いてもう彼は眠れなかった。母は父の鼾声の高くなったこのごろ、眼が覚め易く別室で眠る習慣だったから、母にはまだ父の呻きも聞えていないかもしれないと思い、彼は起きて父の部屋の外の電気を点け、襖を細目に開けてみた。呻きらしいものもそのときはもう聞えなかったが、嗅ぎ覚えのない悪臭が部屋に籠っていたので、なお少し襖を開けて光りを中に入れてみた。すると、蒲団から乗り出た父の白髪が、あたりいちめんに流れている茶褐色の液体の中に俯向いたままじっとしていた。矢代はただ事ではない父の容体を感じ、
「お父さん、お父さん。」
 と耳もとでそう二言つづけて呼んでみた。しかし、色のない耳朶の裏が寂しく見えるだけで、もう父は返事をしなかった。彼は全身に滝の落ちかかって来るような重い戦慄を覚えた。そして、
「お父さん。」
 とまた大きく呼んだが、やはり同じだった。液は口から吐いたものと見えて畳の上に多量流れていた。素人目にも脳溢血の疑い確実だったので、彼は父の体を動かさないようにしてすぐ母を呼びに行こうと思って父の手頸を執ってみると、もう脈も響かず瞳孔も開いていた。万事駄目だとだけ直覚され、彼は膝をついたままそこから動けなかった。小机の上の置時計の針が丁度二時を指していた。父が寝室へ立っていったさい、襖に一寸手をかけた後姿を眼にしたのが、最後の父の姿だった。それまでどちらもその別れさえ知らずにいたのだと、ちらっと瞬間思ったばかりでぼんやり彼は端坐をつづけていた。
「どうしたんです。」
 母が暫くして入って来た。すると、急に何も云わなくなった母は何ぜだか勝手の方へまた戻った。矢代は父の亡骸から離れると、医者の来るまで父を動かさない様に母に頼み、云うべきことは今はそれだけにして外套を着て外へ出ていった。雪は路に降り積っていた。彼は歩きながらも、一大事が起っているのに何か間の抜けた気持ちで、身体の中に一つ大きな空洞の生じたのを感じ、まだ見たこともない冷え冷えとしたものが、徐徐にそこを満している緊張を覚えるばかりだった。
 足駄の歯の間に雪が溜り込んで膨れ、彼は片膝をついて一寸倒れた。急いだとてもう遅いと分っていてもやはり彼は急いで歩いた。すると、母が父の鼾の高さを嫌って別室で眠っていた習慣が、俄に腹立たしくなって来た。が、一人今ごろ周章《うろた》えている母の姿を思うとそれも気の毒になって来るのだった。
 二時を過ぎているのに病院の玄関にはまだ灯が点いていて、着替えてもいない医者がすぐ出て来た。そして、矢代の話す父の容態を良く聞きもしないうちに、
「今さきも同じ患者さんがあって、帰って来たばかりですよ。お天気が激変しましたからね。」
 と云うとまた医務室へ這入った。雪で自動車の動かぬ弁解も少しあったが、それでも医者は彼と一緒に雪の中を歩いて来てくれた。
 家では父の吐物がもう片付けられ、蒲団から乗り出した父の頭の下に別の蒲団も継ぎ足して敷いてあった。仏壇や神棚に灯明も上げられた明るく変った家の中で、母は覚悟あるらしいひき緊った顔に戻っていた。取り替えた着物もさっぱりとしていつもより母は若く美しかった。
 医者は矢代より先に玄関を上ると無造作に障子を開け、襖を開けて父の寝ている部屋を直感しているらしくどしどしと奥へ通った。そして、矢代が家を出るときと同じ様子で倒れている父の襟を大きく開き聴診器を胸にあてた。厚く逞しい父の胸部には起伏もなく色も早や幾らか変っていた。診察を終ってから、医者は傍に坐っている矢代と母の方に対い、
「御愁傷なことでございます。」
 と一言低く云った。医者の帰っていったその後から、矢代も何んとなくまた家を出た。
 門灯の光りのとどかぬ雪の上には、矢代と医者と二人の通った跡だけ窪んで見えた。その窪みの中へ足を入れて歩く間も、矢代はさまざまなことが頭に泛んでまた消えた。
 檜葉に積った雪がトンビの羽根に擦れこぼれていった。彼は雪の中を見廻し、あらためて父の死が本当のことかどうか験してみたくなったほど、どこか胸の中心が痺れ、そこだけ脱け落ちたようにしんと静かだった。
 しかし、いったい、これが死だろうか。
 あッという間にどこから躍り出て来たものか、とにかく、あたりの闇の中にそれがいたのだ。彼は暫く手応えのない問いをつづけつつ、医者と並んで歩いているうちに突然慄えが来て止まらなくなると、そこで医者と別れてひとり引き返した。いつかは一度来る恐るべきことにしても、しかし、それが今来たのだ。何か切迫したものがいよいよ虎口を開けて身近に詰めよっているのを彼は感じ、それと闘う準備に寸分隙も赦さぬ注意力で、心の鞘を払い落とし、抜き身をさげたような待機の心構えも自然と出てくるのだった。
 しかし、もう父はいないのだ。とまた彼は思った。時間がどこかで急に脱れ、勢いこんで自分の中へ流れ崩れて来るかと思われる。何ごとか壮大なものの傾き襲ってくる激しさも覚えて彼は空を仰いだ。そして、必ず昇天しているにちがいない父の魂の行方に対して祈った。顔に降りかかって来る雪の冷たさが、天に向う悲しみのように巻きのぼっては、また心に沁み落ちて来た。
「今夜はお天気が激変しましたからね。」
 歩きながら、そう云った医者の言葉をふと彼は思い出した。がまた、亡くなる前に久木男爵と会ったことを父に報らせて喜ばせたことも、争われず刺戟を父の血管に与えた一条件になっているとも思われた。彼は家の中へ這入ってから、火鉢に火を起している母の横へ坐り、何かするべきことを考えたが、特に何もするべきことも無いようだった。
「お父さんを寝せ変えましょうかね。」
 と、彼は母を驚かせぬように注意して云った。
「そうそう。」
 母と彼とは父の寝室へ入った。そして、牀の前へ新しく敷き変えた蒲団に、正しい姿勢で父を寝かせようとしたが、もう父の身体は板のようにぴんと足を張り、吊り伸びてこちこち鳴りそうに固かった。彼は父の胴の下へ手を廻して跼み込むと、顎が腹部へ触れたその途端、急に悲しさが込み上げて来て顔を父の腹に伏せたまま声を上げた。
「立派な顔になってらっしゃること。」
 母は微笑を含んでいる父の高い額を撫でながら一言いった。すると、彼はまた急に悲しさが引いてゆくのを覚え、腕に力を籠めて父を抱き上げた。
「でも、喜んで死なれたんだから、まだ良かったですよ。ほんとにあんなに喜んでね――」
 父を正座へ寝かせてからそう母は独り言をいって、子の矢代とは反対にどこか嬉しそうな表情だった。見たところ、少しも悲しそうでない母が矢代には分らなく、また物足りなかった。彼は火鉢を運んで来て、このまま父といつまでもこうしていたいと思った。一夜の看病も出来ずにしまった死の速さに、父の身体がどんなに変ってゆこうとも、激しくなお父のために疲れたかった。母は小箪笥から白い手巾を出して来て父の顔の上に拡げた。気のせいか、そのときから俄に母の腰が少し曲ったように見えた。そして、その老い込んだような姿でのろのろ部屋を出ていくのを見ると、矢代は、再び悲しさが込み上げて声を止めるのに困った。彼は自分の腕を横に噛み暫く声を殺してぶるぶる慄えつづけた。

 朝になってから矢代は少し眠った。そして、正午ごろ眼を覚したとき、妹の幸子の声がもう勝手の方から聞えて来た。矢代は叔母夫婦や従兄たちのより集っている奥の間へ出ていって、葬の日取りを皆で定めた。母は一日でも永く父を傍に置きたい口振りになろうとするのを、矢代は親戚たちの迷惑なことも考え、日を繰り早めてみるのだった。母も別に異議を挟まず、素直に彼の意見に従ったので、葬式は二日後になった。その後、婦人らの手で経帷子が忙しく縫われ始めた。
 夜になり棺が家へ届いてから皆で父の湯灌をした。素足に草履を穿き襷をかけた彼と、母と妹と、それに従弟も加わった皆の同じ様子は、雪の夜中どこかへ仇討に出かけて行くような勇ましい装束だった。それも緊張した表情を泛べているとはいえ、見馴れぬ異様さに、互に顔を見合せて一寸笑った。そして、それぞれ父の身体をアルコールで拭き浄めていくのだった。母と幸子は頭と胸を拭き矢代は胴と足へ廻った。
 父の身体にはもう薄紫の斑点が泛んでいて、筋肉を圧えてみる指先に弾力が感じられず、たしかにこれはも早や父ではない物体に変っていると、矢代は思った。
 拭き終ってから、皆で父を吊り上げて棺へ納めようとしたとき、背中が汗ばんだ温くもりで湿っているのに、死臭が幽かに鼻を打った。すると、胸の下へ手を入れていた幸子が突然父から手を放した。
「お父さんまだ温かいわ。もう一度お医者さんに診ていただこうじやありませんか。あたし死んだんだと、どうしても思えないわ。」
 強くそういう幸子に母も戸迷ったらしく、同様に手を放すと、
「そうだね。」と云ってぼんやりした。一瞬、争われぬ父の死に拘らず、誰も疑いを起した沈黙がつづいた。
「ね、そうしましようよ。こんなに温いの、死んでる筈ないじゃありませんか。」
 とまた幸子は片膝をついたまま皆の顔を見廻した。
「それや駄目だよ。さア入れよう。」と矢代はためらう皆を促して云った。
「だって、こんなに温いんですもの。あたし、このまま入れるのいやだわ。」
「いやもう間違いない。」
 矢代は介意わず父を抱き上げたので、また一同のものも彼に手伝って父を棺へ納めた。枕も紙製のが棺にあって、檜の白木が造花や経帷子の中から強く匂って来た。奥の牀へ横に長く納った棺側に大きな花環も並ぶと、それで次第に葬の形が整っていくのだった。見よ人これにて定まれり、と厳然と云い放っている棺であった。それが父から矢代の教った最後の訓戒であった。

 降りやんだ雪の中で、矢代の家の中はめまぐるしい多忙さだった。地方から出て来た親戚や父の友人、その他会社関係の悔み客との応接などと彼は眠る暇もなかったが、突然の父の死に見舞われた最初の打撃のためか、彼は、忙しさの中でも虚ろなものを抱きかかえて坐っているような思いがつづいた。殊に母が一層そうだった、妹の幸子は病後のことでもあったから、直接忙しさの中へ立ちよらせぬことにしていたとはいえ、それでも何にかにと母に代ってよく立ち働いた。
 葬儀は親戚の敏腕な若い銀行員を委員長に頼んであったので、万事矢代の知らぬ間に順調に進んでいった。勿論、式は父の宗旨の真宗にすることにしたが、彼は自分のときならこれも神式にしたいとひそかに思った。
「わたしはお宅の旦那と、門口でお昼にお目にかかって立噺したばかりですよ。それにその夜亡くなられたとは、もうびっくりして、世の中が恐ろしくなりました。」
 勝手口で母にそう云っている酒屋の主人の話も聞えるままに、矢代は告別式へ出る袴をひとり部屋で穿いていた。そこへ女中が悔状の郵便物を沢山揃えて小机の上に置いていった中に、一通千鶴子から来た見覚えの封筒が眼についた。彼はすぐそれを抜き出して懐中に了い込んだ。千鶴子にはまだ父の死を報らせてなかったのに、偶然にも手紙が告別式の前に届いて来たことは、内容はともかく、ともに彼女も父の葬儀に列ってくれる意志のように思われた。紋服の出入の激しい渦の中でも、矢代は何んとなく懐中に一点の温もりを感じ、消え残っている庭の雪を眺めて立っていた。もし父の死が今より遅く来たものなら、あるいは千鶴子も、自分の家の中心になって立ち働かねばいられぬときだった。それも、彼女のために先日買って届いて来たばかりのソファが、応接室で人知れず客を坐らせているだけの、今の勤めであった。
 彼には父だけは自慢で千鶴子にひと眼見て貰って置きたいと思った。
 間もなく寺から来た僧侶の誦経が始ったので、矢代は家の者や親戚たちと一緒に棺前に並んだ。誦経の声は渋い良い声だった。意味がよく分らなかったが、真宗の教祖の親鸞の思想は、前から彼は好きだった。
 よく晴れた暖い日で、いつも来る鶯がこの日も庭に来ていた。父のいた平安な日が今日も外には来ていたのだと、ふと彼は思った。
 それにも拘らず、起ることは起っている――そう思うと、その起って来た死も特別なことではなく
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