て人には分らない点が、どうもいつも損ばかりして来たのですね。また一つはそこが良いのだけれども。」
矢代はそう云いながらも、ふと来る途中雪の中で見た、玉の緒をつらねて飛び去った夢の千鶴子の姿を思い描いた。そして、あの千鶴子とこの千鶴子、と思い較べ、なおよく眼の前にいる彼女を更めて見直すのだった。
「じゃ、古神道って、カソリックも赦して下さるものなのね。」
千鶴子はそれで初めて安心したと云いたげに眉を開いた。
「それは明治六年の三月十四日以来ですよ。僕はちょっと調べてみたんだが、その年には内閣の大臣が、家族の葬式をカソリックの式にして、外人の導師に随って公然と行っていますね。その日までは、カソリックのことを邪宗門といっていたのが、それからは逆に古神道が邪宗といわれる風が生じて来ているのです。それも日本の法律が神道ではなく、あくまで古神道を中心に創られているのにですよ。いつの間にやら万事すべてがあべこべなんだ。」
槙三はやはりにやにや薄笑いを洩しながら御飯を食べていた。
「僕はそういう風なことに気がついたもんだから、せめて千鶴子さんのお祈りのときに云われる言葉だけでも、知って置きたいと思って、それで実は、さっきも、ああいう失礼なことをお訊ねしたんですよ。訊ねざるを得ないじゃないですか、僕とすれば。」
矢代は食い物のこともうっかり忘れて云ったので、声も幾らか高かった。
「でも、あのときは無理だわ。あなたの仰言り方があんまり突然で、何んだかあたし、踏絵を命ぜられたみたいに思えたんですもの。」
「踏絵か、なるほどね。」と矢代は云った。
「あなたの身代りに、僕が踏絵をしようというときだったのに。――実際もし日本が徳川時代に、実権が幕府になかったなら、キリシタンの大虐殺はなかったですよ。もしあのとき明治のように、古神道が法律を動かす中心だったら、踏絵などという残酷なものはなかったと僕は思いますね。」
「じゃ、あなたのなさる古神道のお祈りっていうのは、どんなに仰言るの。」
「人のは知らないが、僕のはただイウエと発音するだけなんですがね、これを早くいうと、いわゆる気合みたいになって、エッと聞えるけれども、まアそれでも良いのです。あなたなんかのは長長と、他宗に聞かれちゃ困るようなことを、云わなくちゃならぬのでしょう。」
「イウエっていうのは、それはどういうことを意味するんですか。」と槙三は訊ねた。
「言霊ではイは過去の大神で、ウは現神でエは未来の神のことです。ですからこの三つを早く縮めて一口に、エッと声に出してお祈りするのですが、そうすると、日本人なら誰だって元気が満ちて来るでしょう。このイという字とウという字とを大昔は石にして、勿論古代文字ですが、どこの国へも一つずつ神社の御本体として祭らせたのですね。ところが、淫らな形をしているという理由で、淫祠だなどと云って、引っこ抜いてしまったのです。『イウ』という、この二つの言霊の根本を引っこ抜いたものだから、さあそれからは日本が大変だ。しかし、日本人は困り出すと、何んのことだか分らずとも、エッといって、元気になって何んだってやっちまう。これが生という愛情ですよ。僕のお祈りも、まア簡単に云えばそんなものですが、今度は一つあなたのお祈りを聞かして下さい。」
と矢代は千鶴子を見て云った。千鶴子は何か云いかけようとして、やはり言葉を反らせた。
「あたしのは紙へ書いて、明日帰るときお渡ししましてよ。長いんですもの。でも、あなたの仰言ることだと、あたしにも古神道はあるんだと思って安心出来ましたわ。今夜はほんとに良いお話承って良かった。」
千鶴子は気晴れのした手つきでお茶を淹れ、矢代の前に出した。しかし、槙三だけは食事が終ってからまだひとりにやにや笑ってばかりいた。
「しかし、さっき仰言ったようなことで、近代人が満足出来るものですかね。」
暫くして、壁に靠れた槙三は茶を飲みつつ云った。
矢代を揶揄する風ではなくとも、明かにどこか彼に失望を感じた正直な声だった。
「満足なんて幸福は近代人にはないのですよ。」と矢代は云った。「ギリシアの幾何学だって、イウエ、みたいな三つの辺からなる三角形が根本でしょう。言葉だって同じで、五十音のどんな音にしても、イウエの三つの母音にすべてが還って来るということを、日本の古代人は知っていたのですよ。それから数というものが考えられたことですね。ですから僕は、ギリシアの文明は三角形から発展したに反して、日本の文明は三音からだと思うようにも単純になってるんです。あなたも一つ、新しい物理学の仮説を創ろうと苦心されるなら、この音と形との原理を一つにして、時間というものの素質をもう一度、エッと云ってみて、考え直されることですね。そうすると近代人の満足というものが得られるかもしれませんよ。」
矢代はもう半ば冗談のつもりで云って笑った。すると槙三は急にぴたりと微笑をとめて黙ってしまった。
「外国にも逆まんじがありますが、あの形は日本の言霊の原型図と似ていますよ。あれは日本では生命力というものの拡がりを幾何学化したものだということを、外国人は知っているのか知らぬのか、そこはまだ僕には分りませんが、恐らくは何かもっと違った理由があることでしょう。」
槙三はこのときだけ「うむ」と低くひとり頷いた。しかし自分の護っている学問の世界だけは微動もさせまいとする薄笑いが、再び彼の唇から洩れて来た。
次の朝矢代は小屋から温泉へ行った。千鶴子の部屋を覗いて見ると、槙三だけがまだよく眠っていたので起さず、彼は湯へ引き返した。濃霧がいつもの朝のように浴場に立ち籠めていて、昨日雪の中へマスクを捺しつけていた三人の婦人の声だけ、特別喧しく耳に聞えた。
矢代は湯の中に千鶴子のいることを感じていた。昨日の朝はどういうものか浴場で顔を合したくはなかったのに、今朝は間もなく別れて千鶴子が帰るためもあって、その前に二人きりで話したく思い、絶えず彼は霧の底からあたりを見廻した。槙三から離れてただ二人きりになるためには、実際この朝の浴場のひとときより矢代には時間がなかった。それも昨夕計らず千鶴子から云い出した婚約のこともあるのに、まだこんな場所を撰ばねばならぬ二人だと思うと、矢代は外国の旅というものの、二人が会うためにはいかに広く特殊な世界だったかを思い、今さらに驚き振りかえってみるのだった。
彼は浴場を一廻りしてみてから、隅の方で身体を流している婦人らしい人影の傍へ近よってみたが、身体の輪郭だけ朧ろに曇って見えるだけで、やはり誰が誰だかよく分らなかった。そのうち寒けを感じて来たのでまた湯に入ろうとしかけたとき、
「あら。」
と千鶴子が不意に水面から顔を上げた。
「やあ、お早う。」矢代は全身鏡を受けたように感じて云った。
「いついらしたの。」
「今さきです。」
二人は湯に浸ったまま朝日の射し込んで来る窓を見上げて暫く黙った。体で膨れた豊かな湯の連りに、乳色に染った眼界が雲間の朝の浴みかと見えた。少し離れた位置をとると、もう顔も見別けのつかないほど霧が舞い込み、ぶつかる湯の波紋が二人の顎の間できらきら光った。
「あれからよく眠れましたか。」と矢代は訊ねた。
「あれからお手紙書いたの。後でお渡ししますわ。」
「それはどうも――」
「なるだけあなたも早くお帰りになってね。」
浴槽の縁へ溢れる湯の波が、朝の眼醒めのようにぴちゃぴちゃ元気よく鳴りつづけた。窓の上の長い氷柱の垂れ間に聳えた雪の山山を眺めていると、矢代は二人の結婚の前に邪魔している多くの事柄も、もう考えるのはいやだった。湯の温まりが全身に廻って来たとき、彼は窓の傍へ行って身体を冷やした。そのあたりだけは霧が届かず、見るまにガラスが体の温気を吸いとって曇っていった。どの樹も雪にしな垂れた峡間の冷たさが膝もとから刺し上って来た。
「東京へ着くのは幾時ごろです。」
矢代はうっすらとぼけ霞んで見える千鶴子の方を向いて訊ねた。
「三時過ぎになりますかしら。」
日の光りが霧を切り、縞になって湯の一角へ透っていた。その光りの筒を仰ぎながら体を捻じて、千鶴子は湯を肩からかけ流す昔を立てていた。乾いた蛇口の雫を待ちかねた水仙の花が、湯気に煙った千鶴子の肌の後から見えるのも、別れの前の矢代には忘れがたい一瞬の光りのようなものだった。
東京へ帰る千鶴子らの汽車を送り出してから、矢代はひとり駅前の広場に立っていた。踏みつけられた固い雪に朝の日が射しているので、足もとの寒さにも拘らず肩は温かった。彼はすぐ山小屋へ引き返す気も起らず、何んとなく愉しいままに駅前の汁粉屋へ這入って火鉢に手を焙った。狭い家の中は日光に照り輝いた前後いちめんの雪で明るかった。彼は千鶴子のいるときよりも、むしろ今のひとりの方が延びやかに感じられ、汁粉を待つ間が、思いがけない幸福な時間になるのだった。
千鶴子の渡していった手紙が、ときどき外套のポケットの中で重く手に触れたが、彼はその手紙のために紊される今の愉しみの方が惜しまれ開封しなかった。今としては、ただ双方に結婚の意志が失われずあると分っているだけでも、彼は充分に恵まれたこととしなければならず、その他のことではたとい不満なことが多かろうとも、結婚を急ぐことさえしなければやがて消えるべき不満だった。
雪の中に蜜柑の皮の落ちているのを眺めながら、矢代は自分の母へ千鶴子のことを打ち明けることも考えた。しかし、それも彼女の母の気持ちの定らぬ限りまだ云い出すときでもなかった。もしそれを云い出したときの渋る自分の母の顔も想像出来た。殊に両家の財産や宗教や、血統などの違いを知った場合に起る母の足踏みを思うとき、
「さて、困ったね。」
と思わず火鉢の上へ胸をのり傾けて呟いたが、それもさほど弱ったことでもなく、そんなに呟いてみただけのようなものである。
雪に包まれた中で舌にのせる汁粉は美味だった。満目の白さが甘い液汁を包んだ塊のように見えて、日に解けとろりと崩れた部分の湿り工合まで、味わい深かった。
駅からの帰りは橇にせず彼は歩いていった。靴の下で根雪の鳴るのもこの朝のは踏み応えのある音だった。辷らぬように彼は両手を大きく拡げ、鰐足になって、ゆっくり歩くうち妙におおらかな気持ちを覚え、枯松葉を焚く匂いがどこからか掠みとおって来ると、それがまた奥山の匂いとなり一層胸が緊った。
街端れをすぎて影の消えた所へさしかかってからは、邪魔物もなく降り注ぐ光りでますます矢代は幸福を感じた。それは千鶴子とはも早や何んの関係もない、自然の法悦のようなものだった。
谷を見降ろし山を見上げる眼に、波うつ雪の白さがうす紫に霞んで見え、足もとのあたりからぼっと金色の光彩の打ちあがって来る中に、自分の影だけ長く後に倒れかかっていた。足に気をつけて歩いているためか、間もなく脇下から汗が流れて来た。彼は休んで空を見上げると、実にふかぶかとして澄んだ空だった。またそのあたりが千鶴子を橇に乗せて来たとき、風の荒れ狂った場所でもあった。あの風に乗って狂いはためく羽音を立てて橇を襲った、例の夢中の千鶴子の飛び廻ったところもこのあたりだ。それに今は、澄み返った空にくらげの浮き漂うような安らかさで、また何ものか透明な流れるものの姿を感じ、矢代は、その諦めたようなひっそりした静けさにふと悲しみを覚えた。
彼はあの夢の千鶴子が忘れられずいとおしかった。もし千鶴子と結婚が定まれば、もうあの夢とも最後かもしれぬ。そう思うと、見上げる空の色がいつもより遠ざかって深かった。
「いや、あれだけは幻影とは思えない。たしかにあれは本当だ。それだから別れがこんなに寂しいのだ。」
矢代はそうひとりぼそぼそと呟きながら、光りに射し返った金色の波の上を鰐足でまた渡っていった。
小屋へ帰ってから、矢代は千鶴子の手紙の封を切った。手紙には、彼の予想したこととはそんなに違わぬことが多かったが、その中に、彼女の母の奨める青年が早く返事をくれとしきりに迫って来ていることと、今一人別の青年と二方から押し
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