子の傍に立っている黒い洋装の美しい婦人を彼に紹介した。
「このかた田辺侯爵夫人です。」
 あまり不意のことで矢代は黙って会釈をした。夫人も同様に静かな会釈だったが、服装の趣味の良さはたしかにあまり見かけない人だった。襟飾のレースも小さく、細い優雅な長靴の斜めに切れ下った切り口との調和が、端正な姿をきっちりと纏めて狂いはなかった。どこか笏を持った推古朝の宮廷人を思わせる服装だった。
 矢代はこの夫人が自分たち二人の結婚を整えてくれる人の一人かと思うと、自然に謙遜になるのだった。
「あれからあなた、御病気はなさらなくって?」
 棕櫚竹の葉のなだれかかった窓際で、千鶴子は矢代に訊ねた。
「まだ一向にしそうもないですね。もう逃げてくれたのでしょう。槙三さん、また学校ですか。」
 と矢代は訊ね返した。東京へ戻ってから母に伝えた槙三の報告は恐らく芳しくないにちがいないのを、前から矢代は覚悟していたからだった。
「ええ、ありがとう、元気でいっておりますわ。」
 日の射しかかっている方へ踉めき出る煙草の煙りを眺めながら、千鶴子の顔は幾らか沈みかかったが、また支え直す笑顔も消えなかった。矢代は、槙三に山の湯の中で話したようなことを友人たちに云った結果は、丁度パリでの久慈とのようにいつの場合も悪かった。それを承知で槙三にも話したのは、一つはその避けられる悪結果を延ばすより、一時も早く通り過ごさせてしまいたかったからだったが、友人たちでさえ顔を顰めて攻撃する事柄を、撰りに撰って結婚の相手の兄に話さねばいられぬ苦痛も、しかし、まだまだこれで鎮まってはいないのだと思った。もしこの自分という日本人の本心をのべる心をさらけ出し、熄むに熄まれずうち明けて言葉を云えば、そして、もしそれを貫き通してゆきたい思いをこれ以上続けてゆけば、どの友人たちからも見捨てられるだけではなかった。千鶴子との結婚も砕いてしまう作用を強くして行くばかりの不幸の来ることも分っていた。何か自分の行く所すべて人人は飛び散っていなくなる火を、もう自分は抱き擁えてしまったのだろうか。――
 矢代は壁面のノートル・ダムの写真をまた眺めた。このカソリックの本山の写真の前では、これで千鶴子も、今の彼の姿を眺める気持ちも、常とは違うであろうと矢代は思った。しかし、それも秘かにそっと隠し、彼の苦しみを分け持とうと努めていてくれる千鶴子の優しさが、さきから矢代には分っていた。互いに慄える手を探り合って握りつつも、どこかに身の近づけぬもののある画廊ながら、矢代は、もしこれで千鶴子にいのちを失う踏絵のような場合が来れば、あの、細川ガラシヤの死の苦痛を軽めで死んだ小笠原少斎のように、自分もともに千鶴子と死ぬかもしれないと思った。
「このかた、田辺侯爵。」
 とまた暫くしてから塩野は矢代の傍へ来て云った。一度は会うことを約束されていた人が、いよいよ初めて顕れた緊張の仕方で矢代は礼をした。西洋での侯爵の日常をおよそ聞き知っている矢代だったが、想像とは違い侯爵は無表情なのどかな丸顔で、ポケットから手を出し黙って無造作な会釈をしただけだった。
 田辺侯爵にはどこといって目立った所はなかった。しかしやはりその無表情な、一見平凡に見えるところに、油断の出来ぬ人を素直に眺め感じる静物のような品と、城主の位とを具えていた。こういう垢脱けのした人物は一番恐るべき人で、また気兼ねのない伸びやかさを人に与えるものだった。
「どうも疲れた。いっぱいお茶を飲みたいが、一寸行くかな。」
 塩野は主人側の遠慮のある表情で、脱け出す機会を覗いながら、それでもまだ続いて顕れる知人の方へ忙しく歩を移すのだった。そのうち由吉が巨きな体でゆったりと階段の口へ立ち顕れた。不思議とぱっと光りを人中に放つ明るさを泛べた微笑で、由吉は侯爵の方へ歩んで来たが、二人は顔を見合せたまま挨拶もせず、いきなり冗談を軽く一口いってから写真を眺めた。彼だけはまだ外套も脱がず悠悠と煙草に火を点けると、首を緊めすぎた襟を弛める風に頭を廻して矢代に一寸笑った。見ていると、侯爵と由吉は実に呼吸の合った粋人同志だった。
「そうそう、今イスタンブールを廻っているよ。」とか、「グラスから手紙が来た。」とか、こういう会話のはしばしが、塩野を包んで一団の中から矢代の方へ聞えて来た。多分、外務省関係の知人たちと見えたが、またそれとは別の一団もあって、彼の血縁関係の人人らしく、この方は控え目な静粛さで隅の方に寄り塊ったままだった。
 塩野の両親は早く亡くなって今はいなかった。この孤児の彼を叔父が育て外国へまで遣っていたのだが、彼の叔父は一度国務大臣にもなったある有名な実業家で、今もなお塩野はこの家に起居していたから、恐らく親戚たちの一団もその叔父一家を中心にした集りにちがいなかった。実際この一堂の中を見廻していると人に愛せられる塩野の性質の自然に醸し出すなごやかさが溢れていた。
「このかた、パリでピアノをやってらした、藤尾みち子さんです。」
 と塩野はまた一人の婦人を矢代の傍へ来て紹介した。藤尾という婦人の服装は、これまたどういうものか、侯爵夫人と殆ど同一の服装だった。長靴の切れ目にぴんと生えた摘まみの羽根が、一人のときは面白い風情があったのに、二人並ぶと少し鬚のように目立ったおかしさに変って来たが、それでも他の集りとは一種違った偉観となって、場中に特殊な空気を添えていた。
 藤尾は侯爵夫人と交遊も深そうに見え、いつも二人が並んで話すので、自然に千鶴子は割られた形となって再び矢代と話す機会が多くなった。
「あなた、今日はどうなさるの。あたしたち今日は侯爵に御招待されてるんですけど、あなたもいらっしゃいません。」
 千鶴子は人目を避ける風に棕櫚竹の葉蔭で声をひそめ矢代に訊ねた。
「しかし、それは――」
 まだ誰からの音沙汰もないときに矢代も勝手な返事も出来かねた。
「いいんですのよ。あなたさえおよろしければ。」
「そういうわけにもいかないでしょう。」
「でも、御存知なの。行きましょうよ。」
 何かもう侯爵と千鶴子との間に打ち合せもあるのかと一寸矢代は考えたが、しかし、今日だけはやはりまだ早すぎる懸念もあって、彼は返事を云い渋った。千鶴子は急に視線を変えて塩野を見詰めていてから、彼と知人たちの会話の途切れる隙を見て傍へよっていった。何か云われたらしく塩野はすぐ頭を掻き掻き矢代の方へ歩いて来た。
「今日は上っているのですっかり忘れていた。今日ね、これがすんでから、侯爵の別邸へ招待を受けてるんだが、君も一緒に来てもらいたいって、侯爵から頼まれていたんだよ。どうも忘れていて失礼。僕のお祝いだそうだから枉げて出てくれないかなア。」
 塩野の祝賀会だとあれば矢代もむげに断れなかった。
「じゃ失礼して出席させていただこうか。」と矢代は答えた。
 観覧人の出て行く後から後から、また新しく人人が這人って来た。塩野の知人たちも同様帰った後、つづいて別の知人たちが階段を昇って来たが、その中に一人塩野の叔父の友人で、日本で屈指の富豪といわれている久木男爵の姿が見えた。この男爵は支店を海外に沢山持っている関係上ながく外国で暮した人だった。背はどちらかといえば小さくまた痩せていた。薄鼠色の洋服に鼻眼鏡に似た眼鏡のせいもあって、年よりはるかに若く見え元気だった。この人は田辺侯爵とも知人らしく彼を見つけるとすぐ歩みをよせて来て、
「どうも懐しいですね今日は。」
 と壁面の写真を眺めながら挨拶した。小柄ながらも、いたって無頓着そうな、飄飄とした味いのある顔だったが、ときどき異様に鋭い閃きを見せる眼つきも伴い、人を見抜く才能の豊かさが頷けた。すると、丁度その後を追うように昇って来たこれも小柄な老人が、いきなり男爵の後から両肩をぐっと掴んだ。そして、子供が戯れるような恰好で、後の男を見ようとして振り返る男爵の眼を避けつつ、右に左に身を翻してふざけ始めた。観衆は何事かと二人の様子を眺めていたが、老人はそれらの視線には一向頓着なく、なお真顔で執拗くふざけつづけていた。
「誰かな、む? 高橋君か。どうも巧妙に逃げるところを見ると、――北浜君らしいぞ。」
 踉めきながらそういう男爵の背広が、だんだん後へ脱げそうになって来ても、老人はまだ赦そうとしなかった。
「やア、君か。」
 とうとう見つかって男爵に云われたとき、初めて立ち上った老人は、今度はにこりともせず、
「今日は苦労をさせられた。今日中に五十万円集めよという命令さ。それで実は追っかけて来たんだけれども――ああ、くたびれた。」
 と云って両腕を曲げ後に反った。この間老人は少しの表情もなく、他人の方を一度も見ようとしなかった。矢代が後で塩野に老人のことを訊ねると、それは有名な船会社の社長の木山だということだった。一介の貧書生から実業界の大物に登り上り、一時は成金の代表者のように云われたことのある、この木山の力量の冴え方については、前からたびたび矢代も聞いて知っていた。が、よく見ていると、誰からも一度は軽蔑を買いそうなその貧しげな姿ながらも、とりわけ、動きのない一重瞼の薄さに、鋭敏俊慧な直感力が潜んでいると矢代は思った。
 会場の空気に疲れ、矢代がお茶を飲みたくなったころ、塩野の叔父が黒の背広で会場へ顕れた。内閣を引いたばかりのこの人には、矢代は今初めて会うのだったが、写真ではいつも見ていてすぐ分った。
 老人たちは矢代には分らぬ他人の話を、暫くより合ってしているだけで、あまり写真の方には気をつけて見ようともしなかった。
 塩野の叔父は意志の強そうな、やや金窪眼の老人とはいえ、声には張りが籠ってきんきんとよく響き、何より実行力の溢れたその確実そうな風貌には、世の荒波を押し渡って来てなお衰えぬ厚みがあった。殊に肩から胸へかけての手堅い力の盤踞した感じに、容易に内には籠りがたいまだ青年の名残りさえ感じられた。
 矢代は知人攻めに会っている塩野を待っていても、これではなかなか茶も飲めそうな様子もなくひとり下へ降りていった。出口のところで後から彼に追いついた千鶴子が、
「何んだか時間が半ぱね、夕御飯まで歩きましようか。」と誘った。
 矢代は暫く茶を附き合って貰いたいと云って、資生堂の喫茶部へ這入ろうとした。が、千鶴子は今さき這入ったばかりだからどこか別の所をと云ったので、二人は暫く群衆の流れの中に没し南の方へ歩いていった。
「御招待いらっしゃることになりまして。」と千鶴子は訊ねた。
「塩野君は出ろというので、そのつもりでいるんですが、大丈夫ですか。」
「大丈夫って?」
 千鶴子はまた別の自分たち二人の結婚のことを考えたらしく訊ね返した。
 矢代はそれには黙って答えず歩いていてから、
「今日あそこへ集った老人連、なかなか面白いですね。あれが明治、大正というものの代表者の一部の姿かと思って、僕は非常に面白かったですよ。あれが明治前だと、もう少し違っていたのだということも分って今日は愉しかった。この次は僕らのときだなア。」
 と、矢代はこう千鶴子に何げなく云ったものの、もうそれは誰か別人に云うようにひとり呟くようだった。
 新橋を渡ってから右に折れて、また二人は桜田本郷町を真直ぐに歩いていった。その通りは家具店が多く、椅子や卓子が店頭高く積っていた。退屈をしたときパリでよく、家具店をこうして千鶴子と一緒に見て廻った矢代は、そのときのことをふと思い泛べた。そして、今は自分たちの結婚生活の後に使う家具類を、自然に採択する注意もまた彼は怠らないのだった。
 ある店さきまで来たとき、矢代は美しい革製の揃いのソファを二つ見つけて中へ這入っていった。デザインも簡素で弱りのないひき緊ったところに、立ち去りがたいものがあった。
「いいなアこれは。」
 矢代が小首をかしげると千鶴子は傍から、
「綺麗ね。何んだか見たことのあるようなものだけど、あたしもこれが一番好きだわ。」と云った。
 彼はそのソファに腰を降ろしてみているうち、画廊で戯れたさきの木山老人の姿を想い出して傍の千鶴子を仰いだ。
「君もちょっ
前へ 次へ
全117ページ中79ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング