、一日のうちにはどこかへ来ている親しむべき何ものかかもしれない、とそんなに思ったりして自分をなだめ、彼は勇気がまた出て来るのだった。
 告別式は二時ごろから始った。矢代は玄関前の喪主の位置に立って来る人人に挨拶した。参列の人人の自動車の黒い胴が、常緑樹に溜った雪の中から隠見した。焼香のつづく間も廂から落ちる雪解けの雫の音が絶えずしていて、庭の雪に照り返った日光をきつく受け、出て行く人人の面が誰のも明るく門から左右に別れていった。
 焼香の潮どきが一段落過ぎたと思われるころ、思いがけなく千鶴子が塩野と一緒に這入って来た。この日の千鶴子は珍らしく紋服で、白い襟もとの重ねがいつもより大人びて美しかった。帯の結びもすらりと伸びた姿勢をよく纏め、矢代は暫く別人を見るような動悸を感じて、進んで来る千鶴子を眺めていた。塩野は応対に馴れた眼で、あたりの人人を見ながらゆとりのある足つきだったが、その少し後から俯向いて来る千鶴子の裾の翻る白さが、身綺麗な貞淑さを感じさせ、見ている矢代の気持ちも冴え緊った。
 二人は矢代たちの前まで来ると立ち停った。そして、塩野は彼に黙って礼をすると、千鶴子は矢代の母に礼をしてから次ぎに意味もなく自然に彼と眼が合った。
「どうも有りがとう。」
 と矢代は少し前に動き低く二人に云った。幸子が眼ざとく彼の顔を窺うのを矢代は感じたが、母はまだ千鶴子を塩野の夫人と思う様子で鄭重に黙礼を返して、また続く次の客に眼を移していくのだった。
 塩野たちが焼香を済ませて出て来たとき、矢代は暫く休んでいって貰いたいと云って、その場はまだ喪主の位置を崩さず、門まで一応出てゆく彼女の後姿を見守りながら、ともすると葬式と結婚とが一時に襲って来たような混雑した気持ちを感じ、むしろ、今日はこのまま千鶴子に帰っていって貰った方が、しめやかな落ちつきを得たかもしれないと後悔さえするのだった。しかし、まだ向うの両親が二人の結婚を許さないとしても、千鶴子にだけ今も変らず結婚の意志があるものなら、ひそかに自分の父の骨だけなりと拾って貰いたい心も強く動いた。
 告別式が済むともうゆっくりしている暇もなく霊柩車が来た。
「さア、どうぞ。お棺に釘を打ちますから。」
 葬儀屋の若者が家族のものらを急がせて云った。棺を埋めた花の中で微笑している父の顔の傍へ、幸子はより縋るようにして泣いた。母も泣いた。若者は白木の蓋で差し覗く顔を追い払うように閉め出して金槌で蓋に釘を打ちつけた。間もなく、玄関から門の方へ運ばれていく棺に日の射しているのを眺めながら、矢代は去るもののこの遽しさだけはもう誰のものでもないと思った。
「じゃ、これから火葬場へ行かねばなりませんから。今日はこれで――」
 千鶴子に父の骨を拾って貰いたいと思っていたことも、さすがにそれだけは云いかねて、矢代は自動車に乗るときにそう塩野と千鶴子に待たせた詫びを云った。
「実に突然だね。お父さん御病気だったの。」と塩野は訊ねた。
「いや、君と侯爵邸で別れた次の日だ。脳溢血でね。医者はこの雪がいけなかったというのだが――」
 道の片蔭にまだ消え残っている雪を見降し、矢代は、いや、雪だけではない、柄になく自分が父を喜ばせた結果がこの死を導いた主な原因だと思えて疑えなかった。
 それも塩野の祝賀会へ出席した夜に起った、ある偶然な自分の喜びが父に伝ったことであった。しかも、塩野の祝賀会へ最初に矢代を誘ったものは、他ならぬ千鶴子だった。
「邪魔にならないようなら僕らお骨拾わせて貰っていいんだが、自動車空いてるかしら。」
 塩野は千鶴子の心中を察したものか、あるいは千鶴子から塩野に云い出してあったものか、そこは矢代にも分らなかったが、しかし、気を利かせてそう塩野の云ってくれたことは、何よりこのときの矢代には嬉しく、思わず顔にまでそれが顕われた。
「しかし、それは気の毒だなア。」
「自動車の席、一寸都合つけてくれないかね。」
 矢代は塩野へ感謝するしるしに軽く頭を下げてから、「どうぞ、どこへでも乗ってくれ給え。」と云って、自動車の傍へ二人を連れて歩みよった。母と妹が家に残っていていない今の場合、矢代も親戚たちのことは気にしていられず、喪主の立場から選択して、二人を自動車へ乗せると、このことが何より今日父に報告すべき大切な事実のように思われて来るのであった。
「でも、後の方たち乗れるかしら。わたしたちこんなところへ乗ったりして。」
 と千鶴子はまだ躊躇の様子で、動かぬ霊柩車の飾りの中を眺めて云った。委員長の川奈という青年は、親戚たちに振りあてる車の指図をし終えてから、最後に矢代の車へ乗り込んで来たが、意外な二人の客を見ると、一寸不審しそうな表情で会釈をしたまま黙っていた。
「やっとお蔭でこれですみました。」と矢代は委員長に礼を云った。
「いやア、どうも突然なものですからね、いろいろ行き届かぬことがありまして、失礼しました。」と川奈も淡白に笑い、窓ガラスに映った自分の髪の形を手で直した。
 霊柩車を先頭に間もなく三台の車がつづいて行った。行く途上も邪魔物に遮られて車は離れたり見えたりした。雑沓した街の中で再び父の棺を見あてたときは、矢代は、まだ父がこの世にいたように思われてほッと気易さを感じ、市中無事でいてくれた暫くの会う間を、まだこんなときにも喜ぶのだった。
 火葬場に同じような数台の霊柩車が停っていた。それらは街から蒐められて来たように無造作により固り、そのあたりだけ人が誰もいなかった。見事な紅梅の老木が花をつけて咲き誇っている下で、柩同士ひそひそ何ごとか囁き交しているような風情のその中へ、また矢代の父の柩も首を混えた。
 矢代たちは当てられた茶屋へ入って休むことにした。もうここでは先へ急ぐ何ごともなく終点の上で茶を飲む気楽さがあって、出る談も至極のどかなことばかりだった。矢代も皆に寛いで貰いたく沈まぬように心掛けて、自然と浮いた談を選ぶ風にした。
「前には、こういうところで暮す人も、よくいるものだと思ったもんだが、しかし、自分に直接の用が出来て見ると、なかなかここも結構なところだと思い直したね。現金なもんだ。」
 矢代が傍の塩野にそう云うのに、皆は声を上げて揃って笑った。
「何んでも焼くんだからな、それや、ここほど清潔なところはないわけだ。」と委員長の川奈も云って、さも感慨ありげにあたりを眺め直した。
 一段高くなっているこの部屋は日光室のように明るく、矢代は連夜の睡眠の不足と疲れで自然と睡けも出ようとした。廂から落ちる雪解けの雫の音を聞きつつ、金色の柩車を下に蒐めた紅梅の群を眺めていると、その一角だけ近よりがたい別世界の美しさを見る思いで、彼は暫く父の死を忘れ、ほうけたようにぼんやりするのだった。
 千鶴子はさきから塩野の横にかしこまって腰かけたまま黙っていた。矢代は親戚たちにまだ二人を紹介しないのも、千鶴子を塩野の夫人と思っているらしい一同のものに、今さら別な混乱した推測を与えたくはなかったからだったが、父の死を中心に蒐ったこの中では、二人だけ血のかからぬ他人であった。その悲しさの薄さはやむを得ないとしても、長い休息のその間を愉しそうにも出来ぬ二人の忍耐を思うと、喪主の疲れの鈍感さで、矢代もようやく二人が気の毒になって来た。そして、
「どうも今日は、すみませんね。」
 と、彼は突然千鶴子に対って云い遅れた礼をのべるのだった。
「いえ、あたしこそ――」
 千鶴子が一寸彼を見て俯向く風情に小声で云うのを、やはり、自分の悲しみを別け持つことに努めていてくれたものの一言だと、彼はたしかな喜びを覚え、懐中に潜めたまままだ封も切らぬ手紙のこともちらりと頭に泛べたりした。
 火葬の準備の出来た報せが来て一同は茶店を立った。竈場の周囲の常緑樹の葉の色が、ここのは特別に際立って鮮やかだった。柩を降ろした空の霊柩車が、日蔭に落ちている氷を踏み割って去っていった。その後からまた新しいのが入って来たりして、幾つもある同形の柩の中から、矢代は父のを見わけてその前に立つと、抱きかかえたときの重量が急に目前の閑寂な白い方形から射し返して、ずしりと引き込まれたように切なく胸が詰って来た。聞もなく、竈の観音開きになった鉄の戸が左右に開いて、そして、父の柩はそのまま狭い口へ詰め込まれた。ぴたりとまた戸が閉って鍵がかかったとき、天空高く放つ砲弾の装填を終えたように、
「どなたです。この鍵。」
 と竈場男は皆の方に鍵を出して訊ねた。そして、手を出した矢代に鍵を渡してから、すぐ火を入れに裏へ廻っていった。ここでもまた、底で動くものの総ては単調を極めたものだった。
 一同は再び広場へ散っていって、寛ぎを取り戻しに思い思いの方へ歩いた。それは各自がいつか前に身に覚えのある悲しみを追想しているようでもあれば、また俄に感じた自分の生を噛みしめ直して味わい愉しんでいるようにも見え、矢代もひとり柘植の緑の葉に見入った。小粒な固い葉の中から小さい新芽の出ている柔かさが、彼の視線を放さず美しかった。
「お父さんお幾つでしたの。」
 暫くして、千鶴子は彼の傍へ来て訊ねた。
「七十一でした。」と彼は答えた。
「まア、そう、今日お写真を拝んで、あたしもっと早く、お目にかかっとけば良かったと思いましたわ。」
「僕も残念なことをしたと思いましたね。父には一度会っといて貰いたかったんだが、――そうそう、今日お手紙いただいて、どうもありがとう。まだ急がしくって、拝見してないのですよ。」と矢代は柘植の新芽から眼を放して千鶴子を見た。
「こんなときさし上げて、いけなかったんじゃないかと心配だったの。あれもう御覧にならないで、破っといていただけませんかしら。」
 摘み取った柘植の葉を掌の上に乗せ、極まり悪げに身を左右に廻して、そういう千鶴子を矢代は何んとなく見て笑った。
「どうしてですか。」
「でも、何んだか変だわ。あなたのお悲しみのときなのに、あんなこと書いたりして。」
 どんなことかまだ彼には分らなかったが、しかし、どこまで落ち込んで行ったかもしれぬ今日の悲しみの途中で、それを、ふと支えてくれたのは、争われず千鶴子の手紙だったと彼は思った。それも、やがてはそこから再び転がり落ちてゆく自分の悲しみだと思えても、今はまだそれを支えてくれる力が手紙にはあった。
 そのうちに竈場の屋根の煙突から煙が昇り始めた。矢代の体も火が入ったように熱く感じた。
「お父さん死んだんだと、どうしても思えないわ。こんなに温いんですもの。」
 と幸子が云って、父を棺へ入れようとしなかったときの、あの張りのある反抗を彼は思い出すと、いま昇っている煙など妹に見せずにいて良かったと彼は思った。
 煙はだんだん濃くなって来た。すると、矢代の父の横の竈の観音開きになった長い合せ目から、縦に煙が滲み出て来て、天井を伝い広場の方へ乱れかかった。それは見ている間に猛烈な勢いの黒煙に変って来ると、苦しみ怒るもの狂おしい姿に見え、とめどもない凄じい黒さであたり一面に噴き靡いた。建物の周囲に並んでいる常緑樹類の中へも吹き籠った煙は、重なる葉の隙間からも滲み昇り、小枝を絶えず震わせつづけた。
「あの戸は悪くなってるんだね。」と誰かが気の抜けたことを云った。そんな定ったことよりも、皆の考えていたのは他の微妙なことであったから、今さら答えるものは誰もなかった。
 常緑樹の中に混っていた白い梅の花が、さも息苦しげに蕚から煙を吐いていた。
 竈場の者さえ扉の合せ目を直しに行くものもなく、捨てられたままだったが、やがて出るだけ出てしまったと見え、煙も噴き止んだ。その後、皆のものは今度は建物の竈へ廻された。煙で暴れた竈の組が骨を壺[#「壺」は底本では「壼」]に入れ納めたばかりのところだったので、まだ余燼のほとぼりでむっと顔が熱かった。そこへ手術台のような鉄板が引き出され、その上に父の骨がほのかな曙色を裡に湛えた燠の姿で並んで来た。彼はちょっと手で摘まみたくなったほど、それは燃え尽きる最後の透明な焔の美しさだったが、見るまにそれも素の入った
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