いろいろ云われる例の、外地の大農主義というものにしてもだね、僕は自然にこれからその中へ介入して来る科学にまで、祭りを忘れしめぬように発展さすべきだと、こんな風に考えてみるんだよ。つまり、科学祭りというものをだね。」
何を云い出すかと思っていた一同は、思いがけない男爵の話から、答える術もなく、軽い一種の失望を泛べた表情でにやにやしながら黙っていた。すると、千鶴子だけ一人、何か急に思い出した様子で、首を上げ、傍の矢代を意味ありげに見詰めたが、由吉が突然、「殿さまにはなりたいものだね。」と云ったので、その拍子にどっと上った一団の笑声に邪魔されてまた彼女もそのまま黙った。矢代は千鶴子の視線が忘れられず、それから続いて聞える談笑の底から、彼女の方へ身をよせかけて、
「何んです。」と低く訊ねた。
「お昼に船を待ってたとき、お訊きしたいことあるって、あたし云ったでしょう。あのことなの。」
千鶴子がこう云っているときでも、あたりのものらはそれぞれ別のことを話し始めたので、幸いに二人の話は皆に分らずに終りそうだった。千鶴子の訊ねたいということは、なるほど彼女の思い出したのももっともなことで、兄の槙三から頼まれて来た用事だが、越後の山の湯にいるとき、矢代が槙三に話した幣帛の切り方に関することだった。それは一枚の白紙を無限にずるずると切り下げて垂らしていく幣帛を、宇宙の形と信じた太古の日本人そのままに、今もなおその幣帛の上に鏡をいただくように安置し、祠の本体と信じている心の美しさについてであったが、数学者の槙三には、矢代の話の中そこが一番の興味の中心だったと見えて、学校に行ってからそれを先輩たちに話したらしかった。ところが、一枚の白紙を無限に連続して切り下げる方法は、目下世界の数学界に於ける最大問題である集合論のうち、特にヒルベルトの位相幾何学の連続の問題と共通した難問の部分だとのことで、またこの解決はまだついていない、もっとも斬新な、数学界に於ける華形として登場して来た射影幾何の部門に属するため、矢代がその幣帛の研究方法をどこから得て来たのか、訊ねて来てくれるようとの槙三からの依頼だった。千鶴子はこんな難しい話を云いがたそうに矢代に話しているとき、
「一寸、そこのあなたたちのお話、聞き捨てにならないな、何んです。」
と、今まで二人の話を聞いていなかった筈の男爵が、そう云って矢代の方に身を傾けよせて来た。がやがや話していた食卓の長い両側の列が、皆一斉に話をぴたりと停めると、千鶴子と矢代の方を振り向いた。槙三ら数学者たちといい、ここの外国帰りらといい矢代は、彼らの注目を受けるや、世界の全体が急にこちらを向き返って来たようで自然と緊張を覚え、ぼっと暖く光りのさしのぼって来るのを感じるのだった。
「あなたは帰ってくるなりお祭りの話なんかされるもんだから、つい僕も、いろいろ思いあたることが出来てきて、難しいことになったのですよ。」
その場は矢代も平尾男爵にそう云ったまま笑った。
「何んだい君、今のその話は?」
東野も千鶴子と矢代とのひそひそ話を、前から幾らか耳にしていたと見えて、そう訊ねた。しかし、矢代はそのときの東野のこちらを向いた眼が、実に静かな優しい色を泛べているので、男の眼もこんなに美しくなるものかと、暫くは見返しながら、
「いや別に、とり立てたことでもないのですよ。」と云って笑った。
「集合論のお話のようだったが、御幣が集合論と似てるんですって、そいつを一つ伺いたいな。」
と、平尾男爵はまた二人の方へ乗り出す具合をやめなかった。
「ああ、あれか、あれはどうも。」
由吉はもう弟の槙三から少しは聞いてあったものらしく、信用なりかねる話題を、むしろ矢代がさしひかえてくれるようにと思う表情で、ひとりフォークを動かした。
矢代はそうでなくとも、もうこのことに関しては、今は話し出す興味が失せて来ていた。第一話はあまり突飛であったし、知的興味を覚えることではないばかりか、ここに集った人の心をかき乱す作用もしそうで、口もとに出かかろうとする声も、苦しく抑えにかかるのだった。
「僕は集合論なんて、よく知らないんですよ。ただね、いつか越後の山の湯へ行ったときに、由吉さんの弟さんと一緒だったのですが、
前へ
次へ
全117ページ中91ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング