れでも認められているのですよ。」
冗談らしく老人のそう云う笑いの蔭にも、いずれこの真実さえ皆から揉み消されるであろうと寂しむ響きが流れていた。
半ば繰り上げられた部屋仕切りの天鵞絨の蔭からピアノの羽根が見えていて、その方から食器の音が聞えてきた。矢代は千鶴子の方にはあまり視線をむけないように気をつけた。そして、久木男爵の談を聞きながらも、さっきから一同とは違った、ある云いがたい、別な親しみと苦しみとを混じた気持ちを次第に強く覚えていた。それというのは矢代の父が青年時代のあるころ、先代の久木男爵の会社の社員だったことがあって、かすかながらも、記憶の底からそれが浮き沈みしつつ頭をあげて来たからだった。たしかに今はどちらも、全く別な二家の子供たちだとはいえ、一時は父も世話になったと思う子の矢代の気持ちは自ら違っていた。
あらためて誰かに紹介でもされれば、ひと言それを述べ謝意を表したいと思ったが、しかし、こんなに上下の区別のない稀な会合の場合、むかしの主従関係を口にして空気を濁すということは、却って向うを苦しめることかもしれず、また傍に千鶴子のいるということが、なお矢代にそれを云わしめるのを妨げそうな気味もあった。
「新年になると、社長の久木さんが社員を集めて訓辞をされるんだが、一年にたった一ぺん、そのときだけ顔がみられるきりなんだからなア。」
と、こういうことを洩らしていたある日の父のひと言が、どういうものかいまだに矢代の耳の底から脱けなかった。
父はそのことを一年中の何よりの光栄に感じて云っていたのに、それに自分は、今は目前対等に久木男爵と会いながらも、父のその悦びを隠そうとしている時代の子供になったのだろうか。
それを思うと、矢代は自分の黙りつづけているのが苦痛だった。しかし、この夜は彼も、男爵とのそんな些細なことで心を痛めていられるときではなかった。さきからも暗黙のうちに由吉と侯爵とから間断なくうけている査問の視線も、また軽からず身に感じた。それもこれも、すべてはただほんの暫く、自分が外国へ行っていたためばかりに起ったことだった。
彼はそのようなことも知らずにいる千鶴子が、今は何より気の毒に思った。それも、自分がどんなに振り払おうと努めても、いつか身近によって来て去りそうにもない人だった。いったい、何ぜこの人は自分の傍へなど来るのだろう。
「あたしは日本へ帰っても変らないわ。変るのは、きっとあなたの方だわ。」
こういうことをパリで別れる際、ただ一言云った千鶴子の勝ち気のためかあるいはカソリックの仕業であろうか、とにかく今の矢代にはこれだけが分らぬことの一つだった。
庭の薄明りがまったく消えたころ、侯爵夫人が薄藤色の洋装でピアノの羽根の前を横切って顕れると、皆のものに会釈をして食堂の用意の出来たことを報らせた。一同は椅子から立って隣室を通りその向うの食堂へ這入っていった。
食堂は料理の味を害せぬためであろう全面純白な装いの中に、壁だけ横に細い金線が入っていた。客たちは正客の塩野を先にし、自然に年寄りを高座へ押しすすめながら、それぞれ年に応じた席をとった。食事は洋食で間もなくスープが出たが、この夜のパンとスープの味は、たしかにどこか一流のコックの潜んでいることを報らせていた。客たちの誰もがみなそれを感じとった表情を一瞬泛べたが、誰もそれを口にせずゆるやかな雑談から始った。矢代はフランスで食べたパンの味とあまり違わぬパンを指でち切りながら、日本もこれだけの味を出すようになった技術にひそかに驚きを感じスープの皿を傾けるのだった。
「矢代さん、東野さんとお会いになりまして。」
と侯爵夫人は穏やかな声ながらも、少し突然に聞える問いで矢代を見た。
「ええ、いつも御一緒でした。何んでもロンドンへいらしたらしい消息が知人からありましたが。」
と、矢代は答えた。この夜これが矢代の云った最初の言葉だった。
「東野さんて、東野重造君のことですか。」
と久木男爵が、これもこの夜初めて矢代の方を向いて訊ねた。
「そうです。」
と矢代は一言答えただけだった。
「東野君とわたしは一度、横浜から大阪まで船で旅行したことがあるんですよ。そのときは四五日一緒でしたが、途中名古屋のゴルフリンクで、わたしはあの人にゴルフを教えたのですがね。そうですか。今ロンドンですか、あの人。」
久木男爵は感慨のある微笑で矢代の顔をじろじろと見詰め始めた。
「僕たち若いものはよくあの人に叱られました。あの人は僕ら若いものの中心問題へ、いきなり飛び込んで、張り手を使ってひっ掻き廻す名人なものだから、東野さんに会った日は土俵から抛り出されたみたいになって、二三日僕らは眠れなくなるんですよ。」
一同フォークの音の中で一緒に笑った。その笑声の鎮ったころ、久木男爵はまた興味ありげな表情で、矢代に訊ねた。
「あなたがたの年齢の人の中心問題は、今はどういうことにあるんですかね。わたしは注意してみてるんだが、まだ何んとなく要領を得ないのですよ。」
「それはいろいろややこしいことが、こんがらかっているので一口には云えないのですが、やはり、東洋の道徳と西洋の科学やキリスト教などとの、踏み込み合ってる足の問題が、中心のように思えますね。西洋が二十世紀だからといって、東洋もそうだとは限らないですから、そこを何んだって、西洋の論理で東洋が片づけられちゃ、僕等の国の美点は台無しですから、果してそんなに周章てて美点を台無しにすべきかどうかという、そこの疑問から今のすべての論争が発展したり、押し籠められたり、引き延ばされたりしている始末なんだろうと、僕は思うんです。さっきお隣りの部屋で皆さんの仰言っていられた、あんな問題も、やっぱりそれと同じことじゃないかと、僕は面白くお聞きしていましたのですが。」
矢代は老人にもこのような問題には心を向けて貰いたく思い、少し出すぎた調子も和らげず強める風に云ってみた。
「つまり、じゃ、二十世紀の道徳と科学の問題というわけですね。」
久木男爵は眼鏡を一寸取り脱し、一種異様に鋭く光る目の色で矢代の方へ体を傾けた。
「まあ、そうです。それが東洋人の僕らから見ると、十四五世紀の問題として映っているのかもしれないですから。そこが難しくて。」
と矢代は答えた。
「じゃ、あなたがたは、科学と道徳とどちらが良いと思われるのですか。」
「そこが、僕等の論争の中心なんですが、僕は道徳だと思うのです。」
「僕は科学だと思うな。」
と音楽家の遊部が横から云った。
「さあ、それはどうだか、――いや、それは難しくなって来ましたね。」
と久木男爵は云い直してまた眼鏡を懸け首をかしげた。
「でも、それは道徳よ。」
と突然藤尾みち子は別れた前の夫の遊部を見て云った。何かその声の中には遊部の無礼を憤る短く張った声が籠っていた。
遊部夫妻の過去のいきさつを知っているものらは一瞬どっと笑い出した。矢代はこの一家庭もルネッサンスの中核体に触れ飛び散ったひと群だったのかと、初めて知って二人を顧みた。
白い卓布の上に並んだ客たちの表情は、遊部とみち子のもつれかかった気持ちを享けて、暫くは両方に別れたままだった。そこへ女中が薄切りのスモーキングの鮭を持って顕れ、空いた皿と取り替えた。光沢のある越州の壺に似合った冬薔薇の華やいだ向うで由吉は無造作に鮭を食べたその途端、「あッ、これは見事だ。」と云って感嘆した。一同危く道徳派と科学派とに入り乱れて混乱に陥ち入りそうなところだったので、こういう由吉の嘆声は、思いがけない逆転を起して客たちの視線を皿の鮭の上によせ集めた。
「侯爵、今夜のコックはただ者じゃないですな。」
由吉に云われて田辺侯爵はかすかに笑っただけだった。二人を見ていた矢代は、どことなく微妙な音を発した美しさを感じ気持良かった。由吉は鮭を食べ終ると手帳の紙片をひき裂き、コックに手渡す今夜の礼を書きかけたが、侯爵の方へ一寸延びて、「日本人?」と訊ねた。
「フランス人だ。郵船にいたんだがね。」
「そうだろうな。」
由吉は日本語の礼を消してまたフランス語に書き変えるとその紙片をコックに渡して貰いたいと女中に頼んだ。一同だれも由吉に少し敗けた形で暫く黙った。しかし、臆面もなく客たちの前で、そんなことを敢てした由吉は少し照れたのであろう。
「どうもこんなことは面倒くさいが、して置くことはして置く方が良いからな。」ひとり弁解めいた笑顔になり「やはり僕も道徳派かな。」と呟いた。そこでまた一同の客は笑い出した。
「いやそれが科学派さ。」
遊部が突然の笑いをふき消すように卓の上から由吉の方へ身を捻じ向けて云った。「美味いものを見つけて美味いと云うんだからね。そういう実験の徳というのは科学性だよ。そこを忘れて道徳も研究も、価値があるわけのものじゃないさ。」
「じゃ、君の夫婦別れの原因も、つまり科学性の徳といったわけだな。」と由吉は云って笑った。
この巧妙な由吉の冗談は暫くまた笑いの波を食堂に響かせていたが、遊部に逃げられたみち子の表情だけ一隅で鋭く吹き尖って来るにつれ、一座はようやく事の重大さを感じて白み始めた。しかし、二人の過去のいきさつなど知らぬ老人の久木男爵だけは、底流している一座の苦さにはまだ気附かぬ様子で、却って、真面目な議論の対象をいつも揉み潰す由吉に多少反感を覚えたらしく、矢代の方を向き直った。
「あなたのさっき仰言ったそこのところ、何んでしたっけ――そら、西洋が二十世紀だからといって、東洋も二十世紀だとは限らないというのね。それは面白い御観察だと思ったのですが、そうすると、われわれの考えている科学というようなものは、二十世紀でもないのに、二十世紀の西洋人の考えることを、同じように考える誤りというか、危険というか、とにかく、そういう誤差を考えに入れるべきだと仰言るわけなんでしたね。そこで、道徳は科学より上だと仰言るのは、どういう風な論理があるんですか?」
「論理というようなものはないのですよ。」と矢代は云った。
「どうして?」
矢代は少し詰って答えかねた。自分が謙遜して論理のあるべきところをさえ、無自覚にない風を装って示したと受け取られた危険を感じたからだった。彼は顔が充血して来るのを覚えながら、同時に意外に難しい大問題を繰り拡げてしまっている現状をも意識した。実際、世界でまだ誰もが片附けかねてよたよたしている難問のあいだに、どうして論理をそこから見附け出せるか矢代には分らなかった。しかし、それにしても、とにかくこれだけは誰もが一応渡らねばならぬ橋であることは事実だった。
「私は――実は、私もそこを一番知りたいのですよ。」
こう矢代が云ったとき、不意に脱された拍子脱けの形で皆はしんと静まった。
「しかし、あなたはさっき、科学より道徳が上だと仰言ったではありませんか。」久木男爵は別に軽蔑した顔色ではなく、むしろ、矢代の苦渋を早や察した救助の穏かな笑顔だった。
「それはまア、そう私が思うのです。別に私は、弁解をするのじゃありませんが、論理はそこに成り立たないと思うからで、何も論理なんか成り立たなくたって、役に立つところだと見極めを付けたなら、科学のような人間の外部を調べる命令よりも、自分の心という内部の指針を示す道徳の方が上だと思ってしまっても、良いのじゃありませんかね。つまり、少し詭弁を云いますと、道徳が科学より上だと確信することが道徳だと思うのですが。」
「それはやっぱり、詭弁だなア。」と遊部が云った。
「いや、詭弁じゃないよそれは、事実さ。」と由吉が、このときは多少真面目な口吻で矢代を扶けて反駁した。
「しかし、君、道徳などというような概念に捉われずに、自然を研究してゆく科学の真の真面目さを、そういうのを道徳と見ずして、他にどんな道徳があるのかね。科学がすなわち道徳だよ。」
「そういうのは、それは非常に科学的だよ。」とまた由吉は混ぜ返した。何か彼はこの問題の落ちつかぬ性質を見抜き、さきから揉み消す運動を繰り返している自分の努力も知らぬ遊部に、幾らか腹
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