辞めて出て来たその隣りの青年に対い、
「君も西洋へ行くなら、自分の儲けた金で行くんだね。」
と軽く冗談を云った。誰が見てもこの青年は金持の息子に見えていたので、云う方もただ気軽に云ったのだのに、その一口に忽ち青年の顔が蒼ざめたかと思うと、皆が驚くような大声で、
「馬鹿ッ。自分で金を儲けずに誰が来る。」
と呶鳴りつけた。
弁護士としてある事件を片付け二万円を手にし、その働きで来ている青年のことを矢代も知っていたが、しかし、それを知らずにふと口にした商務官の一言が、こんなに人を怒らしたのも、理由があった。神戸を船で発つまでは、船客たちの誰も、船に乗り得られた費用の出所が自力か否かを問わず、外国へ行くことに変りのない筈と乗り込む常のことも、さて船が進み始めてみると、まったく意外なことに、各自の自力で来ているか否かが、いつか暗黙のうちに、乗客の価値決定の標準に自らなっているものだった。随って矢代も、親から貰った金銭で旅人となり得た自分に絶えず弱点を感じ、苛責を覚えていた際だったので、このとき青年に洩した商務官の一言ほど、矢代の胸を激しく衝いた言はなかった。それはまた航海の途中のみとは限らず、外国を歩く旅路のどこまでも従き纏って来る無念さである。
「まア、そう怒るな。自分で儲けた金なら、許すとしよう。」
と、商務官は即座に大きく出て笑ってのけたので、無事船中のその場は丸く鎮ったが、弁明の余地のない矢代に、却って痛さは一層響き残って消えなかった。
今も彼は二畝もつづけて鍬を打ち降ろしていると、汗が額から頬を伝い、土の上に滴り落ちた。それもわが身の罪の流れ滴るのを眼にするように感じ、腕が痺れて来ても矢代は止めたくはなかった。久しく運動から遠ざかっていたので呼吸も切れ易かった。腰も懶るくなり、咽喉もとの唾も涸れて来た。しかし、そうしている時にも流れる汗が激しくなって来ると、彼は何か見栄に似たある虚栄心さえ次第に覚えて来るのだった。矢代は鍬の柄に肱をつき畑を見廻した。軽く跳び弾んで来る快感の中から、こういう見栄の混じて来るのはこれはどうしたことかと、やがて憂鬱になりのろのろと鍬を上げては降ろした。正義感もそれを感じれば感じるほど不正を覚えて来る畑打ちだった。
矢代はこんな難しいものを畑から得ようとは思わなかったので、疲れのまま小川の縁の枯草の中で休んだ。日に解け湿った土から蕗が勁い芽を出し、傍の小石もその芽に押し動かされた様子が見えた。枯草の間を流れる水の面に温かそうな霞が漂い、冬もようやく去ろうとしている気配があたりの草叢から感じられた。
この日の労働は彼の身に応えて全身に疲れが廻ったが、外国から帰って以来、矢代は初めて心に落ちつきを得たように思われた。夕食前風呂に這入ったときも、体を洗うのも大儀に感じたほどだったが、気持ちは常になく晴やかだった。
「今日みたいな気持ちの良い日は、僕は初めてだなア。」
と風呂から出たとき、身体を拭き拭き矢代は母に云った。
「たまに働くとそういうものですよ。」食事の用意をしている母は笑った。
「土の匂いがいいんですね。」
そう云いつつも、やはりそれは近ごろ初めてしてみた正直な働きのためだと矢代は思った。自然に対い恥じざる行いに少しばかり接近したのだと思ってそっと黙り、彼は新しい襯衣に着替えて帯を強く締めてみた。夜になってから気温が急に下り雪模様の冷えた空気が室内にも襲って来た。食事のときは、この夜は珍しく父の部屋で揃いの高膳だった。父は晩酌を矢代に奨め、
「どうだい、いっぱい。」
と酌をしてくれた。父と一緒のときは矢代は自分の年も忘れ、十歳ほどの少年のような気持ちになり、いまだに成長した覚えのないのが不思議だったが、それが父から酌を享けると、突然に身丈の伸びた感じで気羞しく盃を出すのだった。いつもは父とあまり話さぬ癖の彼も、そうして三四杯父から続けられるにつれ、疲れに酒が加わって、何かと饒舌り出しそうな気色も動いて来たりした。
「久木さんはもうお幾つだ。」と父は自分も子に注がれたのを享けて訊ねた。
今日の父の上機嫌は、母の話したことに原因しているのも矢代には分っていたが、どういうものか久木男爵のことだけは、直接父に話す気がまだ起って来なかった。
「赤い襯衣を着る年だとか、云ってられたようでしたが。」
男爵の不在を好都合に迂濶に失礼な言葉使いをしては、父に叱られそうで彼も幾らか固くなって答えた。
「ふむ。」
父は何か自分の年齢や、その他久木家の先代の年齢との開きなど考える風に暫く黙った。
「お父さんが久木さんのところに勤めていられるころは、主にどういうことをしてられたのです。」
「あのころはもうトンネルの設計をしていたよ。難工事で人が失敗すると、いつもその後をわしがやらされたもんだな。これでわしも、日本のトンネルの難工事というのは、随分仕上げて来ているんだぞ。福島から会津へぬけるトンネルがあるだろう。あれは難工事で、わしも初めてぶつかったものだから、あのころは夜もろくろく眠れなかった。それから難しかったのは、碓氷峠だ。あれは難しかった。その次は大津から山科へぬける疏水で、その次は宇治川の水電だったね。」
父にも酒が少し廻って来たと見え、子の前でむかしを偲ぶ自慢もそろそろ出始めた。矢代はこのときを機会に父の自慢談をなおよく聞き出して置きたく思い、父の盃に酒を忘れずに注ぐのだった。
「久木さんとこの会社には、いつごろまででしたか。」
「碓氷トンネルを仕上げるまであそこで御厄介になった。どうもわしは短気者だったから、命令通りにしては仕事の進行は危いと分ったので、反対をしたのだ。ところが、会社の方はわしの云うのを取り上げてくれなかったものだから、とうとうトンネルは潰れた。それでまたわしが命ぜられて仕上げたのだが、それと一緒に会社も止めさせて貰った。」
固そうな白い鬚に父の表情は隠されていたが、直接に見たこともない父の才腕も、微笑を含んだ眼もとに冴え光るものの走るのを眺め、あれが父の鍛錬の顕れであろうかと矢代には思われるばかりだった。
「一番の御自慢はどこですかね。やはり碓氷峠でしたか。」
「そうだなア。自慢の出来るのは碓氷峠と逢坂山だ。今の逢坂山はあれは誰がしても失敗したもんだが、とうとう最後にわしが仕上げた。今でも東海道線であそこを通るときは妙なものだ。眠っていてもぱッと眼が醒めるよ。自分の作ったものの腹の中へ転がり込むんだからな。東山の土が柔かくって、あんな柔かい土もないもんだ。」
唇の色だけまだ赤く美しい、父の顔を見上げるときどき、ふと矢代には先祖の歴史と父の仕事との関連が泛んだり消えたりした。そして、今のうちに自分の知らぬ部分の家の歴史を聞いても置きたく思ったが、父の眼には、子とおよそ違う身を打ちつけて来た重なる山岳の重量が、過去の幻影となって襲って来ているにちがいない。実に健康な若若しい日の父の姿も、羨ましくその厚い両肩から感じられた。彼は千鶴子と自分との間にもし子供が生れたら何をその子供らがするものだろうかと、まだ父には告げぬ自分の嫁のことなども考えられたりした。
「お父さんの苦労がそう僕に分っちゃ、うっかり汽車にも乗れなくなりますね。困ったことだ。」と矢代は母を省みて笑った。
「お前は今日は、百姓したそうだね。」と突然父は訊ねた。
「どうも先祖のしたことも知らずにいちゃ、罰があたると思ったもんですから、一寸真似をしただけですよ。しかし、あれは気持ちの良いもんですね。こんなことも忘れていて、何を今まで考えていたんだろうと、今日は少少後悔しましたよ。それはそうと、僕の家の一番古い先祖の名は、分ってる範囲ではどういうところですか。」
「藤原基経だ。わしの親父は、子供のころそう云うていつも聞かしてくれたが、嘘か本当か知らないよ。」
父の郷里から発行されている郡誌を読み、そこに書かれたこと以外にまだ家の歴史を知らなかった矢代には、基経というその名は初めて聞くことだったので、意外な無作法をしていたように改った気持ちになるのだった。
「藤原基経というと、時平の父のあの基経のことですか。最初の関白の。」
「それはどうだか分らないね。しかし、名前だけはそうだった。」と父はさも興味なさそうな声で答えた。
しかし、矢代は二度と訊くこともない父の一言の答えのように思われなお胸にその名を呟いた。恐らく祖父も曾祖父も今自分が父からこうして無造作に話されたと同様、いつか機嫌の良いこんなある夜に聞かされたものだろう。そして、基経の名だけは、自分の後から来るものにも、家の続く限り記憶に繰り返され蘇ってゆく代りに、やがて、自分や父の名は忘れ去られるにちがいない。しかし、その中でも、父の残した逢坂山のトンネルだけは、以後これで、基経の名と共に子孫の頭の中から消え去ることはなかろうと思った。
書院の外の梅の枝に軽く雪の鳴るのが聞えた。母は台所から銚子を持って来たときやはり雪だと二人に報らせた。
「わしの危かったときは、宇治川の水電だったな。あれを作るときには東洋一だというので元気も大いに出たが、そのときも反対派の技師とわしは喧嘩をして、じゃ、やるが良かろうと向うのままにしてみたら、とうとうそこから崩れた。そこで大ぶ生埋めにされたが、崩れはわしの足もとまで来て止った代りに、成田のお札が真っ二つに割れていたね。はッはッはッ。」
父一代のほこりか顔は赧く熟し機嫌も一層良さそうだった。しかし、矢代は父から基経の名を聞いたときから、いつとは識れず暗鬱な情緒を次第に強く感じて来ていた。それも基経の子の時平が矢代のもっとも好きな菅原道真を太宰府に流した暗さだったが、些細なこととはいえ、矢代は幼少のころから、お前は天神さんの御命日に生れたのだと母から聞かされていたために、特に道真のことは矢代の気にかかった。母にせがみ梅を庭に他の樹より多く植えて貰ったのも、一つは道真の好きな梅が伝染ったからでもある。今、時平の父の名とともに泛ぶ庭の梅に、音たてて降る雪の冷たさも、彼の記憶のうすら寒さとなり、一抹の憂鬱さを沁み込ませて来るのだった。
「しかし、まさか先祖はあの時平の父の基経ではないだろう。」
矢代は父が寝てしまってからも、自分の書斎でひとり呟き、基経、時平あたりの歴史書を急に開いてみたりした。すると関白基経の生んだ穏子から二人の天皇までお生れになっているのが分り、これは有り難いことだと、俄に彼は清水を含んだ思いに立ち返って、暗怪な時平に代り、その妹の穏子の方の身の上を想像しながら、夜更けまで藤原北家の流れの行方を尋ねていった。しかし、父の云った基経は、まさか穏子の方のあの親ではないだろうと、今度は前とは逆で、寂しく西海の波のまにまに漂っていった田舎藤氏の末を、長い旅の愁いのように崩れた郷里の城砦を渡る松風とともに眺めるのだった。
彼は窓を開け雪の深さを覗いた。灯に射し照された梅は、明暗鮮やかな勁さで枝を雪中に差し交していた。その冴え静まった群落した枝を掠め、大粒の雪が夜ふけの物音のように降りつづけた。踊り狂う雪足の紊れながらも、幽かに梅の匂いも漂っている雪明りである。彼は日本の歴史の味わいに似たものをふと感じ、帰って来た郷のりりしい清爽さを身に沁み覚えて戸を閉めだ。彼は父の話した基経が何者であろうとももう同じことだと思った。
寝床の中へ這入ってから、彼は間もなく自分の誕生日の来ることに気がついた。そして、去年のそのころは航海の途中で、船室の鉢の桃の芽が加わる南国の暑さに、いたずらに伸び繁っていった無聊さを思い出した。ピナン、コロンボ、アデンと進むその船の中では、千鶴子と久慈がいつも手を取り合わんばかりにして、甲板の影から影を愉しげに廻っていたものだったが、過ぎ去った日の悩ましさも消したくなって、矢代は、蒲団の中で寝返りうった。枕から耳が上ったふとその拍子に、幽かに何か呻き声に似たもの音が聞えて来た。それは父の寝室かららしく、暫く途絶えてはまたつづいたかと思うと、その後はしんと沈み、動悸だけ騒がしく響
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