信じているからさ。むかし恋しい銀座の柳だ。」と彼は面白そうに笑い出した。
「キリストに過去とか未来とかはないだろう。そこがキリストの透明な豪さというものじゃないか。」
「いや、僕は革新派だからね。そうは思わないんだ。誰が何んと云おうと、革新派の主張だけは僕は変らん。」
 若い外交官であるだけに速水の言は、人人の蔑視を突き退け何か期するがようにひとり頷く強さがあった。一同のものはまた黙ったが、それぞれ裡に考え湧くものの続出して来た混乱のしるしのある沈黙だった。
「そこでヘルンのことに戻りますが、ヘルンというこの外国人は、ギリシアやローマの一番健康なころの精神が、地球上のどこに残っているかを自分は探し廻ったというのです。そして、どこからもその片鱗も夢みることさえ出来なくって、絶望の揚句ふらりと日本へやって来たところが、思いがけなく、ここがそれだと思ったというのです。そして、日本にそのまま居ついてしまったんですが、この夫人は、二百本持っているヘルンの煙管に、いちいち煙草をつめて喫わしてやって、最後の一本を喫い終ったころには、最初の一本にもうちゃんと、新しい煙草を詰めてやってあったというのです。まるで女神みたいなものですからね。まだそのころの日本の婦人はたいていは皆、そうだったらしいですよ。」
 矢代の云っている間にみんなの表情は、今まで見られなかった粛然としたものに変っていった。背も椅子から伸び眼光さえきらきらと耀き出して来たが、やはり誰も黙っていた。
「ところが面白いのは、ヘルンは外国人のくせに、キリシタンというカソリックが日本に入って来たことを非常に怨めしく思っているのですね。あんな極悪非道なものが、日本人に祖先崇拝をやめよと命令して進んで来たから、忽ち大虐殺にあった、あの虐殺は当然のことで、日本は立派だったと賞めてさえいるのです。僕は見方にもいろいろあるものだと思いましたね。」
 云い出してしまった勢いでつい矢代はここまで云うと、怒りを含んで蒼ざめた顔色がどこか一隅に二三さっと顕れたように感じたが、彼はもうその方を見なかった。その一つの中には千鶴子の顔も恐らく混っていたにちがいないと思われたが、しかし、外人でさえそんなに思うものもいたのだということだけは、誰も一度は知って置いても良いことだと彼は確信するのだった。
「そいつは面白いなア。」
 と、俄かに顔色をほころばせて、喜んだのは、さきからひとり黙っていた画家の佐佐だった。
「さア、侯爵、黙ってばかしいないで何んとか云いなさい。あなたんとこの先祖もキリシタンをやっつけた方だよ。」
 と由吉は田辺侯爵に押しつけるようににやにや笑って云った。
「僕んとこのは代代名君だったからな、そんな怪しいことはやらんさ。」と侯爵は鼻のあたりを撫で廻して云った。沈んだものらの顔色もこのときは一緒に笑い出した。
「しかし、カソリックの極悪非道というのは、それやヘルンはカソリックを知らないんだよ。いかに日本を愛するあまりに云ったことだとしても、西洋に秩序と忍耐と謙譲の徳とを与えている根源の精神を、極悪非道というのは、無智無羞の徒の云うことじゃないか。もし西洋にカソリックがなかったら、ヨーロッパ精神というものはもう闇同然だと思うね。」
 遊部は眉を顰め落ちつかなそうに云って矢代を見た。それはむしろ悲しそうなにがにがしい怒りを含んだ眼つきだった。
「しかし日本の一番の美点をむかしのギリシア同様の祖先崇拝だとヘルンが見てとった場合、それを止めよとカソリックが命じるなら、こ奴極悪非道な奴だと思ったのは当然だよ。」
 と佐佐は云った。佐佐の父はもう亡くなっていなかったが、生前は真宗の大黒柱と云われた仏教学者であった。漢学者の塩野の亡くなった父とは友人で、二人はまた絶えず生前仏教と儒教との立場の違いのために、論争ばかししてどちらも死んだということを矢代は塩野から聞いたことがあった。今もそのような関係が二人の子供の心の上にも連想を呼び覚したものと見え、佐佐がむくむく起き出して来たようにそう云うのとともに、カソリックの塩野の表情もそれにつれて変って来た。
「それは十六世紀のカソリックの政治が悪かったのだよ。あのころはスペインとポルトガルとの闘争時代だから、どっちも罪の擦りつけ合いをした結果が、悪宣伝の泥仕合になったのさ、何もカソリックそのものの精神は悪くはないよ。もし日本にカソリックがなかったら、外国との交際ということは、これからも絶対に不可能だからね。」
「それにしてもだ。祖先崇拝を悪いというカソリックの主意は、今も変らないね。日本の道徳の根源が祖先崇拝なら、これを認めぬという宗旨とは、必ずどこかで衝突せずにはおれないさ、カソリックは霊魂を認めるくせに、その国の祖先の霊魂を否定するというのは、僕には分らないのだ。仏教は仏を信じさせても、先祖を仏だとちゃんと認めているんだからね。」
「しかし、神に帰一する希いはカソリックだって同じだよ。神に二つはないんだから、それを仏だなどという怪しいものを持ち出して来て人の頭を紊したから、紊された人間の頭の恢復は遅くなるに定まっているじゃないか。」
 塩野のそういうのに、口重な佐佐は少し云い渋ってもどもどしたが、人より頭の鉢の大きく開いた強い眉の下で、眼だけ鋭く反抗している微笑を泛べて云った。
「仏教というものは、カソリックみたいにそう人に苦しみを強いるものじゃないのだからな。」
「まア、どちらも日本の神を信じたまえ。」
 と、速水は風邪ぎみか度度手巾を出し鼻をかんだ。
「しかし、日本のむかしのキリシタン宗はカソリックだといっても、あれは実は武士道精神だったのですね。迫害にあって死ぬことを名誉と思って、ぞくぞくと平気で死んでいったものだから、ローマの法王庁はそれを聞いて、そんなことは当時の外国の例にはないことだし、向うにセンセイションを起したらしいんですが、しかし、僕は、ヘルンという人は外国人だったから、危機に臨んだ際の日本人のそういう無私、滅私の祈りというものも、やはり外国流に解していたのじゃないかと思うのです。日本人ならははアやったなで、すぐ分りますからね。」
 矢代は偶然のことから一同に問題を投げかけてしまった責任の始末もつけたくて、そう云いつつも、ふとまた別の一つの思いが泛んで来たのでさらに云い加えるのだった。
「マリヤ観音というのが当時の九州にありますが、あの観音像は幕府の眼を昏ますためのマリヤ像か、それとも、マリヤ像を仏教の一種の観音像と見たものか、そこはどちらにしたところで、日本のカソリック信者自身、自分の宗旨の何ものであるのかよく知らなかったということになりますから、その直感をいっそのことも一つ前に遡ぼらせて、仏教渡来のときのことを想像しますと、あるいは観音像を天照大神像だと信じさせつつ、仏教徒が民衆の中へ入り込んだ時代もまた僕には考えられて来るんですよ。だいたい、信仰の根というものはみな一つにちがいないのですから、日本人の信仰ならどういう宗教であろうと、その中には大神からの古神道が流れていると思われるのです。僕はそんな風に思うと、やはりキリシタンの迫害の際にも、死を見ること帰するがごとく平然として死んでいった信徒たちも、武士道というよりむしろ古神道の精神の立派さじゃないかと思われるんですが、どうでしょうか。」
 云いかねていたことも矢代はそう云ってしまうと、この夜の査問に対する自分の答えも、これで先ず出来たとほッとした。またそれは思いがけなく千鶴子への答えにもなっていたので、反省すべき部分を残していると思われても、公衆の前では今のところこれ以上はやむを得ないと思った。
「あなたの道徳論も、それでまア、やっと分りましたな。」
 久木男爵は小首をかしげ眼鏡を脱した後で、客たちはみな遠方を見ている風な眼差のまま誰も黙り込んだ。しかし、遊部だけ一人何んとなく落ちつき悪そうに左右を見廻しているうち偶然にみち子と視線が会った。すると、急に照れた笑顔で、
「皆黙りこんでしまったなア。みっちゃん、その後丈夫かね。」とひょっこり訊ねた。
「ええ、お蔭さまで。あなたは?」と、みち子は意外に静かな声で懐しそうに肩を落し、そして伏眼でそっと遊部を見た。
「僕もまア、この通りですよ。」
「お痩せになったわね。」
「いったい、どっちも好きなくせに別れているとは、どういうことだ、え?」と突然由吉は二人の顔を見較べて訊ねた。
「誠実さがないからさ。」と遊部は軽く俯向いて一言いった。
「あってよ。」
 みち子も同様に軽く応酬したが、二人の搓りを前に戻そうとする風では少しもなかった。
「もっとやれやれ。」とまた由吉は面白そうに二人をあおり立てたので、論議とは違い室内は一層賑かな笑いに満ちて来た。
「どっちも誠実さが足りないぞ。」
 と塩野は、前から二人の間に挟まっていたあるもどかしさを吐き出したいらしく、彼もまた元気づいた声になった。
「とにかく、諸君に心配かけて相すまないが、どうもね――このマリヤ観音は、道徳というものを知らないのだよ。」
 遊部のそう云うのに由吉は隙を与えず、
「今ごろ道徳に負ける奴があるか。」と彼の顔を窺き込んだ。
「先日、あなたのあの人見てよ。」
 みち子はもう他のもののことなど見向きもせず、遊部だけそこにいるような和らかな眼で彼を見詰めた。
「見たか。どこで?」
「ある所よ。――でも、あなた本当にあの人好きなの。」
「いいね。誠実さがあるよ。」
「そうかしら。あたし、あんな人に感心するなんて、少しあなたどうかしてるんだと思ったわ。」
 と、みち子は顎を引き、遊部の胸のあたりに視線を落しながら、やや皮肉な微笑を洩して云った。
「そうじゃないよ。それや、そこは君には分んないさ。」
「でも、あたしの眼は間違っちゃいないわ。案外ねあなたも。」
 少し薄睨みでみち子がそう云うまで、傍にいたものらは、二人のすらすらと早く運ぶ会話に聞き惚れるようにしんと黙っていた。矢代もふとパリにいる久慈と真紀子の二人も今ごろは、眼の前の遊部とみち子のような話をしていそうに思えて、暫くは二重の興味で聞いていたが、遊部の会話がそこで途切れてしまうと、由吉は惜しそうに、「何んだ、それだけか、もっとやれやれ。」と遊部の片腕を掴んで引きよせようとしたので、そのまま話は一同の笑いの中に壊れてしまった。
「今夜はこの二人を帰らせないことにしようじゃないか。」と速水が云い出した。
「いや帰るよ帰るよ。」と遊部は真面目に狼狽の色を泛べて腕の時計を一寸見てから、隣室へ一人立って行くと、軽くシューマンの協奏曲らしいものを叩いてみていた。みち子も何かまだ云いたいことがあると見え遊部の後を追っていったが、間もなくピアノを聯弾する二人の間からひそひそした声が洩れて来た。
 矢代は今夜の侯爵邸の夜会の意味には、さまざまな好意が含まれていたのだと初めて悟るのだった。速水は、この次の集りを佐佐の画の個展のときと藤尾みち子の演奏会のときとにまたやることを提案した。誰もみなそれに賛成だった。矢代は豊かなこの夜の空気にまだ心残りを感じたが、初めての出席に千鶴子と同様長居するのも気がねせられたので、先に失礼する旨を述べて侯爵に挨拶した。すると、久木男爵も「それじゃ、わたしも」と云ってともに立った。遊部とみち子も隣室から出て来た。
「今夜は近ごろにない面白い夜でした。また今度もこの続きをひとつやって下さい。」
 あながちお愛想とは思えぬ上機嫌な気色でそう男爵は一同に頼んでから廊下の方へ出ていった。矢代も一瞬立ち停ったような千鶴子の大きな眼を掠めて見ながら、そのまま部屋を出ていった。
 門外の冷えつめた夜気の底から、道路工事の焔が塀に沿いタールの臭いを吹き流していた。久木男爵の自動車の扉が匂わしい銀鼠色のクションの模様を開いたとき、男爵は、矢代の帰る方向を訊ねてそこまで一緒に乗車をすすめた。集りの気分のまだ失せない無遠慮なまま、彼は同車させて貰って坂を下って来た。
「そのうちわたしは旅に出ますからね。そこへ今度は遊びにいらっし
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