立たしさを感じて来ている風だった。しかし、久木男爵はこの由吉の邪魔する態度に、また一方ますますいら立ちを感じるらしかった。
「どうもあなたも、東野君のように、議論を脱線させる名人らしい方ですね。私はしかし、科学のはしくれをやっているものですから、このお若い方たちの問題には非常に興味を感じるんですよ。私はいつも自分の工場の技師長たちには、君らは第六感を働かせないと不可ない、しかし、第六感だけでは駄目で、それを論理的に整理をしなければ不可ない、とこうまア訓辞を与えているんですが、科学と道徳ということはまだあまり云ったことはないので、甚だ私には面白いのです。どうです。それからのあなたのお説は?」と久木男爵は矢代の方に向き返ってなお彼の話を引き出そうと試みるのだった。老人というものはこんな議論に興味を覚えないのが通例であるのに、不思議と誰よりこの老人は熱心で真面目だった。矢代はこの夜は前から、科学とか道徳とか、とこんな形而上の問題から遠ざかっていたいが本心で、老人から問われるときにも、自然と話を丸く納め切り上げる工夫へ傾きつつ答えていたのだったが、それも次第にこのように追い詰められて来ては、身の動かぬ思いでもう苦しかった。
「私はパリにいたときも、友人と今夜のような問題で、いつも喧嘩ばかりしていたのですが、どうも日本へ帰ると、向うで血眼になって争っていたことも、だんだんつまらなく思えて来て、何んだか議論をするのが嫌になっているんです。何んと云いますか、皆さんどなたも御経験お有りの方ばかりのようですが、西洋へ一歩上陸すると、思いがけなく、これは戦場へ来たぞと思いますね。たしか私らにはあれはまだ見たこともない戦場でしたから、初めは何が敵だか分らぬながらも、とにかく、敵の真ッただ中にいるんだということだけははっきり感じますから、言葉を一つ違えると、味方も敵に見えてしまって、随分負傷をしたり、死んだりするでしょう。恐らく僕は無事に帰って来た人はいないんじゃないかと思うんですが、しかし、僕はやっと無難か、無能か、ともかく帰れたというのも、その原因は科学を自分が信用していなかったからだと、このごろになって思うんです。その代りに、僕は道徳だけに獅噛みついて、これさえあれば、後は何も人間には要らぬものだと思ったのです。それならその道徳とは何んだろうということですが、これは口に出して説明すると、必ず誰も失敗するものですから、云いたくとも僕にも云えないのですよ。僕は世の中の人間で道徳というものを間違えずに説明できた人は、まだ誰一人もいないのだと思うようにまでなっているのです。そのくせ、誰も彼も道徳だけは、道だ道だとばかりで、未知なことにして置きたいんじゃないかと思うんですが、甚だ僕の考えは極端なんですけれども、これはさっきも宇佐美さんの仰言ったように、それは事実だと思うんです。」
 矢代は定めし多くの異論が出ることだろうと予期しながら、もう裸体で人人の前へ飛び出すようにそう云ってしまった。遊部は矢代の云うのを聞きつつ、ときどきぴくぴくと眉を跳ねてはまた冷笑を洩して黙っていたが、やはり彼が真っ先に口を切った。
「しかし、科学を信用しないって、どういうものですかね。自然の合目的性を認めることが神を認める唯一の方法だと発見したのは、科学の何よりの信用し得べきところで、またそれが人間というものの価値の大きさを実証してみせてくれたんじゃありませんか。」
「僕は神というものは、そういう合目的なものだとは思えないのですよ。」と矢代は府向いたまま小さな声で云った。
「それなら何んです。」
 矢代は答えるのがもう辛かった。それは別に答えに窮したわけではなかったが、卓の一端には、自分の信じている神とは違う神を信仰している千鶴子や塩野たちのいるのを思うと、ただ黙って笑うより法がなかった。もしこれ以上に自分が言葉を云えば、二人のみならず、その他の客の首を絞めつけてゆくことになるかも知れない惧れを感じたからだったが、しかし、何故ともなく矢代はこのときから悲しみを感じて来た。矢代の返事を待っていた遊部は、いつまでも黙っている彼の躊躇に意外に早く勝ちすぎた遠慮のある思いで、ナイフを取り上げると端正に鮭の肉をすっと切った。そして、まだ惰力で少し云いつづけ、ピューリタニズムの精神とニュートンとの合致を説明してから、静に矢代に止めを刺すようにこう云った。
「僕はやはり科学の合目的性を信じるんですよ。世界の人間の一番共感出来ることといえば、いろいろな国の特殊性という変容したものの中から、普遍性を抽き出して、これを認め合うということよりないですからね。僕は神というものも、それよりもう感じることが出来なくなっているときなんだと思うんです。」
「君の苦心してやっているのは、音楽じゃなくって、音学という学ぶ方だね。」と由吉はそろそろまた冷やかし始めて笑った。
「それはそうだ。僕は音楽を勉強しにパリへいったんだよ。」
 遊部は突嗟にそう答えたものの、しかし、どこか由吉の鋭利なひと突きには応えるものがあったと見え、びくっとした戸迷うものの薄笑いを洩して肉を食べた。
「勉強しに、パリへ行ったものはごろごろしているが、遊びに行ったのは僕と侯爵とたった二人か。これや、ちょっと気味が悪いね。侯爵、何んとか一言いいなさいよ。あなただってロンドンじゃそう道徳派でもなかったんだからなア。」
 由吉は黙っている田辺侯爵の方を顧み、誰にも通じぬ笑顔でひとりからからと高く笑った。
「僕は道徳派さ。」と侯爵は一言云ったきりやはり黙って何も云わなかった。
 矢代は侯爵夫人の美しい顔色が幾らかさッと動くのを見ると、いつか見たことのある侯爵家の先祖の壮麗な城が一瞬光を揚げて頭に泛んだ。そのとき彼は一寸千鶴子の方を眺めてみたが、千鶴子はにこにこ笑った視線を彼に向けて黙っているきりだった。

 葡萄酒に赧らんだ顔が、白い卓布の上から鮮かに顕れて来たころ食事は終った。客たちは隣室へ移っていってそこでまた雑談が始った。矢代はひとり窓の傍に立ち室内の光りを避けて庭をよく見た。中庭からつづいて来ている小松林が中央の所で、島のように盛り上りを見せていて、その水際を洗うように、白砂が箒の波目を揃え入り組んだ柔い線をよせていた。松の先がどれも牡丹刈にされたところや、下の水際に掃きよせられた枯葉の納まりが、大徳寺内の孤蓬庵の系統を引いた庭に見え、矢代はこうしているときにも京都へ早く行きたくなる誘いを感じて来るのだった。
「綺麗なお庭ですことね。」
 と、千鶴子は矢代の横へ立って来て云った。
「御馳走を頂戴して、良い庭を見せてもらって、今夜はどうもありがとう。」
「このお二階に良い陶器が沢山あるんですの。あなた御覧になりたければ、お頼みしてみましてよ。」
「それは見たいなア。」と矢代は云った。そして、ガラスに反射した室内の光りを除けるため顔を窓に近づけ、軽く片手でカーテンの天鵞絨を片よせている千鶴子から、彼は初めて、我知らず闘っていた言葉の世界と放れた地道なぬくもりを感じて来た。それはもう物いわずとも通り共同の苦労にも似ている、ひと息ごとのあわれさのようなものだった。彼は暫く皆に背を向け千鶴子と並んで立っている間も、自分のいう真意の通じる範囲は、この広い世の中でただ千鶴子にだけかもしれないと思った。しかし、また彼は、さっき自分の云いたかったことを邪魔したものは、他ならぬこの千鶴子の神妙にひかえていた姿だったと思うと、見事に自分が遊部から最後の止めを刺されたのも、つまりは、千鶴子と自分のちぐはぐな信仰の揃わぬ結果からだったと思った。そうして、そんな不満足な寂しむ思いのつづくのも、まだ以後も同様に幾度かこうして繰り返されるにちがいない。
「ちょっと、矢代さん、こちらへいらっしゃいよ。そこへおかけなさい。」
 矢代が室内を振り向いたとき、よく変化する優しい笑顔で手招きして、こう云った人は久木男爵だった。自分のことをさきから気にかけていてくれた人は、他人の中ではやはりこの人だったのかと、たとい向うは知らずとも、まだ父から繋がる不思議な縁も感じられ、彼は男爵の方へよっていった。しかし、円陣を造って並んでいる皆のものから少し跳び出た所の椅子へふとかけたせいで、急に光りを四方から受け集めた気詰りを覚え、手持ち無沙汰な顔つきであたりを見廻しているだけだった。が、ふとその夜の査問の内容に気がつくと、矢代はいよいよ被告の席へ引き出された羽目となっている自分の現状に、迂濶に食堂で道徳のことなど饒舌って自己弁護に落ちた報いが、とうとうこのような結果になったと観念もするのだった。
 由吉と外交官の速水は傍で国際情勢の談をしていた。その会話の流れはときどき一同の間で、経済のことにも及ぶことがあっても、久木男爵だけは、自分の一番明るいその方の話には飽き飽きしていると見え一言も加わろうとしなかった。そして、その間斜めに体を崩し、天井を仰ぎつつ煙草をひとりぷかぷか喫して黙りつづけていたが、また矢代の方へのり出して来るとこう云った。
「あなたのさっきのお話、あれはなかなか面白かったですが、あの続きをも少ししてくれませんかね。わたしは近ごろそういう風な話からあんまり遠ざかっているので、こういう機会でもないとお話も出来ないのですよ。」
 矢代は特別なことを前から話したわけではない自分を思い出し自分の話のどこがこの老人の気に向いたのかと一寸考えるのだった。
「僕のお話ししましたことは、そう特殊なことじゃありませんでしたが、とにかく、僕らの時代のこととしてもそれ相当のやはり考え方があるものですから、ついそれを話したい対象を探すのですね。たとえば、僕は一寸ばかし海を越えて西洋を見て来たばかりに、日本をめぐっている海の水を見ると、どれもみな岸べに打ちつけて来ているキリスト教の波に見えるのです。実際、日本を一歩出ると、現在生きている文明の波というものは、キリスト教を中心とした大海の波ですから、これに対する態度を定めるだけでも、相当な覚悟なしにはいられないときになって来ておりましょう。そこへまた科学です。僕らは自分の国のことを外国のこととして、もうこれ以上は考えているわけにはいきませんですからね。」
 矢代はこう云ううちにも話していることが、久木男爵に向うより、ともすると後方で聞いているにちがいない千鶴子に意識が向いてゆくのを覚えるのだった。そして、それはまた同時に彼女を虐めることとはいえ、それ以上に苦しいことには、この夜はカソリックの大本山のノートル・ダムを写した塩野の写真展の祝賀会であってみれば、むしろ千鶴子より塩野の祝賀の宴を強く射る失礼な結果となっていることに気がついて不用意な失言を、そのまま続ける勇気が出ず突然彼は口を閉じた。久木男爵も敏感にそれと察したらしかった。
「やはりわれわれに難しいのは、科学のことだなア。」とひとり老人は呟いて、そして暫くしてからまた矢代に、「あなたはさっき自分らの考えている東洋と西洋とのことは、十四五世紀の問題として見ると、そんなにあの部屋で仰言ったが、あれはどういうことです。あれが一寸分らなかった。」
「そこが僕にも難しいのですが、しかし、こういう人がいるのです。それはラフカディオ・ヘルンというギリシア人で、明治も晩年の三十七八年ごろに、日本の現在を社会進化の状態として見ると、キリスト誕生前四五百年のころの西洋と同じだと云っているのです。ヘルンが死んでからおよそ四十年近くにもなっていますが、この間の日本の四十年は西洋の千年ぐらいの経過にあたっていると、僕はまア仮定して云ったのです。しかし、そうしてみても、僕らにとってはまだキリストは生れていないわけですよ。」
 一同は急に笑い出したがすぐまた一種くすぐったそうな薄笑いで黙った。
「しかし、キリスト教が現在日本にもあるというわけは、やはり生れているのも同じでしよう。」
 と、そう云ったのは遊部だった。しかし、速水は日ごろの自分の考えに何事か触れるものがあるらしく、
「それはただ過去のキリストの形骸を
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