白骨に変っていった。実に迅速な火の変化だった。
「では、どうぞ。」
矢代は皆にお辞儀をして、竹の箸で先ず最初に咽喉仏を摘まんで壺に入れた。続いてそれぞれ一二箸ずつ適度に摘まんでくれたので、その暇に彼も自分の箸を目立たず千鶴子に渡すことが出来た。千鶴子は骨に頭を下げると、袂を片手で絞り上げ、緊張した眼もとで胸の部分の骨を摘まんだ。長い竹箸のかすかに慄えの見えるその先から、壺に落ちる骨のがさッと鳴るのを矢代は聴きとって、これで父だけは二人の結婚を許可されたと初めて思うのだった。
骨壺を白木の箱に納めてから、一行は来たときの座席のまま自動車で帰った。もう夕暮が迫って来ていて、西の方の空がぱッと茜色に明るかった。その明るさの中で、骨箱を包んだ布が大きな傷口のような鮮やかさで彼の眼に沁みついた。彼の膝の上に乗せた骨箱が車の速度で胸に押しつけて来るのを感じ、その変った軽さになった父を思うと、また刻刻その布の白さに漂白されて変ってゆく自分を感じた。
それは薄氷を踏むような薄寒い思いに似た、鋭く不安定なうつろな圧迫だった。
「突然ということは、突然に来たにしても、やはりそうじゃないものだなア。」
と矢代は出し脱けに云ったが、これでは意味をなさぬと知り、またすぐ口を閉じて彼は空を見た。
「ふむ。思いあたることがあるの。」
と塩野は訊ねた。
「あるね。」
父を死なしたのは僕のせいかもしれぬのだ、と、危くそんなに云いかかったのも、やっと耐えて彼は黙りつづけた。そして、父の亡くなった夜、母と二人ぎりでいるとき、「お父さん、喜んで死んだんですもの。あんなに喜んでね。」とそう母の呟いた嬉しそうな表情を思い出し、突然躓きかかった痛みを胸に覚えて彼は思わず両手で骨箱を強く握った。彼は傍の千鶴子の体温を強いて腕に感じようと努めながら、この父に二人は許されたのだと思おうとしてみても、悲しさは夕暮の色とともにますます深まって来るばかりだった。何か車の揺れ進む速度につれ、千鶴子を置き去りにして、自分ひとりぐんぐん先へ先へと突き進んで行くような深まる寂しさだった。
「しかし、今日は来て下すって、たいへん有りがたかったですよ。助かった。」
と矢代は暫くして急にまた二人に云った。胸に押しつけて来る父の骨箱を受けとめてくれているものが、懐中に隠して来た千鶴子の手紙だということも、今は彼には偶然な戯れごととは思えず、悲しさとはまた別に、自然に洩れ出たひと言の心からの礼でもあった。しかし、それは何んとなく悲鳴にも近い礼だった。
夕食が済んでから会葬者たちは皆帰った。勝手元の方の手伝いなども後片付けを済ませて皆引き上げて行くと、家の中は初めてがらんとして、灯明の光りの似合う静な夜になった。矢代は疲れが一時に襲って来て身体を火鉢の傍で崩し、畳の目に視線を落とした。外国から帰った夜も、彼はここにこうして横になると、同じように畳の目を見詰め、身のあるか無きか分らぬような憂愁を感じたことを思い出したが、今もまたそれと似ている疲れだった。が、ふと彼は、自分の旅の総決算が、この突然な「父の死」というものになったのだと思った。父の自分に対する積りに積った心配が、喜びに変った刹那、忽ちこのような崩れとなって顕われた総決算だった。
――彼はそれをそう思いたくなくとも、否定出来がたいあるものが、否応なく彼にそんなに思わせて来るのだった。
「これでやっと、まア、すみました。」
母は矢代の傍へ力なくよたよたした膝で出て来て呟いた。
「ほんとにあの川奈さん、よくやって下すったわ。」
と幸子も母の後から出て来て云った。皆誰も疲れてしまって最後にほッと洩した言葉がそうだった。母は膝の上で丹念に会葬名簿を指で延ばしてから、それを額におし頂いた。
「あたしはこれから長生きをして、お父さんに見たもの皆報らせるんですよ。うんとあたしは、長生きしなくちゃ――」
ぼそぼそと独り言のようにそう呟く母の顔は、このときもどういうものか愉しそうだった。頬はもの腰の弱りとは違い、まだ醒めぬ興奮で色艶もぼっと良かった。
「そうよ。それが一番いいわ。」と幸子も笑いながら母に云った。
運命の描いた絶頂で戯れているような、母子二人の不思議なあきらめの良さに、これはもう、悲しみを越えた軽やかな美しさになっていると、矢代は今さら二人の顔をあらためて見るのだった。しかし、まだ彼自身はあきらめきれず、底冷えのした悲しさに手枕から頭も上らなかった。
幸子は母と暫く会葬者たちの噂をしていてから、その途中で矢代の方を向いて訊ねた。
「兄さん告別式のとき玄関で一寸物を云った方があったでしょう。あの方どなた。若い女の方と一緒にいらした方よ。」
「あれはパリのときの友達だ。」
矢代は今の塩野と千鶴子のことに関しては触れられたくはなかったので、一言答えただけで仰向きに長く伸びた。
「あの女の方は美しい方ね。でも、帯留が何んだか妙だったわ。」
「どんな方?」
と母は訊ねた。
「ほら、兄さん、何んだか前へ動いて云ってた方があったじゃありませんか。モーニングだのにネクタイだけはぱッとハイカラな方よ。その方と御一緒の女のかた。」
幸子は言外にも鋭い眼差で母を見詰めて云ったが、母は、ただ、「はア」と頼りなげな声を洩したのみだった。
「あの二人は火葬場まで行ってくれたんだよ。今度来たときはお礼を忘れないでくれないか。」
仏前の蝋燭の明りが急に大きく揺れ出したので、芯を切りに立つついでに、矢代はそう云うと千鶴子の手紙のことも思い出し、自分の部屋へ入っていった。手紙の内容は別に取り立てたことではなく、侯爵邸の夜会で矢代と別れた後の模様が書いてある後で、今日は母が何んとなく自分に優しくしてくれるので嬉しくて、この手紙を書く気になったとだけあった。しかし、彼は「何んとなく今日は母が優しくしてくれるので」という簡単な文句が、温む水の霞んで来るような好い感じで読み終った。彼は記念のために、先夜読んだ藤原基経に関する史書の頁の部分へその手紙を挟んだ。
「寛平三年正月十三日、藤原基経歿す」
とその頁には忌日もあった、新暦なら季節も丁度今ごろで父の忌日より十日先だと矢代は思い、なお基経のむすめの穏子の方の忌日も調べてみると、これも天暦八年、正月四日となっていた。
これらの忌日の近さには別に意味があるわけでもなかったが、父の最後の夜に云った先祖の人物の名が、思いがけなくこの基経と同じだと思うと、ない意味もあるように矢代には思われてくるのだった。
しかし、とにかくそうしている間も、彼は疲れでもう眼が閉じそうになったので、先日から敷き放しのままの寝床へ入った。そして、すぐ眠ると、また父の夢を起きていたときの続きのように見てばかりいた。死んでいる筈の父が、いつの間にか半身だけ起してあたりを見廻している夢だったが、寝かせても寝かせても、父の姿はいつの間にかまた半身を起していて、じっとどこか分らぬ方を眺めていた。
「お父さんどうしたんです。」
と彼は夢の中で父に訊ねた。
しかし、父はやはり何んの表情もない静かな顔のまま同じところを眺めつづけた。彼も父から手を放してその方を見てみたが、そこには何も見えずただあたりが真暗なばかりだった。そのうち彼は眼が醒めた。醒めてからもまだ暫くは静かなその父の姿が眼から離れなかった。
それは父の一番穏かなときの美しい表情だったが、生前のときの顔ともまた違った品位の具った顔だった。
雲行きの和かになった空に、辛夷の蕾が毛ばだった苞を裂いて揺れ始めた。空を白くぼッと染め春の支度に忙しそうな速さの風も、蕾のあたりは、一面匂い立つように霞んで過ぎた。先端を揃えたものの芽も一斉に揺れ騒いで、一日一日と空は明るく、降る雨もみずみずしい温みで肌を潤すようになった。
矢代は東野が横浜へ着くという報せを千鶴子から受けたのは、このようなころであった。東野はどうしたものか真紀子と一緒で、またこの船には平尾男爵やその子たちも共に乗っているという、塩野からの葉書も届いた。
船の着く日、矢代は正午から横浜まで出かけていった。この日は田辺侯爵邸で会った人たちもそれぞれ出かけていることと予想されたので、また賑やかな日となり帰りも遅くなることだろうと思ったが、船の出迎えは汽車とは違い、海風に吹かれる新鮮な魅力を覚えて朝から矢代は時の近づくのが待ち遠しかった。殊に父が亡くなってからまだ日も浅く、その間どこへも出かけず引籠りがちだったもの寂しさの、身に沈み入って来ているときだったので、一度海気にあたって、旅の日のうつろいに気持ちを転じるのも、元気を取り戻す法かとも思われた。父の四十九日が過ぎれば、長い期間休んでいた会社へも出てみるつもりであったが、このごろ知人から、ある大学の歴史の時間を受け持つことを奨められてもいた折のこととて、その方のことも応じてみる興味も起っていて、このままでは家にいがたい仕事への情熱も日に感じられる際だった。「遣唐使と日本に於ける近代精神の交渉」という評論の一部も、前に矢代は母校の教授に出してあり、幾らか好評を受けている話も聞かされていたから、なお励みも増して来ていたときの突然の父の死だった。この父の死は急速に矢代に生活のことを考えさせる原因となって、今も横浜まで行く電車の中でも、学校で歴史の時間を受け持ちながらする会社勤めについてまた彼は考えるのだった。彼の建築会社は叔父の会社だったから、休養中にも月給の給与はあり、他の社員との人事関係さえ考えて行動しておれば比較的勤めは苦痛なことではなく、むしろ、それが彼の自責となって成績を阻む病癌ともなりがちだった。
横浜の埠頭へ着いたときは、塩野はもう臨海食堂の窓際のテーブルで食事をしながら、画家の佐佐と話をしていた。矢代は塩野を後から肩を打ち、会葬の礼をのべてから彼の傍へ腰を降ろした。
「ここはなかなか眺めは良いね。」
「良いだろう。だから僕は早く来たんだよ。船の着くのは二時だとさ。あの船がそうなんだが、伝染病が出たとかで、昨夜からあそこに碇泊したきりだ。」
塩野の指差す沖を見ると、鉄壁のように並んだ幾つもの船舶の上から、一段高く白い頭を浮き上げた巨船が見えた。起重機や鉄板の間を幾百の鴎がしなやかに飛び流れていた。空が晴れているので波も蒼みを加え、照り返しの明るさに微笑が自然に泛んで来た。食堂は海中に突出した位置のため、船の食堂に出た航海の日の思い出を湧き立たせ、暫くの間も矢代は、もう忘れていた風景を限りなく思い出すのだった。
「ここなら二三時間待つのは愉しみだね。いろいろ君も、思い出すことがあるだろう。」
「もうたまらないんだよ。さきから。」
画家の佐佐も無言だった。つづく波の拡がる末の方から、肌を洗うように襲って来る哀愁に矢代も暫く黙っていた。
「何んだろうね、この妙な寂しさみたいなものは。」
見れば見るほど増して来る小舟の数を見詰めながら、矢代は云った。身動きして笑った佐佐の鋭い横顔に日が射し、鴎の描く白い速度に随って彼も視線を移していくばかりだった。鉛筆に似た、赤い灯台のある岬の先端を廻って入港して来る船、首の金具を鋭く耀かせて疾走する小蒸気、薄鼠色の船体を並べた外国船、浮標の間を巧みにあやつる櫓、荷上げ、荷卸しなど、窓の両側に映った船の景観は、矢代の通って来たどこの海路の港ともよく似ていた。
「皆さんはどなたも、もうお父さんがいらっしゃらないわけだなア。」
と、矢代は、世放れのした海から父の死を感じ、ふと塩野と佐佐との身の上のことも思い出したりした。今目前の景色も、父のいたときに眺めたなら、あるいは感慨も今とは少し違うのではなかろうかと思ったからだった。
「そうだね、君もとうとう僕らの仲間入りしたわけだよ。」と塩野は云って笑った。
「どうも僕は、何んだか少し、勝手がいつもと違うように思えるんだが。」
矢代はまたあたりの風景を眺めてみた。父のいるときには、自分の背後に父からの長い紐がついていて、そこから養分を吸い摂りつつ、それも知らずに迂濶に見
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