ていた景色だった。それが今は、ぶつりと背後の紐は断ち切れて、眼に映る港の建物、船舶、街路の起伏に連る人家の隙間と、直接自分の根を張りわたらせる樹木のように、独立してゆくものの切迫した、初初しい悲しみを彼は覚えて来るのだった。それはまた静かな勇気でもあったが、絶えずうち上る波の光りにも、そのおのおののぴちぴち鳴り合う呼吸が感じられ、肌身に迫り透って来るのだった。
「僕はね、昨夜も叔父から結婚をすすめられたんだが、どうしようかと思ってね。それとはまた別に、外務省と連絡をつけて、海外版の写真雑誌を出すことにもなっているので、その方を先きにしてから結婚しようかと、昨夜から迷ってるんだよ。どうしたもんだろうね。」塩野は少し突然な調子で矢代に訊ねた。この人にもやはり生活の苦労は襲っているのだと矢代は思った。
「しかし、それはどっちを先にしたって良いのじゃないか。叔父さんのいる以上は。」
「ところが、叔父からはそういつまでも、金を貰っちゃいられないのだよ。」
「しかし、それにしてもさ。」
「ふむ――しかし、結婚するとしても、どうだろう、もう僕は中国と戦争が起りそうな気がするんだが。起らないかね。」
パリにいるとき外務省にいた関係で、塩野は戦争に関しては以来誰より敏感だったのを矢代は思い出した。
「それは分らないが、よし起ったところで、結婚は結婚でまた別だよ。他の観念を混えてこの際、考えるべきじゃないだろう。特に結婚の場合だよ――」と矢代は云った。
「そうかな、結婚の場合は特に考えるべきじゃないかね。ね。佐佐?」と塩野は黙っている佐佐に対い、君にも今はそれがあるのだろうという意味を含めた笑顔だった。
「僕は今は、何より生活費の問題でね。絵はさっぱり描けなくなってるし、君よりは辛い立場だからな。」と佐佐は眼を細めて光る波を見つづけたままだった。
「しかし、結婚は永久の問題だからな。それをそうじやない問題と混同して考えちゃ、どっちも考えられなくなるじゃないか。」と矢代は千鶴子と自分の立場をも考え描き、自然に意見を出すのだった。
「人それぞれ違うんだね。しかし、僕はやっぱり考えさせられるんだ。僕は写真師だから、戦争が起れば誰よりも真っ先に、飛行機に乗るに定ってるんだよ。そしたら、お先きに失礼させて貰うんだからね。君らよりは切実なんだ。」
「不易流行ということが、日本にはむかしからあるんだから、まア、出来れば結婚もするさ。」
矢代は無駄な塩野の結婚に対する躊躇を払い除けたくてそう云った。しかし、塩野にはまた少し違ってそれが響いたと見え、女性に淡白な若ものに見受ける、眼の間に海老のような皺を作って露わな皮肉を泛べると、突然、
「じゃ、君のはどうだ。」と矢代の顔を覗いて笑った。
前から矢代は塩野の表情の中で、このような、こちらの思惑を断ち切って素通りしてゆくときの笑顔が、一番に頼りなかった。
「僕のはまた、夏炉冬扇で通用しないのさ。どうも困ったことだよ。」
「しかし宇佐美は君を賞めてるよ。ただね、あそこのお袋が妙な風な考えなんだね、それというのは、あのお袋は養子娘だから我が強くって、云い出したとなったら、もう他のことは、何もかも分らなくなるんだね。その点僕は君に同情してるんだよ。」
宇佐美のことについては、前から一度も口にしなかった塩野であった。それを云い出したところに、塩野の言外の意味を感じ、矢代は、急に打ち込んで来たものの正体を知りたくて彼の眼を黙って見返した。
「宇佐美家のことは、どうも僕にもよく分らないし、君以外からは聞きようもないのだよ。」
矢代は塩野から眼を灯台に放し、さみしく答えたものの、事実、自分は千鶴子の家のことに関しては、調査することもまだ進めず、またその用も感じたこともない自分だと思った。一つは怠慢とはいえ、それはむしろ、精しく知らぬ方が結果が良いと思っていたからでもある。千鶴子以外の他に誰かと結婚する意志でも起って来るようなときには、調査の上比較する必要も起るであろうが、そんな意志のない限り、知るより知らぬ方が便利でもあったし、知りたくとも耳を塞ぐ気持ちも良かった、またそれは、同時に自分の方についても同じだった。
「あの千鶴子さんはね、末っ子で、親からも兄弟からも可愛がられすぎるんだよ。そこがいつもすらすら通ることでも、結婚問題となると、反対にそれだけごつごつ難かしくなるんだね。何んでも侯爵夫人が間へ立っているとか僕は聞いたんだが、そういうことは、あそこのお袋は好きな人だよ。僕から見れば、今まで君が黙っているのはよく分るんだが、しかし、人には分らないからね。」
矢代と千鶴子との間のことは、見て見ぬふりをしていた塩野も、それだけは遁さずに淡白さを装っていたのかと思うと、千鶴子の兄の由吉と彼との友情のふかさも矢代には考えられた。自分に向けられる友情よりも由吉への深さが考えられた。
「もう皆さんそろそろ顕われるところだろう。」
矢代は千鶴子のこととなると話を反らして時計を見るのだった。
歩廊に出迎えの人人の賑い始めたころになって、外交官の速水や、音楽家の遊部など、矢代の顔見知りの人たちもぽつぽつ集った。由吉と千鶴子の来たのもそれから間もなくだった。由吉は矢代を見つけると、この度びだけはいつもの磊落な風貌を生真面目に押し包んで悔みをのべた。
「もうしかし、あなたもまたお出かけになるころでしょう。」と矢代は由吉の外国行きの準備を訊ねてみた。
「もうマロニエも、蕾をつけ始めましたからね。」
由吉はパイプを口から放して静に沖を見ながら、暫く微笑を湛えて黙っていた。マロニエが咲くという魅力は、一瞬、青春に翅を与えたような匂いを掠めて通り過ぎた。胸に息詰まるような甘さで迫る春の香だった。
「宇佐美、もう行くこと云うなよ。」と塩野も、噴きのぼって来るものの制しきれぬ興奮で顔が乱れた。
「なかなか鴎という奴は、なまめかしい容子をするもんだね。あの飛び立つところのしなやかさはどうだ。」と由吉は反転した他人事を呟き、顎を突き出し、ひとり悦に入っていたが、「あれか、男爵の船?」と、急にパイプで碇泊している一行の巨船を指差した。
千鶴子は矢代の傍に椅子をかけると細い膝をよせ手袋を脱ぎながら、「お疲れにならない。」と低く小声で訊ねた。親しみの眼に見えて増して来た彼女の低声に、矢代も一言会葬の日の礼を云ったが、ふと、どうして自分があのヨーロッパを歩いていた間、この千鶴子と何事もなく過せたものだろうかと、我ながら俄にそんなことが理解しがたい頑なさに見えて来て、じろじろ驚きながら千鶴子の膝を見るのだった。それも、今ごろ突然そんな感じに襲われて来たということが、一層自分の憑かれていたものの激しさを今さらに感じられて、茫然とした思いでまた海を眺めた。
「ホテルはとってあるのかね。このまま東京へ帰るんじゃないだろう。」と遊部は由吉に訊ねた。
平尾男爵は子供づれだから分らないが、長い外遊のものに即日の帰宅は無理だから、今夜はニュー・グランドになるだろうという一同の意見だった。歩廊には刻刻出迎えの群衆が増して来た。中に田辺侯爵夫妻の顔も揃って顕れると、由吉たちの周囲は船を待つ間のもどかしさが無くなり、歩廊の欄干の傍に出揃って沖の方を向いたまま、一同につきものの機智諧謔が流れ始めた。
「東野さんと真紀子さん、どうして一緒に帰る気になったのか、あなたは御存知ですか。分ったようで僕には分らないんだが、手紙には何も書いてなかった。」と矢代は傍の千鶴子に訊ねた。
「それは書いてないの。ただね、お話することいろいろあるんだけど、今は書く勇気がないって。そして、自分の旅は悲劇だったって、書いてあるだけなの。」
階下から閃き出て来た黄いろな蝶が歩廊の柱の間を飛び廻っているのも、春の日射しを受けた海の色を鮮明に明るくした。帆を拡げかけた帆船が欄干の下を通って行く小ささを見降し、矢代は廊下の意外な高さに初めて気がつくのだった。
「しかし、悲劇にしても東野さんとは少し――取り合せが意外だったな。何かわけがあるんじゃないかな。」
「でも、帰るとなると、お連れをさがすもんじゃありません。」
「そういうことも考えられるが、あの真紀子さんという人は危いんだ。どうも危い。僕は一度オペラで懲りたことがある。」矢代には、平尾男爵と東野とがともに帰って来ることは想像出来ることだったが、真紀子が久慈と別れてひとり東野と同船だということが、やはり頷きがたいことの一つだった。勿論、久慈と真紀子の間が不和になったとの便りは、直接二人からの手紙によらずとも、千鶴子へ来るもので分っていた。しかし、その結果が東野と真紀子とともに帰る事情になったとは、そこに穏かでない空想が混って感じられた。およそ日本を出発の際持ち運んでいった道具や習慣はみな毀れ、人の性格まで一変させてしまう西洋の旅のことだったが、それにしても、表面放埒に見えつつ東野の底にいつも動かぬ慎しみだけは今も変ることはなかろうと思われても、それとてどのような変化があったか、これだけは人の想像の外だった。殊に真紀子の身の上は同情に値いすることが多かった。しかし、いずれにせよ、そういうことを一応空想の中に入れて考えても、外国にいるときの生活から推し測って、そのものの内地にいるときの生活は分り得られないことであった。またそれは彼女のみとは限らず、現に矢代は、あれほど親しかった久慈や東野の内地の生活もいまだに分らぬままに捨ててあった。それも一つは、まだ消え去らぬ西洋の幻覚の仕業とも解せられれば、個人に対する興味などおよそ物の数ではなくなっている、茫漠としたある観念に絶えず憑かれた、他の多くのものにも共通した旅愁ともいうべき旅人の特長だった。まったく事情の違う西洋という抽象の世界に急激に入り込んだものに突発して来る旅の錯乱に、批判の根拠の移動する不決断に伴って当然に起る、自己喪失の病いを植えつけられ、自分を蔑視する苦しさもあきらめに変えてしまう。そのような内地にあり得ぬ不具者となって帰朝して来るものの多い中でも、東野はまだ東洋人の精神を喪っていない方の一人だった。実際、西洋の旅は、東洋人にとっては難かしい狂いの連続といえばいえるものだと、矢代は、欄干に巻き結ばれた船のと纜《ともづな》に凭りかかって考えるのだった。そして、由吉や塩野らの一団の上を見廻しながら、これらの人人も何らかの病根を抱いてそれぞれ苦しんでいる一群れだが、果して存命のうちにその病いは取り去ることが出来るかどうか、疑わしいことだと思った。
「船がここの港のあの灯台のところまで入って来たときに、突然海中へ飛び込んで、自殺した婦人があったということを聞いたが、――それは外国へ行くときに、事務長からコロンボあたりで聞いたんですがね、どうもそのときには、よくその婦人の気持ちが分らなかったが、帰って来てみると、何んとなく僕には分って来ましたね。」
と矢代は真紀子の今の身の上に通じるものもありそうに思えて千鶴子に云った。
「あそこで、まあ――」千鶴子も真紀子の船と灯台との間を眺めつづけていた。
「あたしはあそこを船が入って来るとき、何んだかしらわくわくして嬉しかったけど、これで反対の人もあるのね。そしたら、やはりそうかもしれないわ。」
「僕はシベリヤから満洲里へ入るときだったな。あのときは忘れられない興奮を感じた。生れて初めて清浄無垢な気持ちになったと思ったが、――」
こう云いつつも矢代は、千鶴子の船がこの埠頭へ入って来るとき出迎えもしなかった自分の理由が、何か得手勝手なつまらぬ思惑のように思われて苦痛を覚えて来るのだった。そして、突然右隣りにいた画家の佐佐の方へ身を捻じ向けて訊ねた。
「あなたはどうでしたか、僕は、外国の旅というものは、自分の中にどういう不潔なものや病根があるのか、検出しに歩いているようなものだと思ったんですが、つまり何んというか、隅隅から自分を照し出してみる、まア、レントゲン反応で自分を検出しているみたいなものじゃないか、と感じたんだが。」
「あそこは石みたいな
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