ゃいよ。旅さきならあまりうるさくないですから。」
 男爵は矢代にそう云ってから、「来週はどうです。」と不意に訊ねた。今夜はこれで久木男爵とも会う最後かもしれないと思っていたときとて、矢代は、この男爵の不意打の誘いにはすぐには返事が云い遅れた。
「御都合が悪ければ、その次の週にしますか。その次なら良いでしょう。」
とまた男爵は黙っている彼に重ねて訊ねた。
「ええ。ありがとうございます。」
 と矢代はこのときも答え渋るのだった。彼は自分の父が先代の男爵家の社員だったことをまだ云いそびれていた苦しさが、再び蘇って来たための不決断だったが、なおこの男爵の親切さが旅先までも続けられることを思うと一層窮屈に閉じ込めてゆくにちがいない自分の気質を思い、矢代は落ちつきを失った。しかし、何ぜまたそんなこと一つを、男爵に云えないものかと思うもどかしさも苦しく責め上って来るにつれ「云ってはならぬ。それだけは今は云わぬが良い。」と囁く声にもまた締められて、彼は暫く車の速度も忘れていたほどだった。
「私はどうも不調法な性質なものですから、旅先だと却っていつも人に迷惑をかける始末になるんですよ。」
 こう云う矢代を男爵は彼の遠慮とのみ解して、それには特に触れようともしなかった。そして、「わたしは会社の仕事を、何も考えない時間がときどきほしいんですよ。それには旅をする以外にはありませんからね。」とぽつりと云った。
 それではやはり父のことなども、口にせず忍耐したことは良かったと矢代は思った。もし一口いえば、この夜の男爵との交情にも、二人の間に潜んで来る人知れぬ煩しさのために、何らかの変化を起すだけではなく、受けた好意を謝している折角の自分の気持ちさえ、そのため却って退け下すような仕儀ともなりかねない惧れを感じた。
「良いですね。ひとりいるのは――あの旅のホテルで朝起きて一人いるときの心持ちは、何んとも云えないですね。」
 とまた男爵は、日ごろの複雑な劇務のさまを思い描いた詠嘆の調子だった。金銭という奇怪なものに幾重にも包まれ育ったこの男爵の苦しさは、人間の価値決定の標準を何によるべきかと、日夜思案に耽り通して来た人にちがいない、重い滴りのような孤独な淋しい詠嘆だった。
「幾つ社長をしてらっしゃるんですか。」
「もう分らない。」
 と男爵は一言聞き取れぬほどな小声で云ったきり黙った。何かそれも口に出すさえ煩わしげな思いの群り襲う沁みに聞えて深かった。
 矢代は男爵と二人でクションの上に揺れながらも、この夜の男爵とのことを帰ってから、主人思いの明治の気風をまだ失わぬ父に話せば、どんなに父が喜ぶことだろうと思った。矢代はその喜ぶ父の心情を想像すると、今こうしてここで男爵と自分の並んでいることが、すでに孝行をしていることになっているのだと気がついて、思わぬ明るい気持ちの差し込むのを覚え久しぶり若若しい青年に立ち還って来るのだった。そして彼は父のその喜びの移り映じて来た自分の今の興奮の仕方を、これを僅かに自分から見つけた価値のように思われ、横の男爵にはそれも早や無い富貴の寂しさばかりが攻めよっているのかもしれぬと、男爵の日日の生活をあれこれと想像して、反対にますます自分の幸福を的確に感じとった。


 日曜で空の上の方には風があるらしかったが、庭の樹樹は静かだった。下枝の間を影のように鶯が移り渡っていた。植えてから五六年は実の成らなかった黐《もち》の樹に、赤い小粒の実が成り始めた年から、よく小禽類の来るようになったのも、今年はそれが目立って増えた。まだ笹鳴きの若い鶯ながらも、真近く見る姿は絶えず鋭く伸びたり膨れたりした。矢代は、午後からは長く忘れていた畑を打ってみようと思いながら、火鉢に片手を焙り、鉄瓶の鳴るのを聞いていると、ふとある貴重なものの過ぎ通っている静かさを覚えた。冬の日の障子の明るく冴えたその向うで、「ちッちッ」と鳴く鶯の声も、流れ移っていった旅の日の、空を仰いだときどきに感じた郷愁に見えたりした。
 暫くすると足音がして、母が矢代の部屋へお茶と菓子を持って這入って来た。午後ならばともかく午前中、厳格な母は矢代にこうしたことは、今までにあまりなかった。
「今日は良いお天気ですね。ひとつ今日は畑を打とうかと思ってるんですよ。」と矢代は母に云った。
「畑を? お珍しいことね。そんな手で出来ますか。」と母は笑った。
 窓の外を見上げ差し向いに坐っている二人の傍で、鉄瓶は湯気を上げて鳴り、なお鶯は枝から枝へ飛びわたって、今までひそかに矢代の待ち望んでいた梅の枝まで来た。
「昨夕のこと、お父さんにお話したの。そしたら、お父さんお喜びになってね。もうそれは、ほくほくしてらっしゃるの。」
 母もいつもとは違い子供のような言葉でそう云うのを、矢代はああ、あのことかと思った。あのことは昨夜帰ってから久木男爵と会った始終のことを、父には云わず母に矢代が話したのを、母はそのまま父に話したらしい。今から思うとそれは些細なことだったが、父にはやはり些細なことに響く筈もなく、家の空気が俄に大きく膨らみのぼった吉兆のように感じたにちがいない。それに妹の幸子も、いよいよ退院するという通知のあった二日後だった。
「久木さんは面白い人ですよ。世間の人の考えているより、僕はむしろも少し豪い人のように思いましたね。分りにくいのですよ。あの人の豪さは。」
 矢代はこう云っても、自分が男爵から享けた親切さを素として、好感を抱いた結果出た言葉だとは思えなかった。男爵の洒脱さの中には深さもあり、あの地位では持ちがたい謙虚さと、真面目さと、情熱とが細かく渦を巻いていたと思った。殊に何より矢代の心を明るくさせたのは、黙ろうとする自分をよく饒舌らせてくれたことだった。
「しかし、僕は困りましたよ。お父さんがむかし、久木さんの会社のお世話になったこと、どうしても云えなくってね。」
「あなた失礼なことしたんじゃないんでしょうね。お父さんそれを一番心配してらっしゃるの。」
「したかもしれないなア。」と矢代は云って笑った。
「お父さんは、耕一郎はときどき生意気なことを云うから、あ奴、また馬鹿なことを云いよったのじゃないかなアって、そうお云いよ。」
「しかし、あの男爵は、僕にぼろを出させて後悔をさせない人ですよ。そういう人はあまりいないですからね。それや僕だって、少しはいい気持ちになりますよ。」
「そんなことはあたしに云わずに、お父さんに云ってごらんなさいよ。」母は子の方へ一寸無意識に菓子を手でよせ、嬉しそうだった。
「おやじには駄目だ。僕が男爵と物を云ったことが、すでにもう無礼なことをしたと、思う人ですからね。僕がお礼を云い忘れたことなど話しちゃいけませんよ。ひどいお目玉だ。」
「それやいけませんね。そんなことなどしれちゃお父さん――」母は湯呑を上げ暫く子の顔を見守ったまま、どうしたことかふと黙った。
「この次お礼を云ったんじゃ、手遅れだし。どうしたのか昨夕は――まア、云わない方が、その場の礼儀にかなっているような気がしたものだから。」
 後悔というのでもなく、自分の失礼と感じたのでもない、しかし、黙っていたことが、今となっては気辛い味となって尾を曳いていることは確かだった。それも一つは、男爵が自分の気に入った人だからだと矢代の思ったのはまだしも良いとして、いつの間にか彼は、もし千鶴子との結婚の場合に、父や母が不承知のときを想像し、そのときには久木男爵に頼み両親を説き伏せて貰う虫の好い考えさえ、幽かに頭に忍び入って来るのだった。それはその可能性があるとしても、頼み込むべき筋合のものではなかったが、千鶴子が気に入りの侯爵夫人に、自身の方の両親を説きすすめて貰う努力をしているのが瞭かな現在、こちらもそれに相応した説得者として、ひそかに久木男爵を選び考えたのは、特に男爵に面倒をかけることでもなく、ただ一筆両親へ手紙を書いて貰えれば良かったからである。それにしても、もしそんなことでもすれば、父は分を知らぬ子の行いに、ますます怒ることなど矢代には眼に見えた。
 下枝を移っていく鶯を眺めながら、彼は、この上久木男爵に会って親しくなれば、頭に泛んだことも頼み込みかねない自分を知り、やはり男爵とはもう再び会うまいと決心するのだった。
「お父さんが久木さんの会社にいたのは、幾つぐらいのときだったんですか。」
「そうね、ちょうどあなたほどの年だったかしら。あなたの生れたときは、久木さんの会社にお勤めだったから、早いもんだわ、もう三十年以上になるんだね。お正月になると、社長の久木さんが社員の前へ出て御挨拶なさるだけで、一年に一ぺんお顔が見られたもんだそうですよ。それにあなたの昨夕のお話本当なら、それはお父さん、愕きなさるわ。」
 六十に近い年にしてはまだ頬の皺もあまり見えず、切れ長の眼に、髪も濃い母の顔を矢代は眺め、母に較べて老いこんだ父の白髪を眼に泛べた。
「しかし、お父さんも年をとられたと、つくづくこのごろ思うな。外国へ僕が行く前には、ああではなかったんだが。」
「一緒にいると分らないけど、そうでしょうね。そうそう、先日もね、お父さんあなたのお嫁さんのことも心配してらっしゃるの。いつになったら耕一郎から云い出すか待ってみてるんだが、お前にはまだ何も云い出さないかって。あなたも決めるものなら、そろそろ決めて早くはありませんよ。」
 嫁の話は母からは云い出さず、妹の幸子から、やがて切り出されることとのみ思っていたときとて、そんなに母から云い出されると、彼も自然に顔の熱てりを覚えた。それも自分の結婚の相手が千鶴子だと分れば、誰より反対しそうなものも、気性の強いこの母にちがいなかったが、言外に意もあるらしい今の母の話し振りでは、千鶴子のことも朧げながら早や察しているかと頷かれる節があった。
「細君のことは、まア、もう暫く待って下さい。」
 矢代は言葉を濁し、気軽く菓子を摘まんだ。そして、昨日千鶴子と虎の門で見立てたソファがもう着きそうなころだと思って時計を見た。

 まだ畑へ出るには早すぎる寒さだった。矢代は鍬を持って外へ出てみた。畝も消えて平べったくなった畑には、夏から抜き忘れたままの黍が数本立ち枯れて残っていた。萎びた葉をべたりと地につけている大根と一緒に、それらを引き抜いた後から彼は畑に鍬を入れていった。
 一打ちごとに足もとからむっと土の匂いが掠めのぼって来ると、彼はブロウニュの森で千鶴子と二人で草の中に伏し、土の香を嗅ぎつつともに日本を偲んだ日の、ある午後のひとときを思い出したりした。そして、日本へ帰れば何より先ず畑を耕したいと思ったりしたことも、今ごろ漸く実行し始めた彼だったが、「身土不二」という昔からある言葉の深い意味も、こうして打つ鍬の重さ、土の匂い、汗の香の中から味われて来る思いがした。
 しかし、彼は土を掘り起しているうちにも、この土地は地主から借りていてまだ自分の物ではないのだと思った。自分の手で耕すことの出来る範囲の狭さでも良い、若干の土地を握ってみたい欲望を彼は強く感じて来ると、それも父から貰った金銭で買い需めたくはなく、自分で得た金銭で需めねば、身土不二の意の深さもその根さえ識りがたいと思えて残念だった。そう思うと、外国で使った金銭の額でなら、今打つこの畑の広さも手に入る見込みがつき、今さら彼は、一打ちごとに失った額の重さが身に感じられて来るのだった。
 霜柱のため砂を浮き上げぼそついた土の表面が、彼の後から鮮やかな黒さを蘇らせて進んでゆく。ほんのりと温い土の香だった。矢代はこの畑に撒く肥料も、自分の家族の体中から出た物のみに限ってみたいと思った。そして、そこから生えた野菜でまた一家の身体を養うことを考え、土と血との循環も考慮に入れたかった。それにしても、なお彼に残念なことが一つだけ、頭の底から絶えず脱けず彼を追って来た。それは航海の船中で起ったある日の小事件だったが、丁度船がコロンボを出たころの夕食の後である。船客たちが集ってなごやかな雑談から無遠慮な談に移って来たとき、ある商務官が、弁護士を
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