ものだからなア。」と佐佐は、例の鋭い眼に一寸微笑を泛べたきりだった。
「それも外国の石でね。」
「僕は帰ってから蓮の画ばかり描いてるんですよ。」佐佐はそのとき急に黙って沖の方を指差した。
沖に碇泊していた東野らの船が徐徐に動き出して来たのだった。港内でもっとも大きな船だったので、通路を邪魔している小舟らは逃げ走って路を開けた。その中をおおらかな速度で姿を顕して来る船首の風貌は、満場の注視を浴びるに適した偉容で、黒い船体に純白の明快な甲板は、帆に風を孕んだ宝船の近づくに似た、静静とした期待を人人に与えて美しかった。歩廊に溢れた出迎えの群衆は帽子を振るもの、手巾を靡かすものでどよめき返した。初めのうちは甲板に並んだ乗客らの顔も、ただ黒い一線となって映っているに過ぎなかったが、近づくに随って、巨大な建物の迫るようにあたりの空をぼっと暗くさせ、波を縮め、見事な長い船体を着実によせて来た。鉄板から滴るような潮の香が歩廊の方まで漂った。飛び散って逃げた小船もまた急いで近より、もう荷揚げの支度にとりかかるものもあった。甲板上の船客の顔を探すものも、目的物を見つけたものらは、再び顔を充血させて帽子を激しく振り廻した。どよめきが次第にあちこちから膨れ上って来るにつれ、船は歩廊の高さを遥かに抜いてぴたりと動き停った。纜を投げかけたり、船梯を懸けたりする多忙な中でも、出迎えのものらの熱情的な騒ぎは一層激しくなったが、それに引きかえ船上の客は、妙に冷く静り返っているように見えるのが、この日もこの埠頭の特長であった。
「いるいる。おーい。」
と塩野はまっさきに平尾男爵の姿を甲板から見つけて呼んだ。間近いように見えていても、船上との間隔はかなり離れている上に、周囲のどよめきに船まで塩野の声はとどかなかった。男爵は外人たちと列んでいてもそれらを圧するほど体が大きくく、ゆったりと鷹揚な身振りで片手を上げたが、まだ一同を探しあてない様子だった。その横から、いつもの無表情な東野が唇を割り、日に焦げた色で、こちらを見ていた。真紀子の姿は初めは見えなかったが、暫くして、前髪を高く締め上げた色白の婦人が東野の肩に片手をかけて、ひょっこり男爵との間から顔を出した。それが真紀子だった。
船は長途の航海をやっと終えたという風に、潮湿りの錆を滲ませた胴から水を吐いた。船と歩廊との間の梯子のあたりに、匂うような感動が伝わって遽しく往来がつづいていった。白い歯が間断なく洩れたり消えたりした。しかし、船が停ってから乗客の降りて来るまでが、これが面倒な時間がかりだった。
「僕もあなたのこうして帰られるとき、出迎えに来るんだったなア。しまった。」
と矢代は千鶴子に云った。そして、また東野と真紀子の方に対って帽子を振った。千鶴子もそれには黙ってただ手巾を振っていたが、そのうち船中の人に自分を知らせたくて夢中に後方から押しつけて来る群衆に圧せられ、だんだん矢代の方へ押し竦められて来るのだった。しかし、それは二人にとって思いがけない仕合せなことだった。むしろ千鶴子は群衆の力を頼みとして、自分が前に船でこの港に入港して来るとき、出迎えの中に矢代の不在だった物足りなさを、今ここで取り戻そうとするような、無量の思いの噴出して来た機会とも見えたが、またそれは、たしかに千鶴子だけでなく、矢代にも同様の空想が暫くは消えない充実した一刻に変って来ていた。もう気羞しさもなく、躊躇もない、許された日の灯火の下でめぐり合った二人のように、物狂わしい幸福感で互に一層温められた。港港で浴びた潮の香の思い出さえ、時を得た花に似て二人の間に咲き揃って来るのだった。しかし、このような二人が、パリで別れて東西の帰路をそれぞれ辿って来て、そして、今この港の埠頭で初めて会うときが、丁度こんなであっただろうと思い合うことは、実際、どちらにも少し遅すぎて来たのだと矢代は気付くのだった。
「あたし、一寸お訊きしたいこと、頼まれてるんですよ。」
と千鶴子は何か忘れていたことを思い出したらしく云ったが、すぐどういうものか、あまり近づきすぎている顔を背けて真っ赧になった。
「何んです。」
「でも、それは後からお訊きしますわ。」
千鶴子はまた、船に対って手巾を振りつづけたが、そのときはもう下船準備の命令が出たものか、甲板の上ではそれぞれ乗客たちが後を見せて散って行くときであった。
船客たちが梯子を降りて来ると、ホームの上に幾つも出迎えの人人の輪が出来た。挨拶をするにも握手を身につけた手振りでするものが多かったが、気羞しげに船客を取り巻いたまま無言で遠くから見ているものや、いきなり冗談を浴びせるものらの中で、真紀子もすぐ千鶴子に近よって来て、握手をした。しかし、東野は握手をせずに矢代の肩を両手でぐっと掴んでから、一つ大きく背中を叩いて笑ったきりで、すぐ千鶴子に対い、
「まだ覚えていてくれましたかね。」
と軽くからかった。平尾男爵は堂堂とした体躯に幾らか疲れを見せた背を丸め、温和な口もとに挟んだ煙草に火も点けず、田辺侯爵と立話をしながらも、自分の乗り捨てた船をときどき眺めては別れを惜む風だった。あちらやこちらで、未知なものらの紹介や、挨拶がひときり済んだと思われる適当なころ合いに、
「さア、ここでこうしていても始らないから、ともかくホテルまで行こうじゃないかね。」
と由吉は云って皆の先に立って歩き出した。人人の渦は崩れて彼の後から階段を降り始めたが、その途中でも、帰朝者から報道洩れのスペインの内乱に関する新しい話を、誰も一番に聞きたがった。平尾男爵はイギリスの新聞や噂から拾った各国の武器の注入状況とか、スペイン人自身の、二階と階下に別れた兄弟同士の銃で撃ち合う物凄い有様とかを、問われるままに語っていた。
「とにかく、あれは世界戦争の始まりだよ。もう戦争は起っている。対岸の火事じゃないよ。」
こう横から一口云ったのは東野だった。そして、彼はその後の言葉を強い調子でまた云った。
「ヨーロッパももう底を突いた。今度こそはいよいよ東洋の海嘯《つなみ》だよ。僕らはうろうろしているときじゃない。」
興奮の去りかねた言葉だと分っていても、一同は東野に語を継ぐことも出来ずばったり黙ってしまったまま、一種異様なショックでそれぞれ下のタクシに乗り込んだ。
「久慈はどうしました。無事ですか。」と矢代は東野の横に乗ってから訊ねた。
「ああ、あれはまだ子供で困ったものだ、パリで逍遙していたよ。」
逍遙を子供の小さい用と訊いたものか塩野は突然おかしそうに笑い出した。東野はそれには少し困った表情になりかかったがすぐ加えた。
「しかし、僕はあの人ほどフランスを愛することの出来る人がいるんだと思うと、フランスが羨ましくなったね。僕はあの三分の一でも日本を愛してくれればなアと思ったが、愛というものは、こ奴はどうしょうもないものだ。そういうところがもしフランスにあるのなら、フランスだって少しは日本を愛してくれるだろうと、このごろ思い直しているんだが。――実際そうだよ。日本にラフカディオ・ヘルンがいたために、どんなに僕ら日本人はギリシア人に感謝したか思って見給え。」そして、東野は篠懸の街路樹の芽を噴き出している色を見ると、
「いいなア、僕も芽の出るころに帰って来たのか。いや、僕は忠義を竭すよ。誠忠――これ以外に僕らにはあり得ない。これは実に豊かなものだよ。ただ人はこれを間違えて、こせこせしたものだと思うようにさせる傾向のあるのは、もっとも慎しむべきことだね。とにかく、あのこせこせした日本精神だけは、一番激しい非日本精神だよ。」
東野はそう云ってからも、またのべつ幕なしに饒舌りたいらしく、何か憑かれたように止めどもなく車中でひとり話すのだった。
「僕は外国を歩きながら、日本精神ということを絶えず考え通して来たがね、とどのつまりは、日本精神ということは、人を寛すということだと思ったね。それや怒るときは怒るがね、しかし、そこにまた何んというか、怒ってしまうと、ぱっと怒りを洗う精神が波うって来るそのおおらかな力だよ。それが日本精神さ。それが大和ごころという優雅な光りものだよ。もしそれが無ければ日本は闇だ。滅ぶ方がいい。諸君青年はこの美のために立てよ。ただそれだけがもう諸君の精神世界を美しくするのだ。そのどこにいったい嘘があるのか。」
と東野は云うと眼に涙を泛べて矢代の膝を叩きつけた。矢代は強く打たれる膝もとから、自分が満洲里の国境を突切って入って来たときに感じた清純な心の呼び声を、今再び彼から聞きとるように感じ、
「やるよやるよ。」と答えて背を延ばした。そして、埠頭の歩廊で真紀子と東野の間に、忌わしい想像をめぐらせようとしていた自分に対して彼は恥じるのだった。なおまたたといそんなことがあったとしても、この今の彼の感動は、千鶴子と自分の結婚のときに仲人を東野に頼みたいと思わせて、他に適当な人は自分には見当らないとまで彼に思わせて来るのだった。
「僕が帰ってからあなたはパリで講演をされたそうですね。誰だか云ってたが、あ、そうだ君だったね。」と矢代は傍の塩野に訊ねた。
「講演か。あれは僕の一世一代の冷汗をかいた日だったよ。生きれば恥多しとつくづくあの日は思ったね。しかし、フランス人というものに、実はあの日初めて僕は感服したんだが、――」こういってからどういうものか東野はまた黙りこんだ。
矢代は東野の感服したのはどういう点かと訊ねてみたが、そのときにはもう車はニュー・グランドの前まで来て停った。東野は一同の先に降りると、前の山下公園の方を一寸見てから、ホテルへ入らずつかつかと海際の公園の中へ入っていった。矢代も彼の後から追っていった。
「僕は外国へ行く前に、よくここのベンチへ坐って海の向うを見ながら、子供みたいに夢想に耽ったものだが、今度はどんなものか、そこの同じベンチへ坐って見てやろうと思ってね。」
東野はそう云いつつ噴水のある傍を通り、芽の出た若芝の周囲を廻って、海岸よりのベンチの一つを選ぶと腰を降ろした。
「ここだよ。もう僕は前のようじゃないからね。何んと有りがたいことだろう。」
両手を後頭部に廻し後へ反りつつ、東野は海を見て云った。少し老人じみて見える横顔の眼もとに細かい皺が出来ていたが、まだ眼底の光りは若若しく疲れてはいなかった。園内の立木が遠く離れていたので、かっと強い日光が額に射した足もとの海面で測量船が人もなく揺れている。その向うに陽を孕んだ帆船が風に逆らい、舷側に白い泡を長く立てていた。
「君、僕はいま非常に気持ちが良いのだよ。われながら興奮を感じるほど混りけがないように思うんだが、これがいつまでも続いてくれればね。君はどうだった?」と東野は急に矢代の眼の中を覗き込んで訊ねた。
「僕もそうだったなア。しかし、一度そういうことが有ったと思うことは、なかなかこれが、大切なんだと思ってるんです。今でも僕は国境を入ってきたときの感動を、これは自分の鍵だと思って大切にしていますよ。」
「そうだろうね。もしそれを疑っちゃ、――」東野は暫く黙った。
「しかし、その鍵を疑うものは実に多いね。そ奴を知性だと思わして元も子も無くさせる非文化的な病いが世界中に蔓延しているんだよ。何ものの仕業か知らないが、こ奴にかかっちゃ、今にもう僕らは戦争をさせられるよ。世界中がじくじく腐って来たのだ。」
二人はもう黙ってしまった。遠くに見える東野の乗って来た船の周囲は、まだ荷揚げがつづいて忙しそうだった。二人は間もなくそれからホテルへ戻っていったが、東野は実家の方へ帰してある夫人や子供に、出迎え不用の電報を打ってあるので明日でもそちらへ行かねばならぬと話した。
ニュー・グランドのロビーでは一団のものらは悉く揃って二人の来るのを待っていた。二人が見えると、白い葡萄酒が各自のコップに注がれて皆東野たちの無事帰朝を祝し合った。その後の一同はそれぞれ思いの残る場所場所の話で持ち切っている中でも、特にひそひそ声をひそめて訊ねたり、答えたりするようなことも多かった。由吉の
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