て来ている縁談に挟まれ、日夜苦しくなっている立場のことなど、精しく矢代に談そうと思って果せなかった残念さなど書いてあった。そして、終りの方に、
「でも、今夜はあたくし愉しゅうございましたわ。これで帰りましても、暫くは元気でいられることと思いますの。あなたのお気持ちお変りにならないこと存じました上は、どんな我慢もする決心でおります。ただ母のことだけは、あたくしの決心が固まれば固まるほど、暫くは母も意を和げてくれなさそうに思われますので、さぞあなたに御不快をお与えすることと存じまして、それだけは心配でございます。外国へまいりましたときは、帰れば母との約束のまま、母の奨める人とと、そんなに軽軽しく考えておりましたのに、こんなに自分も変ってしまいましたのは、どういう神さまのお気持ちでございましょうか。私の喜びも早すぎることだと思わせるようなことなどもう二度となさらないでいただきたいと念じます。」
千鶴子の文面に表われた歎きや歓びは、まともに矢代にも響いて来てひと息に読み終えた。しかし、最後に約束のカソリックの誓詞が出て来たとき、急に矢代は胸を突き跳ねられたように感じて読み下すのが恐ろしくなって来た。やはり、こういうことは訊くものでもなく、読むものでもなかったと彼は初めて後悔した。
「ああ天地《あめつち》のもと、われら敬愛の心もて、御身の御座所《みくら》の前にかく平れ伏し、讃美の誠を捧げまつる。われら身をきよめ御身を敬いまつることを人に弘め、歓びに心とどろき、僕《しもべ》たる身を貴しと思い、御身を讃めたたえまつりて、その大いさを説き示し、み保護のもと歓び行いて、御宿りのいかばかり美しきかを人に教えまつらんことを希う。かくわれらあらん限り、御身のみ心をおのれとし、み栄を高くかかげて、異端者の悪しき思いやあまたの人の心なき業、また、そそっかしき心もて受けさせ給う侮辱《あなどり》をも、そそぎまつらんことを希う。」
ここまで読んで来たとき、矢代はもう普段の気持ちではおれなかった。その中の非人間的な浄らかな呼び声の流れる中の、特に、異端者の悪しき思いをそそぎまつらんことを希うというところまで来ると、自分を突き伏せて来るように感じ思わず矢代も身構えた。今まで文面から受けた歓びも素直な歓びとはならず、むしろそこから歪みを帯びただけではなかった。固く重い鉄筋がずしりと落ち込んで来たような手のつけようもない異様な気味悪さで乗しかかって来るのだった。
勿論、手紙の終りには、そういうことを勇気を出して正直に書いた自分に対して、気持ちを悪くしてくれぬようにとあったが、それでも矢代は身の沈む思いで寂しかった。これほど希いをかけて自分の愛して来たものが、こんな祈りを毎日していたのであろうか、またそのために身の慎しみを今まで千鶴子が支えつづけて来られたのだと思ってみても、矢代は苦しくなり、そぞろに怖れを感じた。しかし、もう彼はどうしようもなかった。
その日は一日矢代は本が読めなくなった。夕暮になってから彼はランプのホヤを磨きにがかった。油煙で黒く煤けている部分に布を通し、呼吸をガラスにふきかけては拭くのだがその間も、曇りの消えて透明になってゆくホヤに窓際の雪が映って来ると、また彼は千鶴子の誓詞の言葉を思い出した。
「異端者。」
何んとなく矢代はこう呟いて自分を省るのだった。それは「不徳漢」という一種の刻印を、誰からか無理に額に打ち込められたことと同じだった。今までにもこんな言葉はたびたび見た。しかし、今のように直接自分に向けて云われたことはまだなかった。彼は初めて異端者と呼ばれた無気味さが、胸に擬せられた刃となって消えなかった。彼はその光った尖を見詰めて脱さず、絶えず何ものかに立ち対う気持ちがつづいて夜になった。が、もし千鶴子と結婚すれば、いつもこんな刃と対う日日になるのだろうか。しかも、それが自分の先祖の城を滅ぼしたものだとは――。
夜が深まって来ても矢代には笑うに笑えぬ重苦しさがつづいた。月の鋭く冴えた谷底の方で雪の崩れ落ちる音がしていた。矢代はストーブに薪を投げ込み、部屋をいつもより暖くして湯気を立て、陽気に気持ちを引立ててみることに努めてもみた。しかし、安土、桃山から五十年の間日本の多くの優れた頭を悩ませたその刃であった。また、明治から今まで七十年の間、同様に優れた人人の胸に突きつけられ、今もなおどちらを向こうとも面前に立ち顕れ、「不徳漢」と狙って来る精神の白刃であった。
それも日本人のみならず、世界のどこの国の人間も、一度はそのような目に会わされ、また以後生れて来るどんなものも、おそらくこれからは避け得られそうにもない刃だった。
「異端者か。なるほど――」と矢代はまた呟いた。
実際、この一ことの言葉を云われたために、どれだけ多くの人人がこれと闘い、自分の生命を奪われていったことだろうと矢代は思った。しかも、今やそれが矢代の意識《こころ》にも迫って来たのである。たとい千鶴子が直接彼に云わなくとも、何ものかが千鶴子を通し、指で彼をさし示して云ったのと同じだった。
しかし、矢代はそういう場合に、その異端者である自分がいよいよ千鶴子と結婚するのだと思うと、差し向けられた刃より、むしろ、それに滅ぼされた自分の先祖たちが、自分の背後から立ち襲って来る呻きの方を強く感じた。腹背から受けたその差迫った険しいものの間で、矢代は、辛うじて呼吸をしている白白しい時間をつづけるばかりだった。
丁度そうしている胸苦しい時だった。谷を下って行く貨物列車の音がして、それが消え去った夜空の静けさの中を、宿の方から鈍く重い鼓の音が弾んで来た。鼓は暫くは何気なくただ、「ぽん、ぽん、――ぽぽぽんぽん」とつづいていただけだったが、そのうちに腹に溜った悪液を押し出す作用をして、一音ごとに首が延び上り、軽くなる腹部とともに鼓の音も冴えて来た。
前から矢代は楽器の中で鼓が特に好きだった。そのせいもあってこの音をきいている間、彼はどんなことも忘れて聴き惚れる癖があったが、折よく丁度こんなに聞えて来たその偶然が、何ものの仕業か矢代には嬉しかった。
暫く鼓は打ちつづいて絶えなかった。遠い闇を貫いて腹を響かして来るその音はおそらく古代の遠くから伝わり流れて来て、まだそのまま途絶えぬ唯一の楽器の音にちがいないものだと思った。
「ぽん、ぽん、――ぽぽぽんぽん。」
矢代は奇妙に気持ちが明るくなるのを感じた。たしかに今の矢代にとってそれは救いの音のような啓示のある打音だった。彼は戸を開けて外へ出てみたくなって靴を穿いた。
雪の峰峰に抉られた空の底で月が鳴り出しそうに光っていた。矢代はふとチロルの山の上で、氷河に対い祈りを上げていた千鶴子のことを思い出した。あのときの千鶴子の祈りはああ、そうか、――矢代は白装束で跪いていたあのときの千鶴子の覚悟を今初めて感じたように思った。あのゲッセマネのキリストの祈りも知らず、自分は西洋を旅していたのだろうか。
しかし、なお鼓の音は雪の中を響いて来て止まなかった。雪よりも氷の中の祈りを見よ、というように、――
「ぽん、ぽん、――ぽぽぽんぽん。」
とつづく打音は、矢代にある勇気を起させて澄み透って来た。それは積み重った無数の死の中を透って来て蘇らせる音であった。キリストさえも蘇らせる音に聞えた。彼は坂路を頂きの方へ越して行ったがまだ踏まれぬ雪がますます深くなって来た。人家の灯はどこからも見えなかった。
川は凍りつき氷の裂け目から流れ出ている水面だけ、僅に月に射し返って明るかった。水鳥が一羽ゆるい羽音をたてて飛んでいった。矢代は水面に明るく渦巻いている月の光りを眺めていると、どういうものか一度みそぎをしてから日本の中を歩きたい気持ちを強く感じた。もし千鶴子と結婚するなら自分はそれを済ませてからにしたいと思い、越後の国境いの高原の方へ出ていった。
平坦になった路と並んで続いている瀬が、川床の石に捻じ曲り、綾を描いて潜り合う細流に月がますます冴え耀いた。
矢代が東京へ戻ったときは、塵埃のかかる垣根から覗いた紅梅の蕾に粉雪が降っていた。樹の梢も薄紫の色を含み、早春の静かな歩みを知らせた照り翳りの日が多くなった。こういう日、塩野の写真展が資生堂の画廊で展かれることになった。矢代はバスの停留所まで出かけたとき、いつも見上げた欅は空から姿を亡くしていた。根元の太い切口が鮮やかな白さを残したまま、その周囲に広い空地が出来ていた。矢代は日光に満たされたあたりのさっぱりした表情を、移り変って来た新しい隣人を見る思いで覗いていたが、暫くはなじめぬながらも、最早や過ぎた日の歎きは彼には起って来なかった。
資生堂へ行ったとき、ホールの受け付けの椅子の傍で矢代は塩野と会った。塩野はいつものときより少し興奮の面で近よって来て、
「長かったんだね、雪の中。――そうそう、さっきここに千鶴子さんいたんだが、お茶飲に隣りへ行ってるよ。行こうか。」
と塩野の癖の無造作さで矢代を誘った。
「まあ、写真を見せて貰ってからにしよう。壮観だね。」
矢代は壁面に並んだ数十枚のノートル・ダムの写真をひと渡り眺めた。見覚えの怪獣や尖塔、廻廊やステンドグラス、側壁やキリストの彫像など、大きく引き伸ばされた鮮明な姿で、一瞬カソリックの大本山の実物が矢代の頭の中に氾濫した。
彼はベンチで混雑した気持ちを鎮めて順次に左の方から眺めていった。初めの間は気づかぬことだったが、間もなく額縁の中の尖塔の鋭い美しさから、再び危く胸を刺して来る刃を感じるのだった。彼はすぐ千鶴子と会うのだと思うと、今はそういう危い目も振り払って進んでいる自分だと思った。しかし、さまざまな思想の流れの中を突き抜けて来た強靭無類なもののその美しさも、こうして胸に受ける白刃の冷たさ鋭さと映るのが――この自然に対決を迫って来て熄まぬものは何んだろう。――
明らかにただ美術として眺めていられぬものが、この科学寺のどの一枚の写真の陰影の中からも射していた。またそれは、幾度となく世界を覆していってまだ熄みそうにもない不思議なものだのに、それを思わぬ限りは、誰も彼もこの写真の前をただ過ぎぬけて通って行くだけだった。その無邪気さの中には、なお一層ぴちぴちと跳ね返った、哄笑するものの不思議な力が潜んでいるのだと、矢代は思った。それらの群衆の誰もは、皆ほとんど異端者ばかりだった。
「どうも写真というものは実物を考えさせて困るね。」
矢代は狂人のようにノートル・ダムを撮りつづけた塩野の熱心な姿が泛んで来て、傍の塩野にまた云った。
「少しぼかしになってるが、やはり君は考えたなア。」
「うむ、少しぼかしてみたんだ。この程度にぼかしたいと思うそこんところが、どうも難しくってね。」
「そこのところか。なるほどね。」
塩野というこの写真の達人の苦労が、カメラという科学の眼をぼかす苦しさに変ったこれが個展かと思うと、矢代には、また更まった意義深いものが生じて来て壁面を見直した。
ホールに観覧人が増して来たがみな静かだった。何かしかし矢代には見ているうちに、考えきれないものばかりを見事な統一をもって緊めているのを感じ、優れた塩野の腕前も次第によく分って来るのだった。
「やはり君は東洋の名人だね。カソリックを少しぼかして見せなければやりきれないんだから、なかなか親切な人だ。どうも有り難う。」
と矢代は礼をのべて笑った。
窓から外を見ると、日を浴びた群衆の帯が建物の切れ目いっぱいに流れつづけていた。これも異端者ばかりだった。
塩野は入って来る知人の応接に暇もなくあちらへ往ったり戻ったり絶えずした。
寺院の写真のせいかみな誰も脱帽で、外套まで脱いだ観覧人の姿がホールを美しく浄めていた。
そのとき矢代の肩に軽く手が触り、千鶴子が後から彼を呼びとめた。
「山ではありがとう。」
「やア、あのときはどうも――急に街の中へ出て来たので眩暈いがしましてね。由吉さん、どうしていられます。」
矢代がこう云っているところへ、塩野はまた寄って来て、千鶴
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