と坐ってみてくれ給え。工合はどう。」
空いた横の一つへ千鶴子も腰を降ろしてみたが、二人並んでそうして坐ってみると、極まり悪げに俯向いてくすっと笑った。そして、すぐまた急いで立ち上った。
「駄目駄目。」
矢代は手を持ってもう一度引き据えてみようとしながらも、飛び離れて逃げる千鶴子の速さに手が届かず、自分も立った。彼は二つそのソファを届けさせることにしてから店を出た。しかし店を遠のくにしたがって、今さきにした戯れもまだ早すぎるのだと思った。うつ向いて歩く足もいつか忍耐に重くなり彼は黙り込んだ。千鶴子も何んとなく黙って歩いた。
そうして暫く二人の靴音の喰い違ったり揃ったりするたびに、矢代の気持ちも浮き沈みして進んだが、また彼は雪の中で聞いた鼓の音を思い出した。それは前に前にと押し出す音のように、
「ぽん、ぽん、ぽぽぽん、ぽん。」
と胸中で響き、靴音の響きともなり、巷のひびきを貫いて透って来る何ものかの打音ともなって、矢代もだんだん爽やかに首べが上って行くのだった。
「ぽん、ぽん、ぽぽぽん、ぽん。」
いつ靴音が能舞台を踏みすすむ音のように変るか、彼は待った。
田辺侯爵の別邸は霊南坂を登った裏の高台にあった。重い閂のかかった両扉の門柱の間から玉砂利が見えた。矢代が塩野と連れ立って門を這入ると、寒むげな唇の色で、肩を縮めて出て来た大男の玄関番が二人の名を訊ねた。緑青の噴き出た樋の傍に皮の爆ぜた松の幹が逞しく、厚い甍の反りの上に枯松葉を落していた。
塩野はもう勝手を知っているらしく先に玄関を上った。花鳥を描いた衝立の後は暗かった。冷たく光った廊下を奥へ渡って行った右手の所に応接室があったが、そこには人の姿は見えず、ただ外套が幾つか置いてあるきりだった。
「君、よくここへ来るの。」
と矢代は塩野の置く外套の傍へ自分のも揃えて訊ねた。
「ああ、ここは三度ほど。――こちらの方が気楽なものだから、あの侯爵はここの方が好きなんだよ。」
と塩野は云いながらまた部屋を出て、なお廊下を奥の方へ幾つも曲った。背丈を同じにした南天の群生した中庭を渡り廊下が通っていた。実の赤くいちめんに揃った中を廊下が厳しく光り、そこを行く矢代の眼に、裏庭の広さを示す小松林の一端が、おおどかに曲った裾の美しい線を白い砂際によせていた。
矢代は塩野を先にやらせて立ち停った。そして、暫く中庭の美しさを眺めていた。彼は敷きつめられた砂の白さと南天の実の赤さから、フロウレンスのある寺院の庭を思い出したからだった。その寺院の庭は、丁度こんな清潔の方形だったが、中央にただ一本の夾竹桃がぎっしり花を咲かせ、白い築地に囲まれた静寂な空間に艶麗な慎しさを与えていた。
廊下の向うからもう由吉らの笑声が聞えて来た。夕暮の迫る砂の薄明りを眺めながら、矢代は、今夜の会は自分にとっては一つの査問会のようなものになるのだと思った。自分に関する千鶴子の兄の由吉と槙三の報告が、彼女の母へ届いている現在、新に侯爵のも加わってまた届けられるにちがいない以上は、やはり自分の運命を左右する一夜ともなるのだった。それも侯爵夫妻の一番知りたい自分たちのことは、千鶴子と自分との秘やかな交渉が、どの程度のところまで進んでいるものか見届けたいことだろうと思うと、二人の間が、すでに実際の結婚以上のものまで済んでいると見られていることも、十中の九までたしかな事だった。しかし、若い男女の二人が自由に外国を渡り歩いているときに生じる必然的なことが、果してそのまま当然に生じたかどうか、侯爵の方とて聞き糺して見ることも出来ず、また矢代にしてもそれだけは、こちらから示す明らかな表情もなし得べきことでもなかった。いま何か、矢代はふとそんな微妙なことで苦しさを感じたが、塩野の個展の祝賀会とはいえ、実は、侯爵や由吉たちが矢代と千鶴子から、そこの所も暗黙に聞き取りたい査問会の内容も含まれている夜会となることだけは、廊下の光りを踏みつつ彼も覚悟を決めるのだった。
「やあ、いらっしゃい。さきほどは失礼しました。」
離れの洋館の中へ這入ったとき、田辺侯爵は資生堂の昼間の画廊のときとは違い、打ち解けた笑顔の挨拶だった。集りの中には由吉を初め、矢代の知らぬ人人も多かったが、婦人たちはまだ誰も姿を見せていなかった。
洋館は古風ながらも、後から改造したと見えるコルビュジエ風な明るさがあった。麻布の方を一望に見降ろせる側一面に巨きなガラスを繞らせ、鼠の地色に目立たぬ赤の模様の入った絨毯が、部屋の調度や庭を害せず落ちつけた。黒塗の棚に初期李朝の秋草の壺が一つ置いてあって、壁額に嵌った十七世紀の銅版画と好個の対照をなし、高雅な趣味の滲み出ている部屋だった。
ストーブの傍に集った人人の中では、スペインの内乱に関する談が続けられている最中だった。その中の一番最近にパリから帰って来たという若い外交官が、傍の佐佐という画家に突然云った。
「そら、あのクーポールにいたスペイン人のボーイね。よく僕らの傍へ来た男があるじゃないか。あれがね、新聞を見ていて僕に、もうこうしちゃいられない。自分の方は負けて来た、いよいよ自分も祖国へ帰って戦う、と決然として云ったよ。どうもあれは、反フランコ派の方らしいんだが、しかし、どっちにしたところで、僕はそのときのあのボーイの顔色には驚いたね。決死の色だったよ。」
一同は暫く言葉がなかった。矢代は黙って聞きながら、クーポールにいたスペイン人の顔をあれこれと思い泛べるのだった。そして、もし自分の国がそんな状態になったなら、自分もやはり千鶴子のことなどもう考えてはいられなかろうと思った。パリにいる当時、たとい嘘だったとはいえ、日本と中国とが戦争状態に這入ったというニュースの大きく出たことがあったが、自分も帰って直ちに戦う覚悟をしたその日のことを思い出した。そして、そのとき第一に頭に泛べたことは、ある誰か詠人の分らぬ衆人の中にひそんだ歌だった。
「おん前に捧げまつらん馬曳きて峠を行けば月冴ゆるなり」
矢代はこの歌が好きだった。もう何の飾りもなく心のままに歌い、胸中澄みわたっている人馬一体となった爽やかな調べの籠った素朴さがあった。それも古人の歌ではなく現代人の作であるところに、心を別け持ってくれている嬉しさを矢代は感じた。
「しかし、どうも中国も危くなっているね。スペインの内乱とは関係があるよ。」
とこう云い出したのは由吉だった。
「それはある。他人事じゃなさそうだ。」
と外交官の速水が、高い尖がった鼻を手巾で拭きながら云った。
「これで世界歴史を通じて調べたものの云うことだと、二年間の平和を得るためには、人間は二十四年間戦争をしていることになってるそうだよ。そうしてみると、平和というものは、実に宝だ。徳川時代は三百年の平和だが、そんなのは殆んどないといっていいんじゃないか。」
会話の進むにつれて、矢代は、パリの真紀子の部屋で中国人の高有明と議論をしたある一夜のことを思い出していた。高は間もなく帰るころだと思うと、なおよく彼とも話してみたいいろいろなことが泛んで消えなかった。
しかし、丁度、こういう緊張した話の盛り上って来ているところへ、廊下の方から久木男爵が、
「どうも遅くなりました。」
と云って一同の方へ歩いて来た。
「今日のノートル・ダムのお写真は、あれは苦心をされたでしょうね。わたくしもあのお寺を写してみたことがありますがいつ見ても良いものは良いですね。」
男爵にそう云われて、塩野は答え難そうに笑ったままだった。
「どうですか。写真の方でも外国人と日本人とは、見方がだいぶ違うでしょうね。」
と男爵はまた鋭い質問を続けて塩野を見た。
「違いますね。一度フランスの専門家に、写したものを選んでみて貰ったことがありましたが、これが良いと云って抜き出してくれたものは、どれも向うで苦心をして撮ったものじゃないんですよ。日本でもいつでも撮れるものばかし抜いてくれるので、何んのために自分はフランスまで来たんだろうと、しばらく僕も苦しみました。」
若い塩野はその当時の苦しみを今もなお続けているらしく彼には珍らしい暗い表情になってうつ向いた。
「いや、それは画家もそう云いますよ。フランスへ行くと、却って良い画が描けなくなると云ってた人がありましたよ。」
「人間もそうかもしれないぞ。」
と由吉はパイプにきざみを詰め詰め云った。みなどっと笑い出した。
その波立ちが、急に一同の表情の上に逆な明るさを与えて一層それから活き活きと談が弾むのだった。
「わたしも十六のときから二十六のときまでロンドンにおりましたが、どうも外国を知らぬ先代の方が、わたしより豪いようです。皆さん方はどうですか。」
久木男爵のそう云って見廻す顔の中から、音楽家の遊部が、
「それはやはり、僕もそのようだなア。」
と歎声を洩らして笑った。
この遊部は資生堂の画廊へ昼間来ていた藤尾みち子と結婚して外国へ二人で行ったのだが、帰るとすぐ二人は別れてしまった。
食事前のアッペリティフが皆の前に出たころ、婦人たちが遅れて這入って来た。千鶴子もそのとき藤尾と並び男の客たちから少し離れた椅子にかけた。
「久木さんお幾つですか。年より若くお見えじゃないですか。」
と由吉が訊ねた。
「わたしは丁度赤い襯衣《シャツ》を着る年ですが、芸術が好きだから一向に年をとらんのですね。やはり芸術というものは、経済よりも良いものだということが、このごろやっと分って来ました。わたしは外国にいるころから、自分の代になったときの事を考えて、そっと自分の弟子たちに金を遣わせて将来に備えて置きましたが、自分の代になったとき、そのものらに仕事を全部まかせてしまったものですから、今は楽ですよ。午後の三時ごろまではまア、会社へ出ておりますが、後の時間はもう全部芸術に使っているのですがね。わたしは自分を実業家だなどとは思っちゃいないので、自分は何んだろうと考えると、やはりわたしは芸術家だと自分を思いますね。実業よりも芸術に専心しているときの方が、わたしの性分かもしれぬが、気持ちが美しくなって一番真面目になれますからね。」
日本の実業家連中から親玉のように見られている久木男爵のひそかに洩らしたことが、そういうことを云いたかったのかと矢代は面白く思い、聞き捨てにならぬ美しい心の一面だと解した。画家の佐佐も傍で何か感動したものがあったと見え椅子の背の上で体を動かした。
「じゃ、作曲は今でも毎日されるんですか。」
数学や作曲によく専心する久木男爵の噂話を、由吉も知っているらしくそう訊ねた。
「一日に少しはどんな日もやりますが、それよりも、やり出すと、どこかへ旅をして、一部屋へ一週間ばかりわたしは籠るのです。そのときは朝から人をよせつけません。やはり、そうしてじっと心が澄んで来ないと、雑事がちらっとでも頭に泛ぼうものなら、もう駄目です。良い音が出て来ませんね。」
こういう事を云うときの久木男爵の眼は急に変り、澄み透った光を泛べた。気ままそうな小柄な身体の持ち扱いながらも、争われず芸術に錬えられたものに共通な誠実さが顕れた。
「しかし、あなたのような方だと、世間が誰も芸術家だと思わないですから、そこがお困りじゃありませんか。」
と、田辺侯爵が半ばひやかし気味に云った。
「そうそう。わたしの悩みはそれなんですよ。どんな善い物を作っても、日本の人はわたしが作ったものだとは、思ってくれないのですから、これは残念です。一生懸命になっているものが、一つも真面目に相手にされないなんて、こんな悲しむべきことはありませんよ。」
思いがけなく富貴の悲しみを聞きつけた思いで、矢代は久木男爵の孤独な顔を注意した。
「じゃ、まだわれわれの方があなたより幸福なわけですかね。」
と音楽家の遊部がアッペリティフに顔を染めて笑った。
「いや、それは本当ですよ。わたしも日本人が相手にしてくれないので、仕様もなく、このごろはずっと外国で作品を発表しておりますが、外人はみな真面目に取り扱ってくれております。相当にこ
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